5. 脱出計画
本作品は犯罪行為を助長する意図は一切ございません。私文書偽造! ダメ! 絶対!!
まず初めに、私文書偽造について予めお断りを入れておきたい。
この先私が行動する上で未成年である事の弊害があまりに多く、この点については頭が痛くなってくる。
何をするにも保護者の同意、親権者の著名が必須となってくるのである。
そこでまず一番に考えていることが義母のサインの偽装である。
例えばアルバイトをする際の保護者・保証人のサイン、学校を辞める際の保護者同意書、家を借りる時の保護者、保証人のサイン、これらの全てを偽装するつもりなのだ。
幸いにして義母の印鑑は私の手元にあるから(それも印鑑登録済みのやつだ!)、サインさえ偽装すればハンコと合わせてかなりの事が出来る。
一部どうしても義母自身の力を借りなければ出来ないことがあるが、ほとんどの場合は書類を偽造するだけで事足りる。
だから私は積極的に文書を偽造するつもりである。
もちろんこれは犯罪行為だ。
本来は許されざる行為だ。
だが知ったことか!
私はむしろ犯罪が露呈して捕まってしまえばよいとすら考えているのだ。
もし仮に犯罪行為が露呈して罪に問われたとして、未成年である『篤史くん』の場合、鑑別所送りになり保護観察処分といったコースを辿ることになるだろう。
だがこれこそがむしろ願ったりなのだ。
捕まればまずその間は『篤史くん』は義母から逃げられるのだ!
おまけに捜査の過程で義母との異常な関係性が露呈されればこれが問題解決の突破口になるかもしれない。
結果として悪い前歴が残ろうとも得られる恩恵の方が計り知れない。
善良で道徳的なまっとうな子供より非行に走る不良少年の方が劣悪な環境からの脱出には有利であるという点は皮肉なところではあるが、行動を起こさなければ人目に触れる機会すら得られないのが現実社会というものだ。
真面目な『篤史くん』が家でじっと耐えていても、誰も助けに来てはくれない。悪い事だと分かっていても動かなければ結果は返ってこない。
良きにせよ悪しきにせよアクションを起こさねば現状は打破されない。
仮に有印私文書偽造が罪に問われるからと言って、今の『篤史くん』の状況を鑑みるに、犯罪行為に手を染めることに私は何の痛痒も覚えないのだ。
私の中の『篤史くん』がきょとんとした様子でこちらを伺っている気配がする。
盲目的に「世界はいつでも正しく動いている」という漠然とした認識だけで生きてきた15歳の『篤史くん』には、敢えてわざと違法行為に踏み切ろうとする私の思考が全く理解できず、不思議な感覚に陥っているようなのだ。
そんな『篤史くん』は年相応の15歳の少年に思え、私にはそれがとても好ましいものであるように思えた。
私はそんな『篤史くん』の為に罪をかぶる覚悟を新たにした。
そうと決まれば話は早い。
私はまず手始めに、義母のサインを偽造する練習をしてみることにする。
すると面白い事が分かった。私が特に意識せずに何か書き物をしようとすると、この身体のもともとの持ち主である『篤史くん』の癖が前に出て、『篤史くん』の筆跡、文体となる。
これが意識して私が文字を書こうとすると、その筆跡は私のものになるのだ。
これはよい!
