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不思議な見覚え

作者: N(えぬ)

 ヒロコはここ数年ずっと、趣味で多くの資格取得や習い事をしている。手にした資格は、もう10種類は超えていた。習い事も常に3種類はあった。

 時々やる気が減退するけれど、毎年夏になると、また何かに打ち込もうという気が湧いてくるのだった。

 明日が休みという日は、前日の夜からビッシリとスケジュールを組んで勉強に励んでいた。夜が落ち着いて勉強ができる気がしていた。勉強が終わったあと、少し寝て朝は遅めに起きて陽が当たる部屋で一人、コーヒーを飲むと充実した気分が得られた。


 そんなわけで、週末の仕事が終わったあと、独り暮らしのアパートで深夜になった今、彼女は集中して勉強していた。

 その時だった、

「あら……!」

 一人の部屋で気兼ねもないが、声を細めて言った。彼女の視野に「脳の記憶領域が不足しています」という警告が出た。

 この時代は、人間の脳に電子機器を繋いで情報を読み出すことが出来るようになっていた。その機器が彼女に警告を発し、それが頭の中にポッカリと浮かんで見える。

「記憶領域不足っていうことは、もうこれ以上は何も覚えられないっていうこと?困ったなぁ。何かを忘れなきゃいけないのね」


 記憶は脳に繋いだ機器である程度は制御できるのだが、この数年の勉強の影響で脳の記憶が、もう一杯だと言うことだ。ここまで来ると、何かしらを忘れて記憶領域を空けないと、それ以上何も覚えられなくなる。

 彼女は記憶領域のデータを引き出し、いらないデータが残っていないかを選別し始めた。

 記憶というのは、なぜ覚えているのか分からないような些細な事柄をけっこう残しているし、覚えたときは重要だと思ったことでも、今はもういらないという記憶も多い。そこで、それらを見返して消してしまい、記憶領域に空きを作ろうというわけだ。


 彼女の頭の中にいくつもの雑多で不明な、小さな記憶が湧いて出てくる。それらを次々と消去していった。

 記憶の中身をいちいち確認していると時間が掛かるので過去に思い出した回数が少ない記憶を一括して消去することも可能だが、彼女はそれは少し怖くてできなかった。それで、しかたなく一つずつ確認して消した。

 だがそういう、小さな忘れていた記憶は、思い出してみると意外とおもしろかったり興味深かったりした。

「あぁ。そういえばこんなことあった」

 そうしているうち彼女は、どうせなら本腰を入れてと思い、コーヒーをいれて休憩してから記憶の整理を始めた。


 彼女が消していった記憶は、多くは本当にどうでもいいようなものだったし、多くはかなり古い記憶だった。それでも、見直すとけっこう楽しめた。

「フフフ」

 つい笑いがこぼれる記憶もあった。そういうものは、削除せずに取って置いた。

 記憶の中で、思い出す機会が少ないものを対象にして取り出していたが、その中に格段に大きく記憶を占めている塊があった。


それは5年前に破局した男性との記憶だった。


 彼女はずっと、彼のことを思い出すまいと決めて過ごしてきた。別れて1年ほどして、そのことに慣れて、思い出さなくなっていた。それは、思い出さないのではなく、記憶に封をして無理矢理にクローゼットの奥へしまい込んだような状況だったのかも知れない。『思い出さないように努力した結果』そんな気がした。


 彼との記憶はザッと4年分。知り合ってからを含めると6年くらいにまたがる。

 彼とは3年以上一緒に暮らしたし、自分の将来、二人の将来についてなど長く深く考えていたし、その上で破局に至ったこともあって、膨大な記憶領域を占めていた。

「どうしよう。これ……。忘れたほうがいいかな。忘れちゃえば、記憶領域だけの問題じゃなく、違う意味でもすごく楽になれそうだけど……ハハ」


 彼女は、そんなことを考えながらしばらく、『彼の記憶』に浸った。

 思い出して楽しいもの。苦しいもの。さまざまだった。

 彼女は彼との月日を丹念に見て行った。

 今なら理解できる。今ならもっとうまく言える。今なら、今なら。

 それらの記憶を見ては毎回頭に登るのは、

「もう、むかしのこと」ということだった。


 気づけば朝方。窓の外が明るくなるころ。

「なんだか、ずっと見てたら……同じようなことが繰り返し出てくるし、もうお腹いっぱいだわ」

 彼女は腹を決めて、一番大きな『彼との記憶』を消去した。



 ある休日の午後。

 ヒロコは大型書店で今度狙う資格の問題集を買い求めた。

 書店の外に出ると遊歩道の真ん中に植えられた木の緑が、まだほとんど真上にある太陽の光を受けて色濃く見えた。歩道は、休日を楽しむ人々がゆらゆらと歩いている。


 本と、大好きなお店で買ったパンの包みを抱えて駅へ向かって歩いて行く途中、前から来る男性に見られている気がした。ちょっと好みのタイプだった。その男性をチラチラと何度か見たが、「やっぱりあたしを見ているような気がする。……知り合いだっけ?」

 むかしどこかで会ったのかもしれない。

 見覚えがある男性だが思い出せなかった。

 男性との距離が縮まっていく。男性は彼女を確かに見ている。

 彼女は、その男性の視線を気にしない素振りで、擦れ違うとき前を見たままほんの軽く会釈をした。

「暑い暑い」 

 ヒロコは颯爽と駅へ急いだ。

 彼女の後ろで男性が足を止めて振り返り、まだ彼女を見ていることには気づかなかった。


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