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8. アルバイト開始から脱出前日まで

あっという間に夏が過ぎ秋も去り、季節はもう冬の入口である。

この半年ほどの間に色々と大きな変化があった。


いちばん大きな変化は『篤史くん』の精神状態が極めて安定し、落ち着いた事だろう。

引っ込み思案で内向的な『篤史くん』にとってアルバイトを始めたことは本当によい影響だった。


工場で延々とラベルを貼ったり中身のチェックをしたりする単純労働は私には苦痛な作業であったが『篤史くん』にとっては天職だったようで、最近では『篤史くん』に主導権を渡してもくもくと作業をしてもらっているうちにあっという間に時間が過ぎていくようになっていた。


パートのおばちゃんとの会話も、初めのうちは私が受け答えしていたものだが、簡単な返事くらいはいつの間にか『篤史くん』が応えてくれたりしている。


職場での私は「高校受験に失敗して路頭に迷い、一念発起してアルバイトを始め定時制高校の入学準備を進めている苦労人」という微妙に嘘を交えた設定で挑んだところ、主婦の皆様に大変気に入られてしまい、お昼休憩のご飯の時間におかずを分けてもらったりする仲となっていた。


これがどうにも『篤史くん』にとってはくすぐったいようで、お礼におかずを作り返して持っていくと更に喜ばれたりして、すっかりおばちゃんたちのアイドルのようなポジションに収まっていた。


ふっふっふ。『篤史くん』はとっても可愛らしい男の子なのだよ。今はおばちゃん達のオモチャみたいな扱いになってしまっているが、自分に自信を持てるようになってちゃんとおしゃれもすればきっと若い女の子からもモテモテになるに決まっているのだ。


まあそんなことはどうでもいい。

ともかく職場ではそんな具合だったから、『篤史くん』はアルバイトがすっかり楽しくなって、それで見る見るうちに色々と変わっていったのだった。

けれどもこれは当然の結果なのだ。

なぜなら「働くとお金を稼ぐ事が出来て、自分の稼ぎで生きていける」というリアルな実体験こそが『篤史くん』にもっとも必要な成功体験だったのだから。


働き始めの6月は見習い料金で一週間程度の勤務だったからたかだか数万程度の安月給だったが、7月20日になって始めて振り込まれた給料に我知らず私は涙で前が見えなくなった。


それはまさに、『篤史くん』の心が揺さぶられた瞬間だった。

嬉しいでも楽しいでもなく、ただただ衝撃に心が打ちつけられた瞬間だった。


『篤史くん』にはずっと分からなかったのだ。世の中がどのような仕組みで動いていてどうすればこの先自分が生きて行けるのか、全然イメージが湧かなくて、自分が将来どうなってしまうのかが全然分からなかったのだ。

『篤史くん』にとっては明日の未来も真っ暗で不透明だった。高校受験に失敗した15歳の『篤史くん』は何もかもがお終いのように感じて、自分がどうなっていくかも分からなくなってしまった。


それが今、こうして仕事をしてお金をもらった瞬間、「なあんだ」と理解してしまったのだ。


世界はこんなふうにして動いている。現実の今を生きる『篤史くん』の2018年の7月は、こんなふうにして給料が振り込まれることでその先の未来へと人生が繋がっている。


これこそが今の『篤史くん』が本当に知りたかった現実だったのだ。

そして今まさに『篤史くん』はそれを理解した。


だから篤史くんは、銀行口座に振り込まれたたった2万4380円の入金にこんなにも魂が震えるのだ。


私は自分自身の初めてのバイト体験と比較してみて、自分が恥ずかしくなってしまったよ。私はただ単に「お金を稼ぐのって簡単なんだなぁ」って頭の悪い感想しかなかったからね。

