1. オープニング
「どうして私があなたの食事を作らねばならないんですか?」
私としては努めて冷静に疑問を口にしただけのつもりだった。
返ってきたのは耳をつんざくような金切り声だった。
「あんた、いい加減にしなさい? わたしがやれって言ったんだから言われたとおりにすればいいのよ!」
それは奇妙な気分だった。私は『篤史くん』ではない。ひょんなことから篤史くんの身体を借りることになった、赤の他人なのである。
だから目の前の若い女性――というより私にとっては子供といっていい年頃の少女だが――が誰なのかも分からないし、何故不躾に怒られているのかもよく分からない。
だが一方で、私の心の中には『篤史くん』がちゃんといて、目の前の女の子が再婚相手の血のつながらない姉である由紀奈さんで、本来なら平日の朝は彼女のための朝食を作らなければいけなかったのだ、そう現在の状況を教えてくれるのだ。
実際にはそれは「教えて」くれるなどといった生易しいものではない。殆ど恐慌状態となった『篤史くん』の心が、悲鳴のような響きで「ごはん、作らなきゃ!」と私に対して心の叫び声を上げるのだ。
その心の声の大きさに私は思わず身じろぎ一つ出来なくなってしまった。
そんな中、由紀奈さんの怒鳴り声が延々と鳴り響く。
「あんた! 自分の立場ってもんが分かってんの!? あんたなんて本来いつ追い出されてもおかしくないのに、仕方なく住まわせてあげてんのよ!? あんたに出来る事なんて家事くらいなんだから、黙って言われた通りやってりゃいいのよ!」
何を言っているだこの少女は? そもそも『篤史くん』は義母の菜穂子さんの扶養家族という立場だし、扶養義務がある菜穂子さんが『篤史くん』を追い出せるわけがない。そしてこの家はもともとは『篤史くん』の亡き父のものだから、住むのに義姉である由紀奈さんの許可など必要なはずもない!
だが『篤史くん』には私の声は届かない。
……ごはん作らなきゃごはん作らなきゃごはん作らなきゃごはん作らなきゃごはん作らなきゃ
先ほどからそんな思考がぐるぐると頭の中を駆け巡るばかりで、私が何を言っても返事がない。
そんな『篤史くん』の思考に引きずられ、私自身は身体が硬直してしまって一歩も動けないのだ。
落ち着け! 落ち着くんだ『篤史くん』!
明らかに目の前の少女の言動は常軌を逸している。まっとうな人間ではない! こんな人間の威圧的な声に屈しては駄目だ! おかしな話がもっとおかしくなってしまう!
だがいくら私がなだめすかしても『篤史くん』の身体は言うことをきかない。
そうこうしているうちに由紀奈さんが異常な様子に気付いたか、「返事くらいしなさい!」と金切り声とともにテーブルの上にあった皿を手に取って投げつけてきた。
ガシャーン!
よけることも出来ずにいた『篤史くん』の身体にそれは当たり、跳ね返ってフローリングの床にぶつかって割れた。
「あんた! 何してんのよ! あたしが投げたらちゃんと手で受け止めなさいよ!」
何を言っているのだこの女の子は!? そもそもお皿を投げるもんじゃないだろう!