私は義母の筆跡がどのようなものかはっきりとは把握していないが、ようは『篤史くん』とは別の筆跡で書かれたサインであれば、この際何でもよいのだ。
万一筆跡鑑定などを受ける事態になっても同一人物の筆跡であると診断されなければ充分だ。ならばこれについては練習する必要もあるまい。
彼女の分は私が全部書けばよいのだ。
それにしても奇妙な気分である。私の丸っこくて乱雑な筆跡は、少しばかり神経質で角張った『篤史くん』の筆跡と、どう見ても明らかに違っている。
おまけに私が知っている漢字をそのまま書き取るのに、『篤史くん』が同じ文章を書き連ねようとすると漢字の形が頭に出てこず、その部分にひらがなになってしまったりする。
それどころか同じような内容の文章を書き出そうとしても、そもそも把握している語彙から違っていて、微妙に違う言葉で組み立ててしまう。
何より、汚らしい私の丸文字は、どう見ても間違いなく私の字なのだ。
私と『篤史くん』は本当に別個の人間なのだ。
文字一つとっても私達は明らかなる別人だ。
私は自分自身がどこから来たなにものかも知らないが、少なくとも『篤史くん』とは別の存在であることに間違いはないのだ。
私は思わず「ふふふ」と笑ってしまい、けれども心の中の『篤史くん』も同じように笑っているのが感じられて、思わず嬉しくなってしまう。
君はまだ楽しい事に笑うだけの心が残っているじゃないか。
そんな小さな発見が、どうしようもなく嬉しく、私達はしばしの間、二人して心の中で静かに笑い合った。
さて、ひとしきりつかの間の温かい時間を楽しんだ私は、目標を立てる。
この先家を出るうえでどんな手続きが必要で、どんな書類が必要になるかを洗いだすのだ。
まず一番、身分証明書が必要である。
これは現状、手元に義母の被扶養者としての保険証があるから、これと住民票などを組み合わせればまず殆どの身分証明が出来る。
しかしこの方法はそう長くは使えない。『篤史くん』が充分な収入を得られる見込みが立った時点で国民保険に切り替えねばならないが、手続きがごたつく可能性があるからだ。
また、学生証が身分証明に適用される場合があるが、これについても私は考慮していない。
あの糞ったれな工業高校については、そう遠くない未来に退学する予定だからだ。
そこで「顔写真付き」の証明書をなるべく早急に手立てする必要がある。
この際、通常多くの人は免許証を一番にイメージするのではないだろうか? 特に原付免許はとても手軽に手に入れることが出来る強力な証明書で、真っ先にこれを手に入れる事を考える人は多いだろう。
今どき50ccのバイクは製造中止が進んでおり、現代社会においては仮に免許を持っていても原付バイクを運転する機会自体が殆どなかったりする。
※作者補足:排ガス規制が進み過ぎた現代では、50ccの原付バイクはもはや基準値を達せなくなってしまいました。最後の望みがインジェクション車(FI車)だったのですが、これでも最新基準の排ガス規制を満たせません。
今や原付市場は125ccクラスがメインですが、この排気量でようやっと現状の規制を満たせる製品が作れるのです。
古き良き日本の50ccバイク市場は風前の灯火です。
ただ、昨今の自動車業界は大転換期にあり、二輪車においても電動バイク市場が急速に発展しつつあるので、そう遠くない未来に「電動原付車」専用免許みたいなものが出てくる気もします。
それでも身分証明書としての原付免許は今でも十分に強力で、これがあればかなり色々やりやすくなるのだ。
何せちょっと勉強してちょっと鮫洲・府中・豊洲に行って試験を受けるだけで、その日のうちに免許証を発行してくれるのだ。
これが一つ上のクラス(原付二種免許)からは途端に難易度が跳ね上がり、規定の日数の運転教練と自動車と同じレベルの筆記試験を受けなければならないし、掛かる金額も一挙に跳ね上がる。
なおのこと原付免許の有用性は計り知れない。
だが残念ながら二輪免許証の取得年齢は16歳からだ。早生まれの『篤史くん』がこれを手にするには冬になってからなのである。
15歳時点で申請後に最も早くに手にすることが出来る写真付き身分証明書は、パスポートである。これなら、だいたいどの市区町村でも一週間前後で発行にこぎつけることが出来る。
しかしあのサイズの書類を常に証明書として持ち歩くことは現実的ではない。
そこで現代日本において一番強力な証明書となるのが、マイナンバーカードである。
これは15歳を過ぎれば未成年でも当人が発行できるし、証明書としての使い勝手は免許証以上に色々便利な部分が多い。