『篤史くん』にとってはこんなにも衝撃的な事だったんだね。


人によって物事に対する感じ方は色々だけれど、こんなにも『篤史くん』が感動してくれるなんて思いもしなかった。

私は『篤史くん』の為にアルバイトを始めて本当に良かったと心の底から嬉しく思ったよ。


けれどもこんな事はまだまだ序の口なのだ。

『篤史くん』はこの先家を出て一人暮らしを始めて、自分の稼いだお金だけで生活をする未来が待っているのだ。

たかだかアルバイトで数万円稼いだくらいで満足してもらっては困る。

君の薔薇色の人生は今始まったばかりなのだから。



さて、そんなこんなで『篤史くん』の毎日が好転すると、合わせて周りも色々と変化が出てくる。


その中でも特に気持ちが悪い変化は義母との関係性だった。


人生に張り合いが出てきた『篤史くん』は色んな事に前向きになれるようになり、その変化が最も如実に表れたのが毎日の食卓である。

お料理大好きな『篤史くん』はスマホの検索などを駆使して変わった食材や新しい調理方法を積極的に試すようになり、そのどれもが大変美味しかった。


これに目ざとく気付いたのが義母であった。

「最近、『アツシ君』の作るご飯がとってもおいしいわ。何かコツでもつかんだのかしら?」

たまたまその日は機嫌がよかったのだろう。義母が嬉しそうに話しかけてくる。


私としてはこんなバカ女と会話をするだけでも反吐が出そうになるので無視してもよかったのだが、『篤史くん』には嬉しい事だったらしい。

『篤史くん』は自分のスマホを手に取って、先ほどまで見ていた料理サイトのページを義母へと見せた。

なんてことない半熟のゆで卵だが、浅漬けのもとに漬けるだけで美味しくなるといった記事に、義母も「へええっ」と感心した声を上げる。


他にも、ここ数日の献立の参考にしたサイトをいくつか紹介してみせると、「すごいじゃないの!」と、まるで童女のごとき純真な笑みで喜びをあらわにする義母。

私はその気持ちの悪い笑顔に「おええええっ」と思わず吐きそうになってしまったが、『篤史くん』はまんざらでもなかったようだ。

嬉しい気持ちがぽかぽかと春の陽気のような気配となって、私の心に伝わってくる。


はあっ。


仕方がない。

『篤史くん』がいい気分になるならばそれもよいか。


そもそも私とて、義母と余計な諍いをして無用にエネルギーを使うつもりもない。


直前までいつも通りの距離で付き合って、ある日突然この女の前から姿を消す。

そういう計画で話を進めているのだから、少しばかり仲良くなったって別に問題があるわけじゃない。


けれども『篤史くん』!

私達はいずれこの女とは赤の他人になる間柄なんだからね?

不用意に心を許して、ヘンに面倒になる関係は駄目だからね?

距離感を間違えずに付き合って、いつでもサッと逃げられるようにしないといけないんだからね?


私の苦言にコクコクと頷く気配の『篤史くん』。

どうにもよく分かっていない様子だがまあ仕方がない。

ここは私が気を付けるようにしなければ。


そんな事を考えていた矢先、早速義母がやらかしてくれた。


義母は突如「A5和牛のステーキが食べたい」などと訳の分からない事を言い出し、「そんなお金はどこにもない。」と、最近つけ始めた家計簿を片手に私が突っぱねると、拗ねた義母がぷりぷりと腹を立てながらも2万円以上もするそれを、自分のカードを使ってネットでポンと注文してしまった。


なんという無駄遣いを平然とする女なのだ!

時給1000円の篤史くんの数十時間分の労働と同じだけの金額をさらりと数分で消費しやがったぞ!

おまけに綿密な計算で1週間先まで完璧に立てていた『篤史くん』の献立計画が一瞬で台無しになってしまった!

だいたい肉だけあればいいってもんじゃないぞ! 美味しいステーキを焼くには調理器具やら何やらの準備が大変なのだ!


「お金がないなんて小さなこと言わないでちょうだい。」ドヤ顔でそう言ってみせる義母に殺意を覚えつつ、「ぼ、ぼくはプロじゃないので上手には作れないかもしれません……。失敗してもあ、後で文句、言わないでください……。」とどうにか最低限の反論をかまし、ともかく私と『篤史くん』で知恵を絞って対策を考える。

無駄に豪華なステーキ肉に合わせた副菜や汁ものなどの事も考えると頭が痛くなってくる。

一から計画の練り直しじゃないか!


そんな中で物置に片づけていた亡父のキャンプ道具の一つ、大きめのサイズのスキレットが残っていたのは助かった。

あの馬鹿義姉にはこういった玄人向けの道具の良さは分からなかったのだろう。


そういえば義姉がこの間物置の前でガサゴソやっていて、『篤史くん』が声を掛けてやったら一目散に逃げだしたのだが、何やら南京錠を無理やり工具で破壊しようとしている跡があった。

全く油断も隙もありゃしない。

これ以上お前に父の形見を売りさばかせたりはしないぞ! 私と『篤史くん』は追加でセンサーに反応するライトをつけてやったのだった。おっとこれは閑話休題。


ともかく立派な鉄製のスキレットが残っていて、長らく放置されていたため少々錆が浮いていたが、きちんと手入れをして肉を焼くのに使ってみれば、ちょっとびっくりするくらい美味しいステーキとなって、これを食べた義母は大喜び。


どうにか面倒なミッションをこなせた私と『篤史くん』はホッと一安心したのだが、この一件に義母はすっかり味を占めてしまったか、その後もちょくちょくバカみたいな高級食材を買ってきては『篤史くん』に料理を作らせようとして、そのたびに『篤史くん』と私は右往左往させられる羽目となった。


高級地鶏の丸鶏なんてどう調理すればいいんだ……。

ちょ、おま! 伊勢海老!?