だが当の『篤史くん』の身体は未だに硬直して動かず、皿がぶつかった胸のあたりがじんじんと痛むに任せるままにただ茫然と立ち尽くしていると、義姉は「あんたが悪いのよ!」などと叫び声を上げつつ、その場から逃げるようにいなくなった。
彼女は自室に飛び込むと慌ただしく着替えをして、そのまま駆けるように玄関から外へと飛び出していく。
「あんたのせいで朝食抜きじゃないの!」などといった捨て台詞を残して。
やれやれ。
私は彼女のその一言にため息しか出てこない。
私には『篤史くん』の記憶を通じて義姉の我がままが手に取るように分かる。
そもそも義姉の由紀奈さんはせっかく『篤史くん』が毎日朝食を作っても、食べるのは2日にいっぺんだとかなのである。
けれどもそんなふうにして食べなかった朝食を捨てたりなんかすると義母が烈火のごとく怒り出すから、『篤史くん』はそれを自分の食事にしたりしているのだ。
『篤史くん』にとってはそれが当たり前の日常だったから、今まで取り立てておかしいとも思わなかったようなのだが、赤の他人の私にしてみればこれはとっても異常な事だ。
彼女の主張は滅茶苦茶だよ? 『篤史くん』。
だから、1日くらい作らなくったって別に良いではないか。
むしろこれからは一切作る必要もないだろうと私には思える。
だが『篤史くん』にとってはとてもそうは思えないらしい。この身体は彼女の怒りに敏感に反応し、由紀奈さんがいなくなった今でも、いつ戻ってくるかと怯え未だに動かすことが出来ない。
それから10分ほども経ったろうか。
ようやっと『篤史くん』の身体がこわばりが解けてきて、少しづつ動かせるようになってくる。私は自分の意志で両手を目の前でグー・パーと開け閉めしてみる。
やはりこの身体の主導権は私の方にあって、『篤史くん』に成り代わりあれこれ行動せねばならないようなのだ。
『篤史くん』は私の心の端の方にいて何やら考えたりはしているようだが、普段の思考は取りとめもなくこちらにははっきりと伝わってこない。
だが、私がぼんやりと『篤史くん』の為人に思いを寄せてみると、次から次へと情報が溢れ出してくる。
実父と義母はともに連れ子を持つ者同士の再婚で義母や義姉とは血がつながっていないこと。
実父は6年前ほど前、『篤史くん』が小学校4年生の時に亡くなってしまったこと。
もともと実父は公務員勤めで、定時に帰れる分家事などを率先して引き受けており、半ば主夫業をしていたこと。
父が亡くなった後、人のいい『篤史くん』は血のつながらない義母や義姉のために率先して家事を引き受けるようになったこと。
それが半ば常態化して、今や家の中のほとんどの事を『篤史くん』が一人でこなしていること。
そしてその事に、義母と義姉は一切感謝していないであろうこと。
そして要求ばかりが過大化してゆき、今や『篤史くん』の日常は家事や彼女達の世話に終始していること。
気分屋の義母は日によって態度がころころと変わり、ニコニコと猫なで声で気のいいことを言う翌日には烈火のごとく怒りだし、理不尽な要求をしてくることなどが日常茶飯事であること。
義姉は『篤史くん』の事を毛嫌いしてくるくせに面倒ごとはすべて彼に押し付け、あれをしておけこれを買ってこいなどと一方的な命令ばかりをしてくること。
これらの全てに『篤史くん』が応えようとしてしまい、6年たった今彼の心は擦り切れそうになっていること。
だがこれはとても難しい問題だ。
このようないびつな人間関係が構築された裏には、様々に絡み合った複雑な事情がある。
まず一番に、もともと繊細で内向的な『篤史くん』は、実父が亡くなった際には大変なショックを受け、どうすればいいか分からなくなった。
そんな中、再婚してそれほど時間がない義母とはまだ充分な親子関係が出来ていなかったようで、彼女に捨てられやしないかと恐ろしくなり、ことさらいい子であろうと努力をしたようなのだ。
最初のうちは義母や義姉も「みんなで協力し合っていきましょう」だとか、「お姉ちゃんがなんでもやってあげる!」だとか、三人で助け合って暮らしてゆく為の心構えがあったようである。
だが思いつめた『篤史くん』が必死になって家事をするうちに、義母も義姉もどこかで『篤史くん』に寄りかかってしまった。