強いて難点を上げるとするならば、申請後手元に届くのに一カ月ほど掛かる点だろうか。それでもこれがあるのとないのでは大違い。
幸いにして家の書類のほぼすべてのありかを把握している『篤史くん』は、市区町村が律儀に郵送してきてくれたマイナンバーカード申請書も捨てずにとっておいていたから、申請自体はすぐにでも出来る。
一週間で発行できるパスポートも魅力的ではあるのだが、あまりアレを身分証明として使う必要性が感じられないし、当面は義母の社会保険の被扶養者保険証と住民票などの補助書類の組み合わせで事足りるように思う。
マイナンバーカードが届くまでの1か月、コツコツと脱出の準備を整えつつこの狂った偽物の家族との関係をもう少しだけ我慢する、このような方向で考えていることを『篤史くん』に語り掛けると、こくりと頷く彼の意志が伝わってきた。
続けて早急に用意したいものが、自分名義の銀行口座である。
銀行口座は15歳を過ぎれば一挙に取得難易度が下がり、必要書類をもって窓口に行けばよい。
銀行によってはネットからの手続きだけで開設することも出来るところまである(もっともこれには免許証もしくはマイナンバーカードが必要になるが……今どき流行りのeKYCという奴だ)。
今『篤史くん』が義母から渡されているキャッシュカードは彼女名義のものだ。ずぼらな彼女はその中身がどうなっているかろくに確認もしていないように見受けられるが、それでも『篤史くん』の今後のお金の収支を彼女に見られるわけにはいかない。
それに何より、銀行口座を開設すればそのままデビットカードを申請できる事が大きい。
※注:クレカは18歳以上ですが、デビットカードは15歳以上で発行可能です。
ネットショッピングでデビットカードが使えるケースは非常に多い。殆どのサイトでデビットカードが登録できる。
『篤史くん』がこの先様々な物資を調達するうえで、あると大変便利な道具となる。
これもなるべく早急に用意したほうがいいだろう。
さらにはアルバイトも早急に探さねばならない。
『篤史くん』が義母から受け取っているあの10万円、アレについてはやはり可能な限り手を付けるべきではない。
『篤史くん』は自分で稼いだお金で家を出るべきであろう。
ただ、初期投資として例えば銀行口座の開設に少しばかり預けるお金だとか、最初の準備に必要な費用(住民票などの書類の発行手数料)に幾ばくかの金銭が入り用になるから、その際にあの10万円の一部を借りる点については容赦してほしい。
さて、銀行口座とマイナンバーカード、この二つは『篤史くん』個人の身分証明さえ出来ればすぐに用意できるものだが、アルバイトあたりから未成年特有の保護者の壁が立ちはだかってくる。
私としては『篤史くん』のアルバイトには、なるべく大きくない会社などが募集している少し緩めの仕事先を考えているのだが、それでも保護者の同意書などの提出を求められる可能性は高いだろう。
このあたりについて、私は今後積極的に義母のサインや押印を偽造していくつもりである。
それよりも重要なのが勤務時間だ。何時から何時間程度の仕事をするか、こちらを予めイメージしておく必要がある。
私は『篤史くん』にはなるべく早い段階で高校を中退してもらおうと考えている。
そうでなくても不登校をしてもらおうと考えている。
現状『篤史くん』が自由にできる唯一の時間が学校の時間なのだ。『篤史くん』が通学しているはずの平日日中の9時~15時くらいの時間を全てアルバイトに振り替えるとする。
1日6時間以内であれば法定休憩時間が定められていないから、時間いっぱい働いて月に20日間勤務を確保できれば、自給1000円の計算で10~11万程度の手取りが確保できる。
※注:月収88000円を超えた時点で源泉徴収が発生するので20日×6時間×1000円の12万満額はその場では入ってきません。ただし篤史くんの場合は初年度は年収103万円を超えないでしょうから、確定申告を行えば払った分があとで返ってきます。
住民税100万円の壁を考慮し、初年度は100万円以下の年収を狙っていくことになります。
この手取りを大事に貯蓄して3か月も貯めれば30万円のお金が出来る。
家賃5万の敷1・礼1のアパートを借りるのに25万程度あればよいだろうから、3か月で家を出る算段が付くのだ。
つまり、篤史くんは今まで通り何食わぬ顔で家の家事をこなしつつ、学校に登校している時間をアルバイト時間に振り替えて、しれっと3か月ほど我慢すればこれで脱出ゲームの第一ステージはあっさりとクリア出来るのだ。
義母や義姉は過去のいきさつから『篤史くん』の学校の事など微塵も興味を持っていないから、学校に行く代わりにアルバイトをしていたところで、まず気付かれない事だろう。
