聖女エマ【2】
フィクタ様から話を持ち出されて数日後。
私はおおよそ二年ぶりに中央神殿を出て、今代聖女就任三年を祝う宴が催されるというインぺリウム城へと向かっていた。
インぺリウム城も中央神殿と同じく王都の中心部に位置しているため、移動距離はそれほどない。馬車で数十分という程度である。それでも久しぶりの外出とあって、私は移動中も馬車の窓枠に張り付きながら、市井の様子を目に焼き付けていた。
清潔が保たれた街並みを歩く人々の表情は基本的に明るく、とても活気がある。子供たちのはしゃぐ声も耳に心地いい。まさに平和を体現したような光景に、自然と頬が緩んでいく。
「聖女様、あまり御身を露出されぬように。警護は付いていますが、貴女は誰よりも尊いお方なのですから」
「ちゃんとカーテン越しにこっそり覗いてますし、大丈夫ですよ」
向かい側に座るフィクタ様のお小言も今日ばかりは適当に流してしまう。それほどまでに外出は貴重なのだ。たぶん今日を過ぎればまた年単位で神殿に閉じ籠る生活が待っている。
それが分かっているからか、フィクタ様もあまり強くは言ってこない。ただ、仕方がない子だなぁという生温かくも優しい視線を送ってくるだけだ。二十四歳のフィクタ様からすれば、十七歳の私はまだまだ子供のようなものなのだろう。
そうこうしているうちに馬車は恙なくインぺリウム城の城門を潜っていった。
城を守る兵士たちは、私たちが乗る馬車が通過すると深々と首を垂れる。私はそこで窓の外を見るのを止めて、大人しく座席に座り直した。
人から無条件で頭を下げられるのはどうも苦手だ。見ていてあまり気持ちのいいものではない。
敬われているのは分かるので無下には出来ないし、立場的に慣れなければいけないのも理解しているんだけれど――
「……本当に、貴女は慎ましい性格をしていらっしゃる」
そんな私の態度を受け、フィクタ様がクスリと笑みを漏らした。なんだか想像以上に彼の中で私の言動が美化されているのを感じて居たたまれなくなり、私は反射的に俯いて視線を膝へと落とす。
するとフィクタ様はおもむろに手を伸ばして私の頭を柔らかく撫で始めた。慰めているのか褒めているのか、はたまた両方か。
どちらにせよ彼の手の動きに合わせてさらりと揺れる長い黒髪が自ずと視界に入ってくる。
自分の髪。聖女たる証。どこまでも真っ直ぐな黒色。
「本当に可愛らしいですね、私の聖女様は」
甘やかすような声を聞きながら、私はちらりと視線だけを動かしてフィクタ様を盗み見る。彼の満足げな表情を見る度に、必要とされていることを強く感じて安堵する。
私はこの人にだけは失望されたくはない。
もし冷たい眼差しを向けられたら――と、考えるだけで恐ろしい。
共に過ごすようになって既に三年。
誰よりも傍に居てくれるフィクタ様のことが私は大好きだ。
心から尊敬しているし、信頼もしている。
だからこそ役に立ちたいと思うし、彼が自慢に思えるような聖女でありたいと思っている。
「――聖女エマ様。此度のご来訪、心より歓迎いたします」
馬車を降り、城内にある応接間へと通された私たちを恭しく出迎えたのはこの国の国王陛下――インぺリウム七十八世である。その隣には美貌の王妃様が同じく歓迎の意を示す笑みを浮かべていた。
公式的な立場上、聖女である私は国王陛下よりも尊い存在ということになっている。
私はフィクタ様へ軽く目配せをした後で、聖女としての楚々とした笑みを顔面に貼り付けた。
「こちらこそ、此度は私のために祝宴を開いてくださり感謝申し上げます。日々の祈りもございますので明日にはお暇をいたしますが、今宵は皆様との親交をぜひ温めさせていただければと」
昨日の夜に考えていた言葉をつらつらと述べれば陛下たちの表情が一層、柔らかくなる。
「おお、なんと慎み深くお優しい……! 今代の聖女様はまさに我が国の誇りだ」
「フィクタ神官からも聖女様の献身は聞き及んでおります。こうして直接お顔を拝見出来て我々も嬉しく思っておりますのよ」
「そう言っていただけて私の方こそ光栄に存じます」
心の中では早く終わらないかなぁと考えながら、目の前のやんごとなき方々との会話を続ける。
すると話題は自然と今夜の祝宴へと移っていき――
「今宵の祝宴では是非、我が息子リヴェルタスを聖女様のエスコート役に……」
と、国王陛下直々の申し出を受けた。あからさまな距離の詰め方に私は少しだけ困ったような笑みを作ると、隣に控えるフィクタ様へ判断を丸投げする。彼はすぐさま私の意を汲み、口を開いた。
「陛下、申し訳ございませんが聖女様は公の場には不慣れですので。僭越ながらエスコートは私が務めさせていただきたく存じます」
「……それは聊か過保護ではないかね、フィクタ神官。我々にとって今宵は大変に貴重な機会なのだ。聖女様とのお時間を少しぐらい譲っても罰は当たるまい?」
「勿論、皆様との交流を聖女様も大変楽しみになさっております。それを邪魔するつもりは毛頭ございませんが――」
難色を示す陛下を後目にフィクタ様は私に一度視線を向けると、より一層笑みを深めた。
「エスコートとなれば話は別かと。陛下もご存じの通り、私は聖女様の世話役であると同時に……婚約者でもありますので」
……んん?
ちょっと待って、それは私も初耳なのですがフィクタ様……???