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7. 人生のレールを外れる

アルバイトの面接はあっさり合格し、来週から来てほしいという話になった。

少し離れた郊外にある食品工場で、ベルトコンベアで流れてくるパッケージにシールを張り付けるような単純作業を延々と繰り返す仕事だ。


もともと接客業は『篤史くん』の気質から向いていないだろうという判断と、人目に触れる仕事の場合、万に一つでも義母、義姉と顔を合わせてしまってはまずいという理由から選択から除外していた。それで選んだのが今回の工場の仕事というわけだ。


ただ単純労働作業の場合時給単価が低くなりがちなので、毎月の稼ぎが下がることが心配だったのだが、思いのほか高賃金で雇ってもらえることになりそうなので一安心。

私が若いころに比べて少しづつでも最低賃金は上がってきているのだなあと、なんとも不思議な感慨を覚える。

日本はずっとデフレが続いているという体感があったから、未成年のアルバイト時給なんてもっと安いかと思っていた。私の若い時と今の時代で大幅に金額が違うのってタバコの値段と消費税率くらいって印象だったけど、ほかにもいろいろ値段が変わっているものだなあと感心させられてしまった。


勤務時間は主婦向けの10時から15時の短時間勤務。休憩時間が1時間あるので実質4時間勤務となるが、これは折を見ておいおい8時間勤務も増やしていけないか相談していく予定である。


ただしまずは様子見状態だ。

あまり最初から飛ばし過ぎると『篤史くん』の体力や気力が持たない可能性があったため、まずは無理のない範囲で働こうという判断である。


この身体のコントロールについては、基本的には私が主導権を握らせてもらっているものの、家主である『篤史くん』の影響も大いに受けるため、『篤史くん』側の事情によっては途端に身体の動きが鈍くなる。

例えば普段から日常的に行っているような特定の行動については、半オートモードというか、身体が自然に動いていつの間にか作業が完了していたりして特にストレスも感じないのだが、『篤史くん』にとって全く未知の行動、作業については途端に体が動かなくなり、まごまご、ぎくしゃくとした動きになりがちだ。


料理は目をつぶっても勝手に作業が進むが、アルバイトの面接などは緊張のあまりつい右手と右足を同時に出しかけてしまったくらいである。


そんなわけで探り探りの共同生活ではあるのだが、今のところはおおむね順調に推移している。

とはいえ、年若い『篤史くん』が気付かず無理をしているだけの可能性も大いにありえ、ある日突然ガクッと身体が動かなくなるような恐れがあるため、大人である私が十分に注意して、普段からなるべく多めに休みを取るよう心掛けている。


それでも無理をして短期間でせねばならないことも山積みで、アルバイト探しと並行で進めていたもう一つの大仕事を片づけるべく、私は久々の学生服に袖を通した。

私はどうしてもあのクソッたれな工業高校にあと2回ほど行かなければならないのだ。

私は今、退学手続きを進めているのである。


担任教師にはすでに電話で辞める意向を伝えてある。

電話口で何か聞かれるかなと警戒していたのだが、理由を聞かれ「一身上の都合です」と返事してやると、「そう……。」とだけ言われ特にそれ以上突っ込まれることはなかった。


それで今日は必要書類を受け取りに登校し、近日中に書類を提出にもう一度学校に行けばそれだけで晴れてめでたく退学手続きは完了だ。

あっさりしたものである。


私の中にいる『篤史くん』は色々と大事になる心配をしていたようだが、ないない! そんなのあり得ないよ『篤史くん』。

マンガやアニメの影響なのかな? それともなんだかんだ言って『篤史くん』も心の中では自分が特別な人間の一人で、みんなの引き止めにあったりすると勘違いをしていたのかな?

実際にはそんなことはありえなくて、あんな場末の工業高校なんて毎年何人もの生徒が中途退学していくに決まっているんだから、教師の方でも行動がパターン化しているんだよ。

ここにハンコ押してくださーい、ここにご両親のサインもらって来てくださーい、ってな感じ。

学校からしてみれば『篤史くん』は大勢いるドロップアウト組の一人で、彼らにとっては有象無象の一人でしかないんだ。世の中なんてそんなものなんだよ。



学校での対応もサクサクと話が進む。

時間を見計らって職員室に訪問した私は、担任の男から手続きに必要な書類を受け取り、そのまますぐに帰り路につく。

担任教師は何か言いたげな様子もあったが、特にこの男と話すこともないのでそこは無視する。


思えばこの担任教師も使えない男であった。

休み時間中、『篤史くん』がガラの悪いクラスメイトに囲まれて暴力を受けてうずくまる様子などをこの教師も目撃していたはずなのだが、特に助けにくるようなことはしてこなかった。

子供同士のじゃれ合いだったとでも考えていたのだろうか?