なんなら学生服を着て家を出て、仕事場につくまでにどこかで私服に着替えてしまってもいいのだ。
そういう小細工をすればまず大丈夫だと私は自信を持って言える。
義母も義姉も愚かではないが、驚くほど『篤史くん』に無関心だからだ。
それよりも仕事内容の方がよっぽど心配だ。『篤史くん』には恐らく接客業はあまり向いていないように思える。
私自身はそれなりに接客も出来るつもりだが、この身体は『篤史くん』のものなのだ。対人恐怖症のケもある『篤史くん』に慣れないことをさせると、過大なストレスから心の調子を一挙に持ち崩す可能性がある。
それに何より、万が一でも義母や義姉を接客せねばならなくなる事態に陥った場合、その時に『篤史くん』の心がどうなってしまうかは想像するだに恐ろしい。
私自身は単純作業などは苦手なのだが、『篤史くん』の性格の場合はもくもくと同じ作業を繰り返すだとか、延々と掃除するだとか、そういったものが向いているように思える。
このあたりは未知数なので、ともかくいくつか応募してみて、場合によって何度か仕事を変える必要も出てくることだろう。
今のうちからネットなどで色々情報収集をせねばなるまい。
私の中の『篤史くん』がドキドキしているのが伝わってくる。
『篤史くん』は生まれてこの方、今まで仕事をした事がないのだ。
自分で働いてお金を稼ぐという、まるっきり想像のつかない未知の世界を前に恐れが止まらないのだ。
ふふふ。
私は思わず笑いたくなった。思えば私自身が初めてお金を稼いだのはいつのころだったろうか? 当時はちょっとアルバイトを頑張るだけでびっくりするくらいの金額を手にすることが出来て、しかもそれが全部自分のお金になって、嬉しさのあまり小躍りしたものだ。
それがいつの間にか当たり前の事になって、社会に出てからは収入のほとんどが生活費に消えるようになって、お金を稼ぐ喜びも失われていって、こんなドキドキ感、すっかり忘れてしまっていた。
『篤史くん』? 君のその恐れは今の君だけが味わえる、いわば特権のようなものなんだよ? すぐに笑い話になる。どうしてあんなに怖がっていたのか、不思議に思える日がすぐに来る。
それどころか、そんな新鮮な感情があったこと自体を思い出せなくなる日が来る。
だから『篤史くん』。今だけだよ? 今だけ君は、そのドキドキ感を好きなだけ味わえばいい。
きっとすぐにいい思い出になるから。
それよりも考えなければならないのは学校の事だ。
やはり学校は退学するのが良いように思う。
不登校を続けているとどうしても学校から家に連絡が入ってしまい、何も知らぬ状態の義母が出ると大変面倒なことになりそうだ。
あるいは事情をつけてしばらくの間休学にするのでも、何か確認のやり取りが義母との間で発生されては困る。
だが、退学するのであればリスクは辞める最初だけだ。学校は辞めた後の元学生やその家族に連絡してくることはまず絶対にない。
それに恐らく、退学手続きのその瞬間に義母へ確認の連絡が発生する可能性は限りなく低いと思う。
事情があって高校受験に失敗した『篤史くん』が二次募集で受かった工業高校は、言ってはなんだが低ランク高校だ。
『篤史くん』が通い続けた2か月の間でもすでに何人かの少年が学校に来なくなっているのを君も見たはずだ。
こういった学校は余計な面倒を嫌うから、必要な保護者用の書類を一式そろえさえすれば、わざわざ引き止められることは殆どないだろう。
形式上簡単な理由を聞かれる程度で、保護者同伴でないといけないだとか、保護者にも電話で連絡するようなことにはまずならないように思う。
多分辞めることはそんなに難しくない。
それよりも、学校に在籍しつづけていると、この先仕事を始めたときに保険・年金に入れなくなる可能性があるんだ。
もちろん国民健康保険には入れる。けれども職場との安定した関係が見込まれる場合、社会保険・厚生年金に入れされてもらった方が絶対にいい。
この時に学生のままでいると加入出来なくなってしまうから、将来を見越すなら学校なんて辞めてしまった方がいろいろ都合がいいんだ。
※補足:未成年でも、会社の社会保険に加入させてもらえる場合はそのまま合わせて厚生年金に加入することになります。これは老後の蓄えというより、不慮の事故などがあった際の保障となります。
なお、ある程度大きな企業の場合、一定年収を越える従業員に対する社会保険・厚生年金への加入は会社側の義務となってますが、あまり立派ではない職場だとパート・アルバイトなどに対しては嫌がって入れさせてもらえないことがあるので(厚生年金の会社負担分をとにかく嫌がる)、これを見越して『私』は「安定した関係が見込まれる場合」と断りを入れているのです。
