プロローグ
慣れないベッドでの眠れない夜に。
突然、音もなく目の前に現れた白い髪の青年が私に対して小さく言った。
「――頼む、俺と一緒に来てくれ」
驚きすぎて声も出ない私を、左右で違う色をした瞳がじっと見据えている。
月明かりだけが淡く差し込む寝室でもはっきりと分かる左目の赤。
もう片方はこの世界では大変珍しい、だけど私としては馴染み深い黒。
髪も瞳も綺麗な色だなぁ……と酷く場違いなことを現実逃避がてら考えていると、黒い外套の合わせ目から武骨な右手がこちらへ差し出される。
私はベッドの上に座ったまま動かず、とりあえず視線だけで白い人の端正な顔と傷痕が目立つ掌を交互に見た。
本当ならば、許可なく寝室に侵入してきたこの怪しい青年を私は拒絶しなければならない。
扉のすぐ向こう側には護衛兵が居るのだから、少しでも大きな音を立てれば即座に異変を察して飛び込んでくるだろう。とても簡単なことだ。
なのに、どうしても実行する気にならない。
何故なのだろうかと不思議に感じて改めて思考を回せば――自然と答えに辿り着いた。
私は心を落ち着けるように一度、深呼吸をした後でベッドからそっと降りる。
そして寝間着である絹のワンピース姿のまま彼の方へと自分から近づいていき、見た目通り冷たく硬い指先に己の指を乗せた。その存在を確かめるように。
すると私の突飛な行動に動揺したからか、白い人は大きく目を見開いた。
ああ、うん、やっぱり亡霊なんかじゃない。ちゃんと生きてる人だ。
安心した私は視線を下から上に向けた。そして、端正な顔立ちの中にある赤と黒の瞳へ問う。
「……どうして、泣いてるの?」
瞬間、瞠目して震えた彼の長いまつ毛が目じりに溜まっていた水滴を弾いた。
温かい雫が私の頬を微かに濡らす。不思議と不快感はない。私は視線を逸らさず、ただひたすら答えを待った。そうするべきだと、本能が告げていたから。
それからしばらくして。白い人は自分の唇を軽く噛むと、
「――……やっと、会えたから」
どこか痛みを堪えるように、だけど優しい眼差しのままに微笑んだ。堰を切ったように彼の頬には幾筋もの雫が零れ落ち、月の光を反射してキラキラと輝く。
男の人の涙を美しいと思ったのは、これがたぶん初めて。
だけどそれ以上に、私は胸の奥が圧迫されるような切なさに襲われていた。
思わず腕を伸ばして彼の頬をそっと拭いながら、私は意識的に外に聞こえないような声音で尋ねる。
「私に会いたかったの? もしかしなくても……私が聖女だから?」
――そう、私は聖女だ。この国にとって唯一の、特別な存在だ。
潤沢かつ神聖な魔力を持つ私を欲しがる人は国内外を問わず珍しくない。
だから普段は神殿の奥深くから出ることもなく、一日中、国を守護するための祈りを捧げている。
聖女に就任してから三年間、ずっとそうやって慎ましく生きてきた。
しかし私の予想に反して、彼は静かに首を横に振った。
「俺が会いたかったのは聖女じゃない、お前だ」
「……それって同じ意味じゃないの?」
「違う」
即座に否定されて困惑する。いつの間にか彼の涙は止まっていた。そこでふと気づく。思っていた以上に彼との距離が近い。呼吸の音すら拾えてしまいそうなほどに。
冷静さを取り戻した私が慌てて数歩下がろうとすると、白い人は右腕を伸ばして私の左腕を捕まえる。
そして彼は再び言った。
「とにかく、俺と一緒に来て欲しい」
「……どこへ?」
「魔女のもとへ」
「魔女?」
聞き覚えのない単語に首を傾げれば、白い人はもどかしそうな表情をする。
「……今は説明している時間がない。頼む、何も聞かずに来てくれ」
「それは……流石に無理よ」
私は聖女だ。聖女は神殿のある王都から離れることは出来ない。そう決まっている。
その魔女とやらが何処に居るのかは知らないが、勝手に抜け出すことは赦されないのだ。
「せめて、フィクタ様に相談して許可をいただかないと――」
私がそう小さく呟くと、白い人が何故か傷ついたような表情を覗かせる。
同時に私を捕まえる指の力が強くなった。まるで絶対に離さないと言外に示すように。
聖女としては腕を振り払って外に助けを求めるべきだと理解していた。
けれど白い人の顔を見ていると喉が詰まって声が出なくなる。彼を傷つけたくないと無意識に抵抗を止めてしまう。結果、どうしたらいいのか分からず、ただただ相手を見つめ返すことしか出来ない。
彼は彼で私が首を縦に振るまで動かないつもりなのか、沈黙を貫いていた。
そんな私たちの均衡を破ったのは、控えめに叩かれた扉のノック音だった。
反射的に扉の方を振り返れば、
「……聖女様? 起きていらっしゃるようですが、どうかされましたか?」
「っ!? フィ、フィクタ様……っ」
聞こえてきた声の主は、私が最も信頼を寄せる神官――フィクタ様のものだった。
予想外の事態の連続に動揺を隠し切れない私に気づいたのか、フィクタ様の声のトーンが低くなる。
「――失礼いたします」
「っ……!?」
フィクタ様はこちらの許可を得ることなく、性急に扉を開けようとした。
だけど私がフィクタ様と視線を交わすことはなかった。
何故ならその直前に白い人が私の身体を自分の胸に押し付けるように抱き込み、魔術を発動させたから。
「術式起動――指定座標への強制転移」
白い人を起点に赤い閃光が周囲を奔った瞬間。
ぐわん、と脳が揺れるような衝撃を体感した私は、そのまま落ちるように意識を失った。