その上で、年端もいかない子供に甘えてしまった。
義母はもともと甘えん坊な女性だったのだろう。
子供である『篤史くん』にとっては菜穂子さんは大人の女性で、母親であるべき立場の女性が子供に甘えるなどといった事があるとは思いもよらない事だろう。
だから『篤史くん』は未だに菜穂子さんを大人の女性であると認識しているようなのだが、これはとんでもない間違いである。
『篤史くんの記憶』を私というフィルターで濾して見てみると、どこか大人になり切れない菜穂子さんの危うい性格が私にはとてもよく分かる。
もともと亡くなった『篤史くん』のお父さんが包容力のある大人の男性であった。
外に出れば社会人の義母は、会社のストレスに耐えた分だけ家では実父に大いに甘え、それで心のバランスを取っていた。
だがその肝心のバランスの元が、ある日突然亡くなってしまった。
それで彼女はあろうことか小学生の男の子に実父と同じ関係を強要してしまったのだ。
恐らく『篤史くん』が実父ととてもよく似た雰囲気がある男の子であることなどが影響していたものと推察される。
そんな義母に対し、混乱した心の『篤史くん』は必死になってこれに応えようとした。
こうしていびつな人間関係が出来上がってゆく。
「美味しいものが食べたいわ。次はあれを作ってちょうだい。」
「私はあなた達のために毎日遅くまでお仕事しているんだから、これぐらいの事はやってもらわなくちゃ困るわ。」
「私のためなら毎日お風呂の準備、出来るわよね? もちろんきれいにお掃除しておくのよ?」
どんどんエスカレートする義母の要求に『篤史くん』は応えてしまった。何より、応えるだけの素晴らしい能力があった。
彼は小学生にして、家のあれこれを完璧に近い形でこなしてみせたのだ。
これは本来、諸手を上げて称賛されるべき素晴らしい偉業である。
『篤史くん』はここで感謝されることがあれば、自信を取り戻し、義母との間にあるべき健全な関係が築かれる未来もあるいはあったことだろう。
だが結果は大変残念なことになった。
菜穂子さんは親として褒める替わりに、人として甘えたのだ。小学生の男の子に。
だから際限なく要求はエスカレートしていった。
菜穂子さんが甘ったるい声で「『アツシ君』ありがとう」なんて、ハートマークでも語尾についているような感謝の言葉を口にするとき、対する『篤史くん』の心境はいかほどだったろうか。
子供は無知だが馬鹿ではない。特に『篤史くん』のような頭の良い子供は、それが母親の出すべき声ではないことなどすぐに気づいた事だろう。気付いたうえで、恐らく意味が分からず、ますます混乱したことであろう。
そんな中、義姉の由紀奈さんもまた少しづつ寄りかかっていった。
親の背中を見て子は育つ。義姉の由紀奈さんが菜穂子さんと同じような振る舞いになるのはあっという間だった。
菜穂子さんと由紀奈さんの、思い返すもおぞましい会話のやり取りが『篤史くん』の記憶の中に残っている。
最初菜穂子さんは窘める風だった。
「ねぇユキ。あなた、『アツシ君』になんでもお願いし過ぎよ? あなたお姉さんなんだから、むしろ『アツシ君』のお願いを聞いてあげなさい。」
対する由紀奈さんの返答は朗らかな声であった。
「えー? おかーさん。違うって。『アツシ』が好きでやってることだから、仕方なくお願いしてるんだって。『アツシ』ってば可愛い女の子にお願いされるの大好きなんだって。好きでやってることだからいいんだって。」
「えええっ!?」菜穂子さんは少しばかり不機嫌な声を上げる。
けれども由紀奈さんは笑っていた。
「おかーさんの周りにもいるでしょ? 美人に色々してくれる人。『アツシ』ってばそういうタイプなんだって。ほら、あたしもおかーさんも美人だし可愛いから……。だからヘタに代わったりすると『アツシ』が困るんだって。」
「えーっ? そうねぇ……。」菜穂子さんは苦笑いをしてから、『篤史くん』の方へ向き直る。
「『アツシ君』? そうなの? 『アツシ君』が好きでやってることなの?」
その時の『篤史くん』の心情がどうであったか、私は感じることが出来ない。今や『篤史くん』の心のうちは冷え冷えとしてしまっていて、ただ記憶だけが『篤史くん』の目に何が映っていたかを私に伝えるばかりなのだ。
『篤史くん』は「あ……。はい……。」と返事をした。『篤史くん』の記憶の中では、、口の端を少しだけ上に歪めて、上手に笑顔が出来ていたかが心配だった、といった覚えしかない。
それで菜穂子さんは「ふふふ。そうなの。」と一人で納得したかのように笑い、それでこの話はお終いになった。
その日から義姉の由紀奈さんがどれだけ無茶な注文をつけてきても菜穂子さんは「ふふふ。」と笑って見逃すばかりとなった。
『篤史くん』にとっての本当の地獄は、この日から始まったのかもしれない。
ところでここからが肝心なのだが、私はこの件も含め、いったい誰が悪かったのかを考えるのは不毛な事だと考えている。
なるほど客観的に見れば大人になり切れない菜穂子さんが一番悪いように見えるし、日本の司法制度を鑑みれば彼女の責任問題とされるケースだろう。
とはいえ私自身も大人である。菜穂子さんを擁護するつもりはないが、彼女の置かれていた状況や事情についても一定の理解はある。
義理の子供を持つことに心の準備が整っていないうちに夫を亡くされ、生活のために自分一人で稼がなければならなくなった状況で、とてもではないが家事にまで手が回らなくなる。
フルタイムで仕事をしながら家事・育児をこなそうなど、よほどの超人でもまず不可能な問題なのだ。
お金だけなら遺産などがあるから、例えばハウスキーパーなどを雇えばよかろうが、ともかく色々とありすぎてとてもではないがそこまで頭が回らないのだ。
この家族は事情があって祖父母や親戚を頼れない環境だった。これがそもそもの第一の悲劇で、菜穂子さんは客観性を得られないまま状況に流されて『篤史くん』に家事の全てを任せてしまった。
そもそも菜穂子さんは「子育て」というものについてきちんと理解していないむきがある。
家の事は子供の事も含めて殆どを夫がやってくれる約束になっていたのに、肝心の夫が引き継ぎもなしにいなくなってしまったのだ。
せめてそれなりに時間に余裕があればよかったのだが、『篤史くん』のお父さんは突然の病気で一月もしないうちに天に召されてしまった。
それでいっぺんに色んな事が変わりすぎたのだ。
そんな中、義理の息子が家の中の事を頑張ってくれたとき、彼女が思わずすがってしまった心境も分からなくもない。
『篤史くん』は義母の前で一生懸命いい子を演じてみせた。
ところがまさか、それが『篤史くん』が死に物狂いで必死になってやっていることだとはとても気付けなかったのだろう。
『篤史くん』は必死だったのだ。自分が捨てられるかもしれないと思って、必死になって頑張っただけなのだ。
義姉である由紀奈さんはそんな『篤史くん』の異様な必死さに気付くところもあったようだが、肝心の母が無頓着なので見て見ぬふりをしたようだ。
これも酷い話だが、そんな義姉を叱れる人間がこの家の中にはいなかったのだから、彼女一人を責めるわけにもゆくまい。由紀奈さんは『篤史くん』の1つ上で、この時まだ小学5年生だったのだから。
ところでこの一件は『篤史くん』が頑張りすぎなければ良かった話なのだと捉えることも出来る。
『篤史くん』がどこかでギブアップしてこれ以上は無理だと言ってくれさえいれば、さすがに菜穂子さんも気づけた可能性が高い。
だが『篤史くん』はギブアップしなかった。15歳の高校生になる今の今まで頑張り続けた。これは本当に素晴らしい事で、本来の一般家庭であれば美談になるはずが、この家族の中ではただの害悪にしかならなかった。
『篤史くん』のような繊細で神経質な少年に、それも父親が亡くなった直後の時に「頑張りすぎるな」などと言って聞いてもらえるか微妙なところだ。
これはうつ病患者などにも通ずる話だが、精神的に辛い状況でいる時には「頑張るな」という一言ですら、当人にとってはとても大きな苦痛になり得るのだ。
こうしてみると正直、子育て初心者に毛が生えた程度の菜穂子さんに『篤史くん』のような難しい子供の育児は最初から無理があったとしか言いようがない。
皮肉なことに実子である由紀奈さんは分かりやすい単純な性格で、育てるうえではとても手のかからない子供だった。