だから、私は学校は辞めたらいいと考えているけれど、出来れば最終的な判断は『篤史くん』に決めてもらいたい。
だってこの人生は元来『篤史くん』のものだ。私が憑依することで様々な選択肢の幅を広げてやりたいとは考えているが、出来れば重大な決断は『篤史くん』にしてもらいたいのだ。
高校卒業資格というのは現代日本ではとても強力な資格の一つで、これがあるのとないのとでは仕事探しに大きな違いが出てしまう。
アルバイトや派遣社員の仕事を探すくらいならいくらでもどうとでもなる。けれども正社員の道を模索するのに中卒という肩書きがとても大きな障害となるんだ。
もちろん、仕事がある程度軌道に乗ったタイミングで、定時制高校、通信制高校へ編入する方法もある。
けれどもここは歯を食いしばってでも高校へ通い続けるという選択肢もある。
今はまず差し合ったって家を出るお金などが必要だからいったん休学手続きを取るなどして、脱出に成功した後には1年か2年か先に復学するのだ。
2年遅れで高校1年生からやり直しというのもそれなりにきついし、生活費を稼ぎながら一般の高校に通うのはとても大変だろうけれど、18歳を過ぎれば深夜帯勤務の仕事なんかも選べるようになるし何とか出来なくはないだろう。
あるいは高校生向けの奨学金制度を調べてみれば何か良いものが見つかるかもしれない。
どうする? 『篤史くん』。君はあの高校に在籍し続けるかい? それとも辞めてしまうかい?
殆ど時間を空けずして、辞める……と『篤史くん』の返事があった。
あまりにもあっさりとすぐになされた決断に、かえって私が動揺してしまい、いいのかい? と心の中の『篤史くん』に語り掛けようとして、私は野暮な質問を重ねることを止めた。
『篤史くん』の感情がダイレクトに伝わってくる。そこにあるのは私に対する信頼だ。出会ってまだ2日目でしかない私に対し、『篤史くん』はすでに全てを信じ、私に任せるとそう考えてくれているのだ。
私が学校は辞めるべきだというのなら、『篤史くん』は例えそれが間違いであったと後で分かってもいっさい恨まないと言ってくれているのだ。
そこには年若い15歳の少年特有の危うさがあったが、それでも私にとってはとても嬉しい感情だった。
思えば私はこのように心の底から誰かに信頼されたことなど一度もなかったように思う。
妙にこそばゆく、それでいてとても心地よく、そしてその責任に身が引き締まる思いだ。
よし分かった『篤史くん』。私は何としてでも君を幸せに導いてみせるから、ともかくあんなクソみたいな高校は辞めてしまおう。
これで気がかりだった一番の悩み事は片付いた。
後は部屋探しについて。
これは仕事先が見つかってからになるだろう。
『篤史くん』はまず今の実家からそこそこ離れた場所で仕事を探し、ある程度続けられる自信がついてから仕事先の近所で部屋を借りることになる。
この時、義母の書類を沢山偽造することになりそうだが、この際彼女には容赦なく『篤史くん』の連帯保証人になってもらおう。
結果として何か彼女に大きな不利益を被ることになっても知ったこっちゃない。そもそも本来、親権と扶養というものは社会的に定められた義務なのだから。
さて、家を出ると同時に仕事を変えるような余計なストレスは恐らく『篤史くん』の心にとても強い負担がかかる。
もともと線の細い『篤史くん』は僅かなストレスをきっかけに一気に心をおかしくしてしまうかもしれない。
なるべく急激な生活環境の変化は避けたい。
だが、この家に住む菜穂子さん達からはまず絶対見つからない場所まで逃げ出したい。
その為には実家からそれなり離れた場所で仕事を見つけ、その近所で家を借り受け、さらにそこである程度まとまった貯金を作ってから一気に見知らぬ土地に脱出する、こう言った手順を踏むのが良いだろうと私は考えている。
その為にまずは3か月この家にいながらアルバイトを頑張って30万円程度のお金を作り、準備が整い次第、即座に家を出る。
それからさらに仕事は変えずにフルタイムの勤務時間に移行して、来年の12月までの18か月でめいいっぱい貯金をする。この18か月はとても重要だ。というのも現在6月だが、今年の年末まで仮に月12万円以上の月収があっても、今年の年収は100万円を超えない。
つまり来年度は国民保険や住民税の心配をしなくてもよい。
そこから1年間の収入は手取りがほぼイコールで自分のお金になるからもっとも貯金を作りやすいのだ。
これが再来年の1月を超えてしまうと一挙に問題が噴出する。
なにより国民健康保険料、住民税の心配をせねばならいし、さらに2年ごとの賃貸物件の更新費用の心配までせねばならない時期になるのだ。
つまり18か月後から一挙に支出が増える。
だから理想は18か月後までにそれなりにまとまった額の貯金をする。これは100万円あれば御の字だが、半分の50万でも何とかなるだろう。
そしてその冬から春にかけて菜穂子さんと一度だけやり合って、とにかく強引にでも社保から外す手続きだけしてもらうのだ。
※注:篤史くんの年収が130万円を超える見込みが立った時点で菜穂子さんの会社の被扶養者保険証の資格を失います。そこで篤史くん自身が国民健康保険に加入する必要が出てきますが、この際菜穂子さんの会社の社保の「健康保険資格喪失証明書」や「被扶養者削除証明書」が必要になります。
そしてこのあたりの手続きをせずになあなあで放置していると、いざけがや病気をした時の保険が適用できずに大変なことになります。
あるいは、本来資格を喪失していたにもかかわらず篤史くんが義母の会社の被扶養者保険証を使ってしまうと、のちのちに大きなトラブルとなります。
後は貯めてたお金を使ってまるっきり違う土地へ脱出すればいい。
この時『篤史くん』の年齢は16歳から17歳になるところ。
そこから1年頑張れば『篤史くん』は18歳だ。これで一挙に自由度が上がる。
さらに2年、20歳になってしまえばもう保護者の問題に頭を悩ませる心配が完全になくなる。
これが現時点で私が思い描いた『篤史くん』脱出計画の全容である。
もちろん多くの粗があるだろう。恐らく思い通りにいかないことは容易に想像がつく。
例えば悩ましいのが住民票の閲覧制限などの支援措置についてである。出来ればこのような措置は最初の転居の際に行いたいところだが、未成年である『篤史くん』が義母を勝手に保証人に仕立て上げ書類一式を作って家を出ておきながら、役所や警察にお願いして閲覧制限の申請が通るものだろうか?
もし通らなければ家を出てしばらくの間、義母に居場所がばれる危険を常に孕んだ毎日を送らねばならない。
では逆に、しばらくの間は住民票を移さない戦略はどうか?
これは例えば保険証などの重要な郵送物が実家に届く問題が出てくる。
とはいえ私は例えば義母の実印や印鑑証明を拝借するのに何度か戻ってくる必要性が出てくる可能性が高いから、どのみち完全に逃げ出すまではこの家とは無縁ではいられないのだ。
このあたりは本当に悩ましい。まずしばらくは住民票を移さず、最初の住まいについてはなるべく同じ市区町村内で探すようにして、様子を見ながら段階を踏んで手続きしていくしかないだろう。
本当に出たとこ勝負だ。
けれどもこう言った難しい点を考慮しても、充分に勝算のある脱出計画だと私は考えている。
まずともかくの第一目標は年内、出来れば秋までに家を出る事だ。
そして次の目標は18か月後までにどれだけ脱出のための姿勢を作れるかが問われる。
そして30か月後の18歳、さらには2年後の20歳までの年月をいかに生き抜くかが最終目標になるだろう。
たった4年半、歳を取り大人になった私にとってはあっという間の時間だろうが、若き『篤史くん』にとっては濃密な数年となるだろう。
伸るか反るかの大博打が連続し、息もつかせぬスリリングな展開になる事請け合い。
あらためて状況を整理しよう。
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▼早急に手続するもの
・マイナンバーカードの発行手続き。
・銀行口座の開設。
→開設後はデビットカードの発行手続きもすぐにする。
▼直近で手続・準備するもの
・退学手続き
→書類などを集めるため一度学校へ行く必要あり。
・アルバイト先を探す。
→ネット、アルバイト情報誌などからまずは情報収集を。
▼少しづつ準備していくもの
・家探し(未成年者が言いくるめて一人で借りれそうな緩そうな不動産屋を探そう)
▼いずれ来る問題のため覚悟しておくもの。
・住民票の移動に関する問題
・住民税の支払い
・国民健康保険への加入手続き
▼将来的に検討するもの
・定時制高校・通信制高校への編入計画を考える。
・アルバイトではなくちゃんと就職をする。
※これらの手続きや準備について、まずは家事を続けながら少しづつ準備していくこと。
→父の10万円にしばらく手をつけてしまうのは仕方がない。さらにはそのうちの幾ばくかは『篤史くん』自身の為に使わせてもらうが、これについてはちゃんと計算して後で全額お返ししよう。
▼今すぐ始める事
・毎月の家計簿をつけよう!
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ふむ。ノートに書き出してみて、少しづつ全体のイメージが湧いてくる。
今日のところはこれくらいにするかと筆を置こうとして、肝心かなめの重要な問題がすっぽりと抜け落ちていることに気付かされる。
実はこのリスト、極めて重要なある問題がすっぽりと抜け落ちている。
どうしても義母の力を借りなければ決して手に入らない、けれども現代社会においてほぼ必須の重要ツールがあるのだが、これに関する項目が一切書いていない。
この先一人暮らしをするにも、仕事をするにも、何につけ必要な重要アイテムであり、それを手に入れるのに義母の力がどうしても必要なのだ。
とても考えたくない面倒な問題なので、見て見ぬふりをしているうちに危うく忘れるところだった。
あなたにはわかるだろうか?
それは。
『篤史くん』名義の携帯電話の契約手続きである。
▼ケータイ電話について。
いやーこの話思いついた時に真っ先に書きたかった話がこれなんですよ!
現代ものの「なろう小説」のなかで、未成年がホイホイケータイの契約しているシーンを何度となく見て、バカヤロー! って叫びたくなること数知れず。
出来ねーよ!
出来ねーんだよ!
未成年だけで(18歳未満だけで)ケータイ電話の契約、出来ねーんだよ!
そして現代社会において、ケータイ電話の番号持っていないと、なんにも出来ねーんだよ!
というわけで次話、未成年のケータイ契約の難しさを1話まるまるかけて頑張って書きたいと思います。
▼私文書偽造について。
本作品は現実における犯罪行為を助長させる意図は一切ございません。いくら問題のある親から逃げ出すためとはいえ、文書の偽造はいけません!
現代日本で20歳未満の未成年が取るべき本来の正着は、やはり児童相談所に駆け込むことでしょうかね……。
裏技的に未成年のうちに結婚してしまうというテクニックがありますが、正直私文書偽造よりよっぽど現実味が薄いファンタジー解だと思います。フツーの人間はそんな事しようとは思わない。っていうかそもそも相手を探すのが大変ですしね。どのみち男の子である『篤史くん』の場合は18歳になるまで待たなければなりませんし。
だから現実でも思いつきやすい「私文書偽造」の方向で作品を組み立てさせていただきました。
とはいえ元来許される行為ではないので、この分のペナルティは別の形で後々の主人公に背負ってもらおうかなぁと考えております。
▼成人年齢の引き下げについて
祝! 2022年4月から成人年齢が20→18歳へと引き下げになります!
一分一秒でも早く親から逃げ出したい未成年の皆さんには朗報ですね!
ですがこの物語の世界線では成人年齢20歳で書かせていただいております。
というのも本作品、「コロナウィルス」をどう取り扱おうかちょっと悩んでいるんですよね。
篤史くんが逃げ出す過程の中にコロナを組み込もうとすると、取り扱わなければならない係数が増えて自分の脳味噌の計算能力超えてってしまう悪い予感しかしないんです……。
例えば義母の菜穂子さんがずっとテレワークで家にいたら脱出なんて出来ないですし、義姉も篤史くんもリモート授業受けなきゃいけなかったり、篤史くんの高校受験の際もコロナの影響でひと悶着あったりと、あれやこれやエピソードが増えすぎて制御できなくなってしまいます。
かといって、コロナのない世界線であればこのまま淡々と成人年齢引き下げになるエピソード組み込むだけではありますが、そうするとここまで生っぽい数字や現行の社会制度や法律の話を準備してきたのに、なんだか台無しになってしまいます。
そこでとりあえずこの話は2017、18年くらいの話にして、この先のエピソードのどこかにコロナウィルス発生! みたいな爆弾をぶつける感じがいいかなぁ? などと思いつきまして、それで成人年齢は20歳のままで計算を組み立てさせていただきました。
ご容赦を。