『篤史くん』ははっきりとうめき声を上げていたというのに。



『篤史くん』にとって、この高校はろくな思い出が一つもない本当に酷い場所である。


そもそも『篤史くん』は、高校受験の初めから酷い事の連続だった。

まず、家事が多忙で学校の授業がおろそかになりがちな『篤史くん』は、中学3年間の成績はずっとかんばしくなかった。


その事について心配してくれた中学校当時の担任の先生もいて、優しかったその先生は三者面談などで話をしてくれるような約束をしてくれたのだが、義母は「仕事が忙しい」などと理由をつけて、三者面談などの行事には一度も参加しなかった。


だから義母は『篤史くん』の状況をろくに把握もしていなかったのだが、成績が振るわないまま迎えた中学三年の夏に突如義母が豹変した。


『篤史くん』の壊滅的な成績表を今さらながら目にした義母が大激怒して、地区でトップレベルの公立高校に入学するように強要してきたのだ。


「あなた今まで何してきたの!」目を三角にして怒りをぶつけてくる義母に当時の『篤史くん』はすっかり萎縮してしまったようなのだが、なんというブーメラン!

お前こそ今まで何してきたんだ。

『篤史くん』は今まで自分の学業を犠牲にしてまでお前らバカ女の面倒を見てあげていたのだ。この結果があの成績なのだから、文句があるなら自分の飯ぐらい自分で作れ。


まあ過ぎた過去の記憶をほじくり返して私が一人で腹を立てても仕方がない事ではある。


ともかく当時の『篤史くん』にはどうすることも出来ず、言われるがままにハイレベルな進学塾に押し込められて、勉強漬けの毎日が始まり、でも家事・炊事も全て『篤史くん』の仕事のままであった。


そこから続く地獄のような半年間を『篤史くん』ははっきりとは覚えていない。

記憶を共有する私があれこれ覗きこんでも、出てくるのはぼんやりとした断片的な情報ばかりだ。

朝はバカ義姉の朝食を作り、学校に通い、帰ってきたらそのまま夕食の準備を進め、そのまま塾へ向かい、帰ってきたらクタクタのまま後片付けをする。

土日の休みの日には掃除や洗濯をまとめて行い、そのまま塾にゆき、帰ってきたら夕食の準備をし、睡眠時間はほとんどない。

それだけでも大変なのに、何かあるとすぐに義母に怒鳴られ、義姉に面倒ごとを押し付けられ、二人が旅行に行く準備も何故か『篤史くん』が用意し、義母の思い付きでハロウィンだのクリスマスだの正月だのの面倒も全て『篤史くん』が手配して……。


入学試験当日、吐き気やら頭痛やらでまともに動くことも出来なくなった『篤史くん』は、それでも這うようにして試験会場へ辿りつき、試験の途中でぶっ倒れて救急車で緊急搬送された。病院での診察結果は極度の過労とノイローゼであった。


『篤史くん』は当時を振り返って「ぼくがあの時体調不良で倒れなければ……」などといった事を未だに心配しているようなのだが、いやいや、そういう問題ではないだろう。

どのみち半年間の詰め込み勉強では大して学力も上がらなかったのだし、本来応援し、力添えになるべき義母や義姉はギャーギャーと文句などを垂れ、足を引っ張るばかりだったのだから。

結果として『篤史くん』の受験が失敗したのは当然の帰結であり、悪いのはバカ義母であるのは明らかなのだ。


さてそんな肝心の義母だが、彼女は病院で寝込む『篤史くん』に対し「あなたの事はもう知りません! 勝手にしなさい!」と、あの時確かにそう言い放った。


ふふふ。なれば私は全身全霊をもって勝手にやらせてもらうことにしよう。

勝手に学校を辞めるし、勝手にアルバイトを始めるし、勝手に家を出てやるのだ。


まあこれはあれから数か月たった今の私の考えだが、当時の『篤史くん』はそうは思えなかった。

義母に見捨てられたように感じた『篤史くん』は途方に暮れ、そんな『篤史くん』を見かねた中学校の先生が見繕ってきてくれたのが、二次募集をしていた近所の工業校であった。