そして菜穂子さんの子育ては、そんなイージーモードの由紀奈さんを基準に組み立てられていた。
だから菜穂子さんはついつい由紀奈さんばかりを可愛がり、難しい『篤史くん』からは逃げてしまう。
菜穂子さんは養育から逃げ、女として甘え、死に物狂いの『篤史くん』がこれに応え、これを見た義姉の由紀奈さんは当たり前のことだと間違った学習をしてしまう。
これが積み重なった結果が今なのだ。
つくづくこの家族は亡くなったお父さんの存在が大きすぎる。この家族は彼がいて初めて成り立っていたギリギリの家族だった。それが6年前に失われてしまい、とっくのとうに崩壊してもおかしくなかったのに、奇妙なバランスで今まで成り立ってここまで来てしまったのだ。
重ねて言おう。誰が悪いなどと言った不毛な犯人捜しをするつもりはない。
母親である菜穂子さんが悪いからといって、彼女を糾弾すれば解決するような問題ではない。
だがそう、この家族は解体せねばならない。
間違った人間関係でいびつに積まれた積木は、一度きちんと崩してから正しい形に積み上げなおさねばならない。
全員が家族であることを止め、それぞれがただ一人づつの個として分裂しなければならない。そうでなければ彼らはこの先どこへも進めない。
ああそうか。
それは荒天の雲間に差しこむ日の光にも似た天啓だった。
私は自分がどうして『篤史くん』の中に憑依することになったのか、この瞬間に理解した。
昨日の夜中、『篤史くん』はついに一線を超えた。6年経って今ようやっと、超人のような『篤史くん』にも人間としての限界が訪れ、全て何もかもを投げ出したくなった。
こんな時、フツーの子供はどうするのだろう?
自殺を考えるのだろうか? 引きこもるのだろうか? 家出するのだろうか?
暴力に目覚め、義母や義姉を攻撃し、さらには殺害をすら目論むのだろうか?
あるいは心を壊し、気をおかしくするのだろうか?
昨晩の『篤史くん』はそのどれでもなかった。
心優しくもロマンチストである彼は、夜空の向こうにいる神様に向かってこんな願いをしたのだ。
――こんな僕の人生でよければ、どなたかに譲ります。
『篤史くん』はそのまま泥のような眠りにつき、気が付くと私が『篤史くん』に憑依していた。
そもそもこれが憑依なのかもよく分からない。
もしかしたら私は『篤史くん』の願望が生み出した二重人格のもう一方なのかもしれない。
あるいは『篤史くん』は私の来世で、彼の中で眠っていた私がふとしたきっかけで前世の記憶に目覚めたという事なのかもしれない。
あるいはもっと別種の何かかもしれない。そのあたりはよく分からない。
ともかく目が覚めたら『篤史くん』は私になっていて、それですっかり混乱した私は、日課であったはずの義姉のための朝食づくりをすっぽかしてしまい、これが先ほどのひと悶着へと至るのだ。
今朝は色々混乱していたのだ。だから1日くらい義姉の朝食が作れなかったからっていいじゃないか。
本来なら『篤史くん』もこのまま学校へ行かねばならない時間だったが、私はさぼってやることにする。
なにせ一段落ついた今だって私は混乱したままなのだ。
なにより学校に関してもトラブルを抱えていて、こんな状況でさらに余計な面倒など味わいたくはない。
行きたくもないところに無理をしていく必要などないのだ。人生や命が懸かっていない場合においては。そして登校してもイジメられるだけの学校など、いまの『篤史くん』にとってどれほどの価値があるといえようか。(全くないどころかマイナスである)。
私の中の『篤史くん』の心になんともいいようもない罪悪感が沸き起こってくる。
純朴な『篤史くん』は子供は必ず学校に行かなければならないとうんと昔から盲目的に信じており、ちょっとサボろうと想像するだけでも大きな罪に感じてしまうのだ。
対する私は現代社会における学校という仕組みなど、子供の脳にモラトリアム期間を強制添加し思考力ブーストをかける程度の役割しかないと考えているから、これをサボったところでなんの痛痒も感じない。
そんな私に対し『篤史くん』が不安げな様子でこちらを伺っている気配が感じられる。
おやおや『篤史くん』?