勘弁してくれ!

だいたいなんで毎回肉系なんだ! お前の高級食材はすべて動物性タンパク質なのか! 発想が昭和のビンボー人なんだよ!


私は何度も抗議の声を上げたが、義母はニコニコ笑ってまるで聞く耳を持たない。

何が腹立たしいって、義母はどうやら善意で高級食材を買い与えているつもりなのだ。

「『アツシ君』も勉強になるでしょう?」などと訳の分からない理由をつけては、次から次へと高い食材を買い漁ってくる。


全くこの義母は敵対している時もしんどい相手だったが、こうして親切心を発揮されるとますますもって面倒な女だったのだ。


私としては今すぐにでもこの女から逃げ出したい気分だったが、幸いにもアルバイト生活が軌道に乗った『篤史くん』の精神状態が極めて安定していたため、義母のリクエストする無茶な高級料理に面白がって挑戦する心の余裕があり、『篤史くん』が楽しめているうちはいいかと私も目をつぶることにしたのだった。

なにより他人の金で極上の『篤史くん』ごはんを食べられるのは私がいちばん嬉しいし。


そんなこんなで結果として、私達と義母の仲は見かけの上では急速に改善してゆくことになった。

「『アツシ君』の作るお料理は癒されるわぁ。」などと気持ちの悪い賛辞を述べ、毎日早くに帰ってくるようになった義母の変わりようには反吐が出そうになるが、それも今だけのことだからとグッとこらえる事にする。


最近ではすっかり機嫌のよくなった義母はポンと小遣いを手渡そうとしてきたり、突如二人で出かけようなどと言い出したりして、私はこれらを躱すのに毎回神経を使わされてへとへとにさせられた。


義母曰く「母と息子のスキンシップ」との事だったが、私にしてみれば女王様にかしずく奴隷になった気分だよ。



ともかくこのようにして義母との関係性が変わる反対側で、義姉の立ち位置は急速におかしくなっていった。


まず先日のスマホ料金の件で義母と義姉は喧嘩したままだったから、二人はお互いに口もきかなくなっていた。

そんな中で義母と『篤史くん』の仲が急速に改善されていったものだから、家の中での義姉の立場はどんどん悪くなっていった。


さらには義母は『篤史くん』の料理目当てに早くに帰ってくるようになってきたから、義姉が『篤史くん』に高圧的、暴力的にふるまう機会は少なくなっていった。


おまけにその数少ない攻撃の機会が、早めに帰宅してきた義母の目に思いっきりとまってしまったのだから目も当てられない。


その日『篤史くん』と私は義母の無茶なリクエストに応えてせっせとロールキャベツ用のひき肉をこねていたのだが、「男が料理してるのなんかキモイ」というとっても理不尽な理由で絡んできた義姉が、つなぎの材料として用意していた生卵を手に取って投げつけてきて、的が外れて明後日の方向へ飛んでいったそれがリビングのドアを開けた義母の顔にぶつかったのはギャグ漫画か何かかと思った。

何やらコアタイムとかで早くに帰れた義母が『篤史くん』を驚かせようとそっと入ってきたらしいのだが、結果としてつかみ合いの喧嘩が始まり大惨事となった。


もちろん私も『篤史くん』もそんな彼女達に付き合うつもりなど微塵もないから、素早く2階の自室に逃げ出し、次いでこのまま家にいても二次被害に遭いそうだと判断した我々はベランダからそっと逃げ出し、コンビニで適当におにぎりなどを買って本日の夕食としつつも、夜遅くになって寝静まったタイミングを見計らって自宅に戻った。


リビングを始め家の中はぐちゃぐちゃでうんざりとさせられたが、義母も義姉もそれぞれの自室で寝てしまっていたようだから、最低限の片づけだけをして私と『篤史くん』もそのまま寝た。


次の日から義母と義姉の仲は決定的に違えてしまった。

義母と義姉はずっと偽物の仲良し母娘を騙しだまし演じ続けていたが、ついにお互いに相手の嘘につきあえなくなったのだった。

私にしてみれば、バカ女とクズ女の不毛な争いにしか見えなかったが、ともかくこの家で初めての事ではあった。

それで義姉は次第に家にいない時間が多くなっていった。朝はすぐに家を出て、夜はいつまでも帰ってこなくなった。

休みの日にもすぐにどこかに出かけて、時には次の日まで帰ってこない。


ずいぶんと可愛らしい反抗期だなぁと私は思わず鼻で笑いたくなったのだが、義姉にとっては精一杯の抵抗であるつもりらしかった。


アホか!


ところがこれが意外にも義母の菜穂子さんの心には辛かったようで、オロオロしながら頭を抱える様子に見ているこっちが頭を抱えたくなった。


お前今まで実娘の由紀奈さんともまともに向き合ったこともないくせに、こんな状況になって初めて母心が疼いて今さら不安に駆られるのかよ!


アホか!


私としてはそんなアホな母娘のアホな様子を生暖かい目で見守るくらいの事しかすることがない。

まあそれ以前に私と『篤史くん』は軌道に乗り始めた毎日のアルバイトが忙しく、いちいちアホな家族ごっこに付き合っている暇もないのだが。



そんな中、ある日義母が甘ったるい声でこう話しかけてきた。

「ねえ『アツシ君』。由紀奈の事、どうすればいいと思う?」


そんな事知るか!


私は血管がブチ切れそうになるのを堪えるのに必死になってしまった。

何なのだこの女は! 何故貴様の責任範囲である実娘の子育ての相談を義息子である『篤史くん』に相談するのだ!

私は貴様の夫ではない! 『篤史くん』も本来はお前が面倒を見るべき子供の一人なのだぞ!


だがそんな事を今さら言いだしたって仕方のない話である。そもそもこの女が『篤史くん』の母親だったことなどただの一度もないのだ。

それが最近の『篤史くん』が頼りになる存在になりつつあるからって、勝手に夫役を押し付けようとしてきているだけなのだ。


自分に都合のいいよう、相手に役割を押し付けてくるバカ女。

こういった輩には何を言ってもどう対応しても無駄だ。ともかく一刻も早く距離を置くしか手立てはないのだ。


私は努めて冷静さを装いながらこう返してやる。


「ぼくには分かりません。ぼくは子供なので。」


「そう……。そうね。」それは義母が期待していた返事ではなかったようで、この女はなにやらしょんぼりとした様子になる。

この美しい女に気のある男性なら慌てて取り繕ってもっと気の利いた返事を考えるのだろうが、あいにくと私にとってはただのクソ女だ。

どうせこの女は「叱りつけるべきだ」とか「学校の先生や専門家などに相談すべきだ」だとか「家族三人で話し合いの時間を作りましょう」とか言ってほしいのだろうが、貴様の望む答えなど言ってやるものか!


だがせっかくだから前から言いたかったことを言ってやる。

「毎回ごはんを無駄にするのは辛いので、由紀奈さんの分の食事を無駄に作ったりするのは控えるようにしたいのですが、いいでしょうか?」

訴えかけるようにお願いすると、「え、ええ。」義母はこくりと頷いた。


やった! これで無駄な食費が抑えられる! 


私は『篤史くん』と共謀して家計の見直しを徹底的に進めているところだったが、義姉のために割かなければならない無駄な出費が思いのほか圧迫しており、何とかしたいと考えていたところだったのだ。


なぜ『篤史くん』が義母から預かった大切な食費・生活費を割いてまで義姉のためにハーゲンダッツを切らさず買い続けねばならないのか!


義姉関連の無駄な出費は他にもいっぱいある。これからは全部やめてやる。

全部義母の名前を借りてやめてやる。


嬉しくなった私は思わず笑ってしまった。


すっかり気分の良くなった私につられてか、義母もなにやら嬉しそうに笑った。

何もよく分かっていない女の間抜けな笑顔であった。



それから数日後、珍しく食卓についた義姉が「早くご飯の用意をしなさい。」などと宣うのでこう返してやる。

「事前に言ってくれなければ用意はありません。」

義母からは残業で遅くなるという連絡を受けており、この場にはいない。それでも夕飯は食べるとコメントがあったから、先ほどまで準備していた食事は義母の分なのである。

この義姉に食わせるメシなどない。


「はあっ!?」途端に声を荒げる義姉。

だが私にはちっとも怖くない。それどころか『篤史くん』から見ても、義姉の事はちっとも恐ろしくもなんともなくなったようだ。

だから私はどもることもなくはっきりと義姉にこう宣言することが出来る。


「ご飯が必要なら事前に言ってくれなければ準備できません。お義姉さんは一昨日も昨日もご飯を食べませんでした。必要ない分を作るのはお金の無駄だとお義母さんにも強く言われてます。だからもう、あなたの分の食事は作りません。」


「はあっ!?」義姉はそのまま掴みかかって来んばかりの様子だったが、くるりと踵を返すと冷蔵庫の中にしまってあった義母のための食事に手を掛けようと始めた。


私はサッとスマホを取り出して動画撮影を始める。

こうなるだろうことは予め予想していたので、証拠の動画を取ってやろうと準備していたのだ。


ただならぬ雰囲気を察した義姉が振り返って大声を上げる。

「あんたなにしてんのよ!」


こっちも負けずに声を張り上げてやる。

「動画にしています……! お義母さんに報告するためです……! お義母さんの分を義姉が勝手に食べたって……! 報告するためです……!」


義姉が飛び掛かってきた!

「ふざけんな! バカ『アツシ』!! 今すぐ止めろ!!」


私は逃げながらも振り返り、鬼の形相で近寄ってくる義姉を映し続ける。

「やめません! お義母さんに報告します! 全部言います!!」


それから私と義姉はどたばたとリビングの周りを駆け回った。なんだかコントみたいな一幕で、思い返すと笑いしかないのだが、その時は義姉も必死だったろうし私も『篤史くん』も必死だった。

それでバタバタとやり合ってから、義姉はついに観念したのか、「バカ『アツシ』! 死ね!!」などと幼稚園児のような捨て台詞を一つ吐いてから、そのまま逃げるようにしていなくなった。


程なくして義母が帰ってきたが、私は先ほどの動画を見せたりはしない。あんなものはただの脅しだ。

私は義母と義姉を必要以上に争わせるつもりはない。余計な波風を起こしてしまうと先行きが不透明になって却って動きづらくなる。

私達はただ、義母とも義姉とも縁を切りたいだけなのだから。


ともあれこの日を境に義姉は『篤史くん』に直接ちょっかいを出すような事はなくなった。食事についてもどう工夫しているんだか、『篤史くん』が用意しなくても勝手にもそもそと何かを調達して食べるようになっていた。

たまに食パンの消費が早くなっていたり買い置いていたカップ麺がなくなっていたりしたが、そこは武士の情けという事で見逃してやることにする。


なにせ圧倒的に支出が減ったのだ。

義姉への余計な出費をしなくてよくなってから驚くほど家計は安定し、月々の支払いは5万円を切るようになった。

あいつマジで金食い虫だったんだなぁ。

そういえば以前は宅急便の着払いとかで勝手に注文入ってたりして、全部『篤史くん』が立て替えてたけど、そんなのも支払わなくなったら一挙に支出が落ち着いたなぁ。

害虫を駆除して家計がすっきりし、なんだか清々しい気分である。


ところで私としては浮いたお金を『篤史くん』のものとして懐にしまってもいいように考えていたのだが、『篤史くん』は手を付けたくないようなのでここは従うことにした。


このお金はもともと亡くなったお父さんの遺産から捻出されているお金なのだから可能な限り残しておきたい『篤史くん』の気持ちもよく分かる。

ただし、思わぬ出費が発生してまとまったお金が必要になる可能性はいくらでもあったから、義母に言って振り込みの金額を少なくしてもらうのではなく、浮いたお金はプールしておくようにする。


こんな風にして私と『篤史くん』による新しい生活は順調に推移していった。



季節はそのまま夏を迎えた。


私は夏休み期間中もアルバイトを毎日続けている。

義母へは「学校の成績が振るわず補習を受けねばならなくなりました。」と嘘を言ってある。

愚かな義母はそんな私の言葉に騙されてすっかり信じている。

私はもうとっくに学校など辞めてしまっているのに、ろくに調べもしない義母はそんな事実にすらいまだに気付けないのだ。

「『アツシ君』はえらいのねぇ。」なんて見当違いの感想を言ってくる。

いや、毎日補習を受けなければいけない愚かな息子という設定は、それはそれで褒められたものではないと思うのだが、義母が喜んでいるのあれば私からは何も言うまい。

なにより、「二人で旅行に行きましょう」などと唐突に言い出した義母を全力で阻止するのに「補習」設定は大いに役立ったから、私としても万々歳なのである。


義姉は8月の半ばごろから完全に家に帰ってこなくなった。

どうやら義姉は以前からお付き合いのあった年上の男性の家に転がり込んだようだった。


というのもある夏の日の昼に、義姉は男性の運転する大型スクーターのリアシートに跨ってやってきて、大きなカバンに自分の生活用品を詰める様に私は鉢合わせてしまったのだ。

義姉は高圧的な態度で「あの女に話したら殺す。」などと私を脅してきたのだが、そんなふうに虚勢を張らなくとももちろん私は話すつもりはございません。


私は義姉のことも義母の事も等しく嫌いなのだから、どちらか一方に加担するようなことは一切するつもりはないのだ。

そのあたりの点については出来れば信用してもらいたかったが、まあこの義姉にそこまでの機微を察せるはずもないか。


私は逃げるようにして立ち去る義姉の背中を笑顔で見送ったのだった。

いいなあフュージョン。私も16歳になったら自動二輪の免許取ろうかしら。まあそんなお金はどこにもないのだが。



9月に入って少ししたタイミングで、義姉の通う高校から連絡があった。

義姉は2学期に入ってから一度も登校していないようだった。


それでようやっと義母は実娘が家にも全然帰ってきていない事に気付いたのだった。

この義母は8月の途中から義姉が出てしまっていたことに数週間以上も気付いていなかったらしい。

少し前に大喧嘩してからお互いに相手を避けるようになっていたから、全然顔を合わせなくても家の中にはいるものだと思い込んでいたようなのだ。

それで勝手に学校に行っているものと勘違いしていたようであった。

それが蓋を開けてみれば全然学校になど行ってなくて、それどころか家の中のどこにも姿が見当たらない。

みるみるうちに真っ青な顔になってゆく義母の様子に、私としてはこう返してやるくらいしか思いつかない。


アホか!


義母はすっかり動揺してその場で泣き崩れてしまった。

義理の息子である『篤史くん』に何かあってもこの女が泣き出すとは思えないが、お腹を痛めて産んだ実の娘については我が事のように心配になり、涙が止まらなくなってしまうらしい。


それから一挙に様子のおかしくなった義母は、すっかりめそめそと毎日泣きながら暮らすようになった。


うーん。他にすることありますよね?

ふつうはまずは警察に相談しに行って、失踪届とか出すべきなんじゃないですかね? あとは学校の先生や義姉の友達やらに片っ端から連絡、相談してともかく居場所を探す努力をしませんと。

お金があるんだったら興信所に相談してみるのもいいかもしれませんよ?


だが私はこの義母に一切のアドバイスをするつもりはない。

だってもうすぐ私もこの家から逃げ出す所存なのだ。ヘンに義母が知恵をつけて追跡方法を覚えられても困る。


だから私は義母とは距離を置きつつ適当に付き合っていると、ある日唐突に「ねぇ。『アツシ君』。」と義母が弱り果てた様子でこちらに声を掛けてきた。


「『アツシ君』は勝手に家を出たり、しないわよね?」


私は思わず吹き出しそうになるのを堪えて適当な返事をしてやる。

「……ええ。……まぁ。」


私の言葉を肯定ととらえたのか、「そうよね。そうよね。」と、なにやら勝手に納得しだす義母。さらには重ねてこんなことを言い出す。

「なんだか最近の『アツシ君』は立派だわ。まるで『タカシさん』が戻ってきてくれたみたい。」


えええええっ!? この女、メスの顔になってるぞ!

『篤史くん』のお父さんを引き合いに出して、今にもしなだれかかってきそうな勢いだぞ!?


おえええええっ!


気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いっ!


なんなんだこの女は! 血は繋がっていないとはいえ、息子として接すべき子供相手にメスとして振舞うのか! なに考えてるんだこいつ! どれだけ残念な脳味噌なんだ!


潤んだ瞳で上目遣いにこちらを見つめてくる気持ちの悪い義母にドン引きしてしまった私は、どうにか心を奮い立たせ、「……ぼく、お掃除の続きをしてきます……!」などと適当な理由をつけてその場から逃げ出した。


義母は何やら言いたげな様子だったが、付き合ってはいけないよ『篤史くん』!

彼女の話は恐らく呪いの言葉だ! 聞いたら最後、恐ろしい場所に引きずり込まれる地獄の言葉だ!


私の慌てようにびっくりしたのか、『篤史くん』もすっかり緊張した様子で、ともかくあちこち掃除をするふりをすることで何とか義母の追撃から逃れることに成功した。


もともと二世帯住宅も考えて建てられたこの家は無駄に広く、掃除をしようと思えばいくらでも時間をつぶすことが出来る。

その事が『篤史くん』の家事を圧迫して学業がおろそかになる遠因となっていたのだが、今日に限ってはこれが良い方向に働いた。

忙しそうにする『篤史くん』に話したそうな義母もついには諦めて、すごすごとダイニングの方へ戻ってゆく。


チラリと振り返ると、ダイニングテーブルの前で椅子にちょこんと座った義母が、ポチポチとなにやらスマホをいじくっている後ろ姿が見える。


私にはこの美しい女性の後ろ姿が、憐れでちっぽけな中年女性のそれに見えた。

悲しい、悲しい、惨めで憐れな中年女の背中。

なんという悲しい絵面なのだろう!


けれども私は同情はしない。


この女は仕事にかまけ、母であることを放棄し、家の中の面倒ごとの全てを『篤史くん』に押し付けてここまで生きてきたのだ。

この女が可哀そうだというのなら、こんな女に巻き込まれて何年もの間酷い目にあわされてきた『篤史くん』はもっと可哀そうだ。


そんな『篤史くん』は今、文句ひとつ言わずに努力してこの家から逃げ出す準備を進めているところなのだ。


この女もだから、現状に問題を感じているのなら努力して自分で何とかしなければならないはずの立場なのだ。



私の中の『篤史くん』の心がずきりと痛む様子が伝わってくる。

『篤史くん』はなんだかんだ言ってこの中年女の事が嫌いではないから、弱っている姿を見るとついつい助けてしまいたくなるのだ。


だが『篤史くん』! それこそが君が向き合うべき自分自身の心の闇なんだぞ!


君はずっと、この菜穂子という女に良いようにアゴで使われて、毎日奴隷のように酷使されてきたのだ。

だが君は菜穂子さんとの間に奇妙な共依存関係、被依存関係が生まれてしまっているから、異常に気付けずつい憐れに思い同情してしまうのだ。


だが『篤史くん』! それこそが君の過ちなんだ。


今君がこの中年女に同情できるくらいに心の余裕があるのは、この女から逃げ出そうとする過程でアルバイトを始め、この女とは関係のない世界で自信がついたからに外ならない。

この女との関わり合いが小さくなってきたからこそ心に余裕が出来て、同情してやろうなんて気持ちにもなれるんだ。


けれどもそれでこの女の手助けをしてみろ。あっという間に寄りかかられて、がんじがらめに絡み取られて、アルバイトどころかどこにも行けなくなってしまうぞ。

そうすれば君は私が憑依する以前の生活よりもっとひどい毎日を送らなければならなくなるんだぞ!


だから『篤史くん』!


もし君がこの女を憐れに思うのなら、まずは君が完全に独り立ちするべきだ。一人で稼ぎ、一人で暮らし、自分だけの力で生きていける自信がついて、その時にほんの少しの余力があれば、その余力の分だけこの女を助けてやってもいい。

その時は私も君を止めはしないさ。


けれども『篤史くん』。


君は今、一人で生きていけてるのかい? 自分だけの力で立っていると、胸を張って堂々と誇れるかい?


そうでないなら今はこの女を手助けしている余裕なんてどこにもないんだ。


何よりもまず、君は自分自身を救わなければならない。真っ先に助けるべき一番の相手は、ほかならぬ『篤史くん』、君自身なんだよ?


天は自らを助くる者を助く。


『篤史くん』も聞いた事があるんじゃないかな?

元はヨーロッパのことわざだったそうだよ。


君はまず自分自身を助ける努力をして、菜穂子さんも自分の事は自分でするようにして、そうしたら後は神様が自然と何やら手助けをしてくれるものさ。


間違っても君が彼女のために何かをしようと考えてはいけない。

彼女は彼女で自分で何とかする覚悟を決めないと、この先なにもいい事なんてないのさ。


『篤史くん』がゴクリと唾を飲み込む音が聞こえる。

どうやら私の話を理解し、心を改めてくれたようだ。


ふふふ。


傷ついた人間が回復に向かう過程で、ついつい周りの誰かを助けたくなってしまう人間心理は私にも経験があるからよく分かる。

『篤史くん』の心は今まさに癒されつつあるから、義母の心を慮る余裕が出てきたのはいい事だ。

けれども実際に助けるかどうかは別問題だ。


この女を可哀そうに思う心は大切にしよう。それは君が心の通った人間であることを示す、大切な感情なのだから。

けれどもこの女を助けることはやめにしよう。彼女は大人で、君は子供で、君はまず自分自身の事を何とかするべき人間なのだから。


『篤史くん』はコクリと頷いてくれた。

それで引き続き脱出計画を推し進め、確実に準備が整っていった。



季節は秋も深まり、冬の足音が近づくようになっていた。


少し前に義姉が家に戻ってきて、ろくに学校にも行かずに毎日家の中をぶらぶらするようになっていたが、このころにはお互い完全不干渉の断絶した距離感が出来ていたからさして困らない。


義母は戻ってきた義姉に対し一番に抱きついて、「私が間違っていたの!」とか「戻ってきてくれて嬉しい!」とか、おいおい泣きながら大声で喚いていた。

気持ち悪いホームドラマだなあと私は生暖かい目で見守ってやったのだが、対する義姉は煩わしそうに振り払いつつも、結局ぬけぬけと居座って今に至る。


どうやら義姉は、頼りにしていた大学生の恋人の男とトラブルになって別れ、行く場所がなくなってしまったらしい。

私としては例え数カ月でも同棲していた相手の大学生の男性に同情する。男に対しては我がままを言う事しか知らない義姉の事だ。さぞかし相手にもいろいろと注文をつけたり暴力的に振舞ったりしたのだろう。