『篤史くん』は言われるがままにこの高校に応募し、殆ど全入に近い合格確実の試験に受かり、晴れて高校生になった最初の入学式の日に制服が間に合わず大騒ぎになったのは前出の通りである。


結果として『篤史くん』はタチの悪いクラスメイトに目をつけられ、最初のうちは小突いたりからかう程度だったのが、『篤史くん』のおどおどビクビクとした反応の何が面白かったのか、次第に行為はエスカレートしていき、蹴りを食らったり腹を殴られたりといった暴力が常態化していった。


あんな環境でよく2か月も持ったものだと私は『篤史くん』を称賛したい。

けれどもそれ以上はさしもの『篤史くん』も持たなかった。

つい一週間ほど前に『篤史くん』の心はぽっきりと折れ、そんな『篤史くん』が神様に願った結果なぜか憑依することになったのがこの私というわけだ。


そこから今日までの二人三脚の歩みは割愛するとして、ともかく『篤史くん』にとって工業高校はろくな思い出もないクソみたいな学校なので、とっとと辞めてとっとと次に行くのが精神的には一番良いのだ。


受け取った書類をささっと書き連ねると、義母のハンコを勝手に押して準備を済ませてしまう。

このままもう一度学校に行ってもよかったが、さすがに当日中は不自然なので止めておく。



翌日あらためて学校に連絡し、再びクソったれ工業高校へと向かう。


担任教師は授業があったのか、代わりに学年主任を名乗る年かさの教師が出てきて、書類の受け渡し確認が進む。


確認作業の最中に学年主任の教師がぼそりとつぶやくように尋ねてくる。


「キミが一部の生徒からイジメを受けていたのではないかという報告があるんだが、実際のところはどうなんだ?」


今さらそんな話をするのか!?

なんという厚かましい教師なんだ。

学校側で事情を把握していたなら『篤史くん』の心が折れる前に介入するそぶりでも見せればよかったではないか。


ムカついた私は、ここは敢えてにっこりと微笑んでこう返してやる。

「例えそうだったとしても、どのみち辞める僕には関係ありません。」


「ああ。」教師はそう呟いた。「そうだな。」

これでこの話はお終いだ。


後は特に言葉を交わすこともなく、そのまま書類を受け取ってもらい退学手続きはお終い。

ついで学年主任の教師と二人で教室に行き、置きっぱなしだったカバンやら何やらを引き取れば、後は家に帰るばかりである。


教室はちょうど休憩時間だったようで、学年主任の教師と二人で中に入ると、ざわざわしていたクラスが一瞬で静まり返った。


その様子に『篤史くん』は気後れしたか、途端に身体が動かなくなる。

大丈夫だよ『篤史くん』。隣には学年主任の先生もいるし、特別な事は何も起こらない。どうか落ち着いてほしい。

私がそう宥めると、ぎこちないながらも身体が動かせるようになる。


学年主任の教師の立会いの下、手早く荷物をまとめていると、一人の少年がニタニタと気持ち悪い笑顔を作りながら近寄ってきて声を掛けてきた。

「なにお前。急に来なくなって。」


『篤史くん』に暴行してきた少年グループのうちの一人だった。

『篤史くん』は恐怖のあまりパニックになりかけるが、私は思わず笑いだしそうになってしまった。


『篤史くん』の心の中ではとても大きくて力のある恐ろしい相手のような印象だったので、記憶を共有する私もそういうものだと思っていたのだが、こうして直接会ってみると全然違っていたのだ。


目の前に立つ少年はもやしみたいなひょろひょろした体つきのガキンチョで、ちょっと人より背が高いだけでただの子供だった。

なんだこいつ。本当にただのガキじゃないか。


隣に立つ学年主任の教師もうろん気な様子となり少年をじろりと睨みつける。

ガキは気にせずヘラヘラと笑い続けている。

とはいえ教師もいる状況でこのガキもまさか殴り掛かっては来ないだろう。つまりはただの人畜無害なクソガキだ。


こんなちっぽけなクソガキ共を恐れた『篤史くん』は追い詰められて、あの日の晩に人生を誰かに譲り渡す願いをしたのだ。


結果として私が憑依することになった点は良かったのかもしれないが、そもそもこんなチンピラみたいなガキどもが『篤史くん』にちょっかいを出さなければ、『篤史くん』があんな風になることはなかったのだ。


私はガキを睨みつけながらこう言ってやる。

「ぼく、学校辞めるんです……。」


「あっそ。」ガキがそう返事をしてくる。


私は重ねてこう言ってやる。

「もう二度と会うこともないけれど、お元気で。」


「……。」ガキの返事はなかった。


私としてはさらにもっと嫌味でも言ってやろうかという気分だったが、別にこいつらと喧嘩したいわけでもないのでそれはやめることにして、残りの荷物を手早くまとめて教室を後にする。

玄関口で教師と分かれ、そのまま校門の出口まで辿りつくと、身体の緊張が一気に抜けてその場にへたり込みそうになった。

私にとってはクソガキ程度の印象だが、『篤史くん』にとっては恐怖の象徴だったのだ。追いかけられてまた腹を殴られたりするかもしれないと、それが怖くてドキドキしてしまうのだ。それで最後の最後で緊張してしまったのだ。

歯の根がカチカチとなり、手汗がべったりとねばりついている。


大変だったね、『篤史くん』。

もう彼らとは一生関わることはないんだよ。これで晴れて君と彼らとは赤の他人だ。この先何かの拍子に顔を合わせて声を掛けられたとしてもこう言い返してやればいいんだ。


「失礼ですがどちら様ですか? どこかでお会いしたことがありますか?」ってね。


赤の他人ってそういうことだよ。もう一生、君はあいつらと関わらなくていいんだ。



……ありがとう。



不意にそんな『篤史くん』の心の声を聴いた気がした。



止めてくれ!



反射的に私は大声を上げそうになり、慌てて口に手を当てる。


私は……。

私は……!


私は君に感謝されるような立派な大人じゃないんだ!

私は今日、君の人生に大きな汚点をつけてしまったんだ!


君にとって見れば私は大人の人間で、知らない事をたくさん知っていて、信じてついてゆけば助けてくれる素晴らしい存在にでも見えているのかもしれない。


けれどそれは幻想なんだ!

私は君をどうしようもない悪の道へ引きずり込んだ、極悪人なんだ!


どうか『篤史くん』。どうか君は、私の犯した罪を覚えておいてほしい。

私は今日、君の人生を勝手に捻じ曲げたのだ。


私は君をそそのかし、勝手に義母のサインを偽装し、書類をでっち上げ、退学届に判を押してしまったのだ。


いいかい『篤史くん』。

君は今、明確に社会のレールを外れたんだ。


少子化が進む現代社会において、高校までは殆ど全入で、どれほど学力が低くとも、殆どの少年少女が高校卒業資格を持っているのだ。


つまりは今どきの社会で高卒資格のないものは就職に大変不利が出来てしまうのだ。

それを私は勝手な判断で、君を社会のレールから脱線させてしまった。


私は君の人生をおかしな方向へと曲げてしまった。

本来あるべき正しい選択を放棄させてしまった。


本来、15歳の子供はみんな高校へ通うべきなんだ。

それが自分の意志で人生を選択するなら好きにすればいいと思うが、私がそそのかして君の人生を変えさせてしまったのだ。



私は今日、君に対する加害者となったのだ。



私の心の中の『篤史くん』がキョトンとした様子でこちらを伺っている気配がする。

今の君は年若いから、私が君に対して犯した罪の大きさに気付くことすら出来ないんだね。


だがどうか覚えておいてほしい。君がこの先学歴が原因で苦労するようなことがあったなら、それは今日の私が君を陥れた結果なのだ。


重ねて言おう。

私は今日、君に対する人生の加害者となったのだ。


その罪を背負うと、私は君に誓おう。

そして必ず君を幸せに導くと約束しよう。


それが私に出来る唯一の贖罪なのだから。

割と簡単な感じで「学校なんて辞めてしまえばいい」とおっしゃる方がたまにおりますが、そりゃあんたは強い人間だからそう言えるんだろうけど、世の中の大多数の人間は決められたレールの上を歩くことでしか生きられない弱い人間なんですよ。


自分が勝手に辞める分には好きにしたらいいけれど、そういう強い生き方を他人にも強要しないように。



……って昔の自分に言ってやりたい。

いや個人的な知り合いは誰もこんな話読んでいないと分かっちゃいるけど、念のため。

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