君は私に人生を譲ってくれたのではないのかね?
私は私の好きなようにやらせてもらうよ?
それが嫌なら君は自分自身の力で改めて君の人生を歩みなさい。
どうするのかね? 『篤史くん』。
君は私に人生を譲ってくれたのではないのかね?
私が諭すように『篤史くん』に心の中で話しかけてやると、身じろぎするような感覚とともに、『篤史くん』の意識がすっと離れていくのを感じた。
どうやら私に任せてくれる気になったようだ。
ふふふ。
可愛いものではないか。
『篤史くん』は今朝になって突然、私のような得体のしれない存在に身体を乗っ取られたのに、懸命に私の事を信じてくれようとしているのだ。
不思議となぜか、私はそんな『篤史くん』の事が好ましく感じられ、彼のためにいくらでも骨を折ってやろうとそんな気分になってきた。
私は自分自身の名前も思い出せないし、男だったのか、女だったのかもはっきりしない。どこに住んでいたのかも何をしていたのかもよく分からない。
私自身、結婚して子供もいたような覚えもあるが、ただの勘違いかもしれない。
こんな私だがこれだけははっきりと言える。
私の中には『篤史くん』が知りようもない、この社会に生きるための知識や経験がある。私は君が思いもよらないようなやり方でこの状況を打破してみせよう。どんな手段を使ってでも君をこの糞ったれな状況から解放してみせよう。
おままごとみたいなこの出来損ないの家族を完璧に解体してみせよう。
その為に私は君の心に宿ったのだ。
「いてっ!」
指先に刺すような痛みがして、ハッと私は我に返る。
『篤史くん』の生来の条件反射で、床で割れた皿を拾い上げようとしていたようであった。私にはない『篤史くん』らしい癖だ。目の前にゴミがあると無意識のうちに片づけようとしてしまうのだ。
だが肝心の私が余計な事を考えていたせいで注意力が散漫になり、手にけがをしてしまったのだ。
すまない『篤史くん』。大切にすべき君の身体を早速無下に扱ってしまった。
だが、割れた瀬戸物を素手で触るのは戴けないな。
私はこういう場合にどうしていたろうか? とりあえず大きなところだけ適当に拾って新聞紙にくるんで、後は掃除機でもかけてしまえばいいのではないだろうか?
えっ? そんな適当な事では危ないって?
ううむ。こと家事については『篤史くん』の方がわたしよりも何倍も知識がありそうだ。私が篤史くんの助けになりたいのに、こういったところでは『篤史くん』に頼る以外に他はなさそうだ。
どうにも前途多難で締まりのない幸先である。
※作者注
割れたガラスなどを片付ける正しいやり方、調べました。
・素手で触らず、軍手などをして掴むようにしよう!
・トングなどがあればこれを使おう!
・スリッパをはこう! うっかり踏みつぶさないようにしよう!
1.まずは大きな破片を集めて、新聞紙などにくるむようにしよう。
2.細かい破片について、掃除機は破片が掃除機のホースなどを傷つける可能性があるので、ホウキとチリトリがあるならこちらを使って掃き取ろう。
3.最後はさらに細かい破片を取り除くため、濡れたボロ雑巾などをかけよう。なおこの雑巾は危ないので再利用などは考えず、そのままゴミとして処分するんだぞ!