3.
手伝いも兼ねて、おふくろはお寺さんの親族と寝ずの番をするというが、俺は2時間ほどで通夜から祖父さんちに逃げ帰った。
そりゃおふくろは地元だからいいだろうが、俺としては顔も知らないご近所さんばかりである。それに囲まれるのは、なかなかに気疲れがする。
靴を抜いて上がり框に足を乗せたところで、もらったお清めの塩のことを思い出した。適当に体に振りかけてから、手早くぱっぱと払い落とす。
空気に当てられたのか、ひどく気怠かった。
とりあえず熱い風呂にでも浸かって……などと考えていたのだが、どうも想像以上に疲労が溜まっていたものらしい。
着替えて、重い肩をぐるぐる回しつつ、「ちょいとひと休み」と延べっぱなしだった布団に転げた先の記憶がない。おそらくは抗し難い眠気に捕らわれたのだろう。
そうして、また夢を見た。
落ちる寸前の真っ赤な夕日。
血のようなその光に染め上げられた一室に、まだ小さな俺がいる。
それは目を覚ませば忘れてしまうあの夢の続きだった。
現在の俺の意識が混じって竦む夢の俺の眼前で、ぷつんと、触れてもいないラジオの電源が入った。
「ざああああ」
と、またそれは喋り出す。
ノイズではない。明白な意志を備えて、誰かが何かを告げている。まだ波長が合い切ってないから、上手く聞き取とれずにいるだけだ。聞き取らずにすんでいるだけだ。
けれど、ああ、それは時間の問題なのだろう。
ゆっくりと、だが確実に、チューニングが進んでいく感触があった。
雑音は雑音でなくなりつつある。
同時に、再びあの幻視が起きた。
いつしか立っていた、人型の黒い靄。全て不鮮明であればよいのに、口元だけがはっきりと像を結ぶ。にちゃり、と上下に開く唇。覗く歯のない、紫の歯茎。その奥で踊る、やはり紫色に腐れた舌。
「ざああああああ」
呟きながら、靄はこちらに手を伸ばす。
気が狂いそうなほど緩慢に、指先はじりじりと俺の顔へと迫る。
これに触れられたら終わりだ。そう直感した。
ちょうど電源を切られたラジオみたいに、きっとその瞬間に俺は俺でなくなる。ぷつんと命とそれ以上の何もかもを失って、そのままこれに囚われる。後に待つのは、想像すら恐ろしく悍ましい業苦だろう。
「ざあああああ」
女の紡ぐ恨み言に、俺は違うと首を振る。
知らない。知るものか。俺じゃない。人違いだ。
俺はお前を殺してなんてない。
声にはならない胸の内の絶叫に、しかし彼女は楽しげに目を細めた。
それで、そんなことは百も承知なのだとわかった。
関係ないのだ。
この女には関係がない。俺が彼女を殺した男であろうと、そうでなかろうと、一切無関係だ。
恨みを晴らすとかそういうことではなく、ただもう自分を認識できる人間を、自分より凄惨な目に遭わせることだけに専心している。他人に苦痛を与えることに愉悦している。
あの時は。
そうだ。あの時は、ここで祖父さんが離れに飛び込んできたんだ。そうして鬼の形相で一喝すると、靄はばちんと散ってしまった。
泣きじゃくる俺をあやしつつ、祖父さんはお寺さんを呼んだ。ふたりで額を突き合わせて相談をして、それから言ったのだ。
――もう連れて来ない方がいい。波長が合っちまったかもしれんからな。
――なあに、大丈夫だ。俺の目が黒いうちは、あれをお前に寄らせはしない。
だが祖父さんはもういない。俺は、ここへ来てはいけなかった。
遅すぎる気づきと同時に、もうひとつ光景を思い出す。
お寺さんが持っていった祖父さんのガラクタ。あの中に、このラジオも混ざっていたはずだ。だとしたら、お寺さんの死にもこいつが。
もう逃れようもない指先を見つめつつ、俺は諦念から脱力する。夢の俺も、ぺたりと床にへたり込む。
その分だけ開いた距離を、ゆっくりとまた指先が詰めてくる。
今にも触れんとした、その時。
ぴんぽーん、と間抜けたチャイムの音で目が覚めた。
全身に、べっとりと汗を掻いていた。ひどく嫌な夢を見ていた気がする。時計を見やれば午前2時を回っていた。少しうたた寝たつもりが、随分と惰眠を貪ったようだ。
ずきずきと痛む頭を振っていると、そんな鈍く重い俺の反応を咎めるように、ぴんぽーん、ぴんぽーんと繰り返し玄関が騒ぐ。この刻限に他家を訪れる阿呆はいまい。
とすれば玄関先に居るのは、間違いなくおふくろだろう。
忙しないチャイムの鳴らし方もそうだが、あの人はどうもそそっかしいところがある。ちょっと足りないものを取りに帰ったはいいが、そこで初めて鍵を持ってないのに気づいたとか、大方そんなところだろう。
へいへい今行きますよ、と聞こえやしない返答をしつつ、俺は立って鳴り止まぬ玄関へ向かう。
「こんな時間に連打したら近所迷惑だろ。一体何を忘れ……」
靴を突っかけ、言いながら鍵と引き戸を開けて、俺は絶句した。
チャイムは、確かにその一瞬前まで鳴っていた。引き戸のガラス向こうに、人影を見たようにも思う。
が、玄関先には人っ子ひとりいなかった。ただ、しんと夜の闇が横たわるばかりだ。
謂れのない恐怖に捕らわれかけて、もう一度頭を振った。夢見が悪くて、夢中のそれを現実のチャイムと混同し続けたのだ。聞いたつもりの幻聴だったに違いない。
そう結論づけて、けれど入念に施錠して、部屋へ戻ろうと向き直り――そうして、息を飲んだ。
今まで何もなかったはずの上がり框。
そこにちょこんと、ラジオが乗っていた。
女性受けを狙ったものだろう。かつてはピンクに愛らしく塗装されていたと思しきそれは、全体に赤茶けた錆を噴いて見る影もない。
途端、わっと夢の記憶が押し寄せる。
一瞬で全身が冷え切る感触がした。口の中がからからに乾き、我知らず手足が震える。
逃げなければ、と思うより先に、ぷつん、とラジオの電源が入った。
そしてそれは、
「ざああああああああああ」
と言った。
限界だった。完全に腰が抜けて、ぺたんと俺は三和土にへたり込む。
いつかしらラジオから立ち上った靄が、色を濃くして人の形を成した。
滑るように動いて距離を詰め、それは身を折って俺へ頭部を近づける。
にちゃりと唾液の糸を垂らして開く唇が、はっきり見えた。
歯のない歯茎と舌だけが蠢く紫の口中。
べたりと、濡れて気色悪い腐肉の感触が頬を這う。
のぞき込む姿勢で女は俺に顔を寄せ、告げた。
「ざあああああああ」
ぷつん。
了