黙っていれば大変に美しいこの義姉だが、男女の仲になって同棲まで始めてしまえば見てくれだけではどうにもならないことがあるものだ。

それで大喧嘩となり相手の男性から叩き出されたようだった。

さらには同棲中の彼女の悪評が友達グループ全員に知れ渡って、男と別れたばかりの義姉と代わりに仲良くしようという奇特な男は終ぞ現れなかったらしい。

おまけに仲の良かった女友達も全員を敵に回し、みんなからすっかり距離を置かれてしまったらしい。


ブツブツと文句を言いながらリビングで一人ゲームをする義姉の独り言を拾い集めると、どうやらそういう事のようだった。


ざまあ。


けれども私としてはそんな義姉の心の傷口に塩を塗るような事はしない。

最近の義姉は『篤史くん』の料理を食べもせずに捨てる暴挙は取らなくなっていたから、腕によりをかけてこの女の好みの食事をたっぷりと作ってやる。


この馬鹿義姉も今さらながら理解したのではないかな? どこぞの大学生と数か月ばかりの同棲をして、美味しいご飯を毎日食べられるという事がどれほど大変な事か、その身をもって思い知ったのではないのかな?

そうして振り返ってみれば、『篤史くん』の料理スキルがとんでもない能力であることに気付かされたのではないかな?


本当のところはどうだか分からない。別に私はこの愚かな義姉の心の中など知りたいとも思わないから、どういうつもりだかは分からない。


それでもこの義姉は、以前のように食べ物を粗末に投げ捨てるようなことだけはしなくなったから、この女が好きな茶碗蒸しやらイカと里芋の煮合わせやらアサリの酒蒸しやら白菜の浅漬け梅風味などの渋めの和食を振舞ってやる。

もうすぐ『篤史くん』はいなくなるのだから、せいぜいありがたがって食べるとよい。


そんな事情を知ってか知らずか、義姉は黙ってこれらを完食し、後は延々とゲームをするばかりの毎日であった。

義母はそんな義姉を腫物を扱うように距離を置いて接するようになり、危ういバランスで私達三人は奇跡的に静かで穏やかな秋を過ごすうちに、『篤史くん』の貯金が規定の金額を超えた。



私と『篤史くん』が脱出するための準備が整ったのは12月だった。

当初の予定では7~9月の三カ月で脱出資金を作り、10月には家を出るつもりだったのだが、思いのほか出費が大きく、お金が貯まるのに時間がかかったのだ。


といってもむしろこれは誇るべき事情で、というのも『篤史くん』は自分の分の生活費を自分の稼ぎから捻出したのだ。


9月の時点で、毎月のケータイ料金や衣料費、散髪代といった日常費用だけでなく、自分の分の食費についても自分の収入の中から支払うようになっていた。

それでも2~3万程度の出費に押さえてしまう『篤史くん』の家事スキルには頭が下がる一方だが、ともかくそれで貯金が遅れてしまい、目標の金額まで溜まるのに11月の給料を待たねばならなくなった。


入居費用が高くなりがちな1月までには物件を見繕いたかったから、ギリギリのスケジューリングだがどうにか間に合いそうでホッと一安心。


いよいよ明日、私達の脱出計画は大詰めを迎える。



あれ? 篤史くんこれ、すでに目標達成してない? ここまでくれば家を脱出しなくても後は大人しく20歳までうまくやればそれでゲームクリアじゃない?


って思ったそこのあなた! しーっですよ! 例え気付いてしまっても物語の為なら敢えて間違った道へ突き進んでもらう所存なのです!


正直難しいところではありますが、篤史くんが精神的に持ち直して家の中で一定の立場を持てるようになったのも「家を脱出してやる」という確固たる目標があったからこそだと思うんですよ。

だから目標達成前に状況が好転したからといって、今さら引き下がれないだろうなーっていう。

それに何より、たまたま今は状況が篤史くんに有利に推移してますけれど、何かふとしたきっかけで再び義母や義姉が攻撃的になって篤史くんの人生を台無しにする可能性は残り続けるわけで。

そういう未来のリスクを考えると今のうちに逃げ出すという選択肢もありかなあと思います。

私文書偽造は駄目だけどな!


そんなこんなでビミョーなラインのギリギリを綱渡りのように歩いている篤史くんと『私』なのです。

ご理解いただければ幸いです。

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[一言] 突然のチャート変更はガバチャーだからしない精神 間違ってはいない(安定するとは言ってない)
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