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始まりと、終わりと、薬缶と

作者: たま

「じゃ、台所用品もさ、もう仕舞うよ?本当に良いんだよね?

大丈夫?何か必要なものだけは段ボールの蓋閉めないで置いておくよ?」


そんなに多くもない食器類を割れないように新聞紙で巻いていた手を止めて、声を掛けてきた由美を見る。

由美は手にもった薬缶と、片手鍋をフルフルと振りながら幸太郎を見る。


「面倒だから全部しまっちゃっていいよ。

コップは紙コップで十分だし、飯は適当にそこらで買うし。

後2日だけなら、最悪コンビニ行けば何でも揃えられるし」


「もー、それもそうだけどさー…

ちゃんと栄養あるもの食べてよ?

あ、席次表、間違いないかもう一度チェックしておいてね」


由美は話しながらも手を動かす。

幸太郎は憮然とした顔で、由美が仕舞いはじめた薬缶を見る。


「…それ、本当に持っていくのか?

別に、薬缶や鍋なんて一式買ったってそんな大層な額じゃないんだから、

新しく揃えたら良いんじゃないか?」


幸太郎と由美は、2か月後の大安吉日に結婚式を挙げる。

6年暮らしたアパートの更新時期も重なり、幸太郎だけが一足先に新居先の2DKのアパートに入居する。

由美は親元に住んでいるので、挙式後に一緒に住む予定だ。


一人暮らし歴がそれなりにある幸太郎の家には、ある程度の家財道具一式がある。

率先して家事をするわけではないが、全くしないわけでもない。

だから、それなり。

不自由しない程度には揃っている。


由美と幸太郎が付き合いだして、2年。

幸太郎の家に来るようになって、彼女がその鍋や薬缶を頻繁に使いだすまでは、それなりの出番しかなかった。

全くの新品でもない片手鍋や薬缶を、由美は勿体ないしまだ使えるし、それなりに愛着もあるから、と言って新居でも使おうとしている。

堅実である。

エコでもある。


「新婚だからと言って全部新品にしていたら、いくらお金があっても足りないでしょ。

それに、この薬缶、ブランドだけあって丈夫だし、フォルムもお洒落だし。

おまけに薬缶のくせに、めっちゃ高いんだよ?」


そう言いながら、丁寧な仕草で段ボールに仕舞っていく由美を幸太郎に苦い思いで見ていた。

由美だって、知っているのだ、その薬缶の由来を。

ラジオから流れてくる懐かしい音楽が、感傷的にさせているのかもしれない。


「わー、懐かし!この曲って私が大学1年の時の歌!

新歓コンパで歌ってたのよ、私ら一年で」


無邪気に由美が笑う。

つられて幸太郎も微笑む。


「へぇ、よく覚えてるね」


「幸太郎さんは、もう就職していたよね?

あれ?でもこのアパートじゃなかったんだっけ?」


「あぁ、当時は大学の時から住んでいたアパートにいたかな。

職場からそこまで遠くなかったし、何より引っ越しが面倒でさ」


思い出すのは、あの頃。

大学時代から社会人2年目まで住んでいたアパート。

由美が丁寧に仕舞った薬缶は、別れた彼女からの誕生日プレゼントだった。


薄々気がついていた、別れの予感。

交わさない遠い未来の約束。

さり気なく触れ合わなくなってきた、二人の余所余所しい距離。

手を伸ばせば触れ合えるのに、いや、手を伸ばさないと触れ合えない程に離れていた。

後は、もう、どっちかが切り出せば終わってしまうのでは、と思わせるほどの張り詰めた緊張感がある二人の雰囲気。


嫌いだったわけじゃない。


高2から付き合いだして、大学入試前に1回別れたが直ぐに縁を戻して。

二人で初めてを沢山共有した。


出会った時のような燃え上がるような思いは既になかったけど、

それでもあっさりと別れるのを躊躇う程には、未練があった。

もしかしたら、また二人で一緒に過ごす、二人の間を修復できる余地があるような気もしていた。


あの日、幸太郎の誕生日の日は平日で、彼女との約束を明確にはしなかった。

多分、そういうことだろう、と当たりはつけていたが、もしかしたら部屋で待っているかも、とも思っていた。

携帯を何度も見ても、何のメッセージもない。

終わり、なのかと思いながら家に帰ると、玄関のドアノブに無造作に大きめの紙袋が掛けてあった。

薬缶は、彼女からの最後のプレゼントでもあり、訣別の品でもあった。

玄関を開けると、ドアの郵便受けから入れたのだろうか、封筒が落ちていた。

封筒をあければ幸太郎の部屋の合いカギと、誕生日カードが入っていた。

カードには、短くメッセージが書いてあった。


お誕生日おめでとう。

今まで、ありがとう。

さようなら、お幸せに。


それだけで、カード一枚で彼女とあっさりと終わった。

メッセージを送っても既読になることはなかった。

電話をかけても繋がることはなかった。


プレゼントに貰った薬缶を見て、幸太郎はちょっとだけ泣き笑いをした。


なぜなら、それは最後の二人の日常の一コマだったから。

余所余所しい雰囲気とは言え、まだ正式に別れていなかった彼女が、いや、既に別れを決意していたかもしれない。

もしかしたら自分の私物を少しずつ幸太郎の部屋から持って帰るために来ていたかもしれないが、それでも二人で、一緒にいた。

その日も、そんな1日だった。


「危ないんだけど、これ」


狭いアパートの台所で薬缶を持って幸太郎に見せた。

フルフルとゆすると、薬缶の柄がグラグラしていた。

熱湯が入っている状態で柄がとれたら、火傷の危険がある。確かに危ない。


「鍋でお湯、沸かすね」


そう言って、彼女は鍋でお湯を沸かしてコーヒーを淹れていた。

一人用の小さなコーヒープランジャーに鍋でお湯を入れるのは零れるし、確かに手間だが出来なくもない。

古い薬缶をゴミにだし、それ以後、幸太郎も鍋でお湯を沸かしていた。

最初は薬缶でお湯を沸かさないなんてと思い、何だか違和感があったが、慣れれば気にならない。

使えれば、問題ない。

いや、ただそれだけの為に薬缶をわざわざ買いに行こうと思わなかっただけ、なのだが。


目の前にある新品の薬缶はステンレス製でピカピカと場違いにも輝いて。


別れるのが決まっていたのなら、プレゼントなんてくれなくても良かったのだ。

それこそ、誕生日前にでも振ってくれていても良かったのだ。

もしくは素知らぬ顔をして、別れ話だけだってかまわなかったはずだ。

律儀なのか、何なのか。

でも、そこが彼女らしくて。


「あの薬缶、危なかったから、新しいの買ってあげたわよ」


そんな文句を言いながら、また、次の週末にふらりと彼女が現れるような気がして。


だけど、そんな事は起きなかった。

彼女はきっぱりと幸太郎に見切りをつけて、去っていったのだ。


彼女は結婚したがったが、だけど、幸太郎は踏ん切りが付かなかった。

社会人になって2年目。

まだ仕事に夢中だった。

新しい刺激に溢れ、楽しかった。

若かった。

結婚という責任を負いたくなかった。

好きだった。

だけど、変化が怖かった。

そして。

新しい環境で、新しい出会いに触れ合ううちに、多分お互いにもしかしたらもっと良い人が、と思ってしまったのかもしれない。


幸太郎の妹が遊びに来た時に、その薬缶を見て欲しがった。

その時、幸太郎は初めてその薬缶のブランド名と値段を知った。

てっきりその辺のスーパーかホームセンターで買ったのだと思っていた。

ステンレス製の少々重いスタイリッシュなその薬缶は、確かに丈夫で高級品とも思えなくもないが、男の幸太郎には、そこまでの台所用品に関する審美眼はなかった。

だから、妹の発言で有名なブランドの薬缶だったことに驚いた。

そして、彼女の真意を測りかねた。

もしかしたら、彼女も幸太郎と同じで別れる方向に舵を取りながらも、このまま続けられるのではないか、と迷っていたのかもしれない、と。

それとも、単に長年付き合った男に対するお礼の品のつもりだったのか。

だが、幸太郎がその答えを手に入れることはない。


結局、彼女は勤め先の地元の市役所の人と結婚した、と共通の友人から聞いた。

それを聞いたとき、良かった、と思った。

寂しい気持ちもあったが、素直に幸せになってくれて良かった、と思った。

幸太郎では彼女を幸せに出来なかったから。

彼女が望んでいるものを分かっていながら、漠然とした未来に自信が無くて、余裕が無くて、そして何よりも毎日が楽しくて。

天秤にかけても、気持ちは傾かなかった。

だから。

そんな自分は、結婚なんて出来ないんじゃないか、とそう思った。

人の一生を背負うような決断が出来ないかもしれないとも。


そんな事をつらつらと考えていたら、膨れっ面の由美が幸太郎の目の前にいた。


「幸太郎さん、今、何を思い出しているのよ?」


「ん?由美と出会えてよかったな、と思っていたんだよ」


そう言って、手を伸ばして由美を抱きしめる。

由美からは、うっすらと石鹸の匂いがした。

昨夜、幸太郎のアパートに泊まった由美は、幸太郎と同じ石鹸を使っているはずなのに、自分とは違う良い匂いがする。

あの時、自信も、勇気も無くて変化を求めなかった自分が、一生一緒に居たいと思う人間と出会えた事、そして、その人が自分を受け入れてくれた事。

それ自体が奇跡だと思う。


抱きしめられていた由美の手が背中に回る。

華奢な由美の手が幸太郎をぎゅっと抱きしめた。


「私も幸太郎さんに会えて良かった。

大好きな人のお嫁さんになれるの、すごく嬉しい。

私も、大好きよ」


耳元で囁く由美の甘い声に思わずキスをする。

そのキスを唇から首筋に少しずつ落としていくと。


「ちょ、こらこら、駄目ー!

現在は、引っ越し作業中です。

分かっていますかー?

後2日しかないんだよ?

本当に分かっている?幸太郎さん?」


甘い雰囲気をぶち壊すように、腕の中の由美が身じろぐと幸太郎の両頬をパチンと叩く。

幸太郎は苦笑して腕の中の由美を開放する。

止めていた手を再開して動かすと、由美がまたバタバタと動き出した。ガムテープが切れたらしい。


由美が動き回る姿を横目で見て、幸太郎は微笑む。

自分の決断に、不安何て一欠けらもなかった。

これから過ごす時間を、由美と一緒に共用出来る事を嬉しく思っている、そんな自分を誇らしく思うのと同時に安心して本音を吐ける相手がいることに安堵する。

だから、幸太郎は素直に口にした。


「薬缶に嫉妬してくれないから、拗ねてたんだよ」


由美は目を真ん丸に見開いて、幸太郎を見た。


「え?今更?

えぇ?だって普通に幸太郎さん気にしないで使っているじゃん?

やだ、もしかして、幸太郎さん嫌だったの?

ごめん、私、あまり気にしていなかったけど、幸太郎さんの気持ちを考えていなかった!」


え?え?と焦る由美が可愛らしい。

薬缶は薬缶だ。

幸太郎にとっても、そんな特別な思い入れ何て、ない。

今となっては、もう、ないのだ。

もしかしたらいつか、ふと傷心的な気分になって自己陶酔する時があるなら、きっと切なく思う事もある、かもしれない。

だが、その前にきっと薬缶も壊れてしまうだろう。


「いや、気にしてないよ、ただ、由美があまりにも気にしない事にちょっとだけ、ね」


そう言って笑うと由美は全くもう、という顔をして抱きついてきた。


「だって、私を選んでくれたでしょ?

だから、気にしてない。

彼女と過ごした時間何て、あっという間に追い越しちゃうくらい、これから一緒にいるんだもん。

それに、その思い出含めて幸太郎さんの大事な時間には変わりないし。

私にだってそういう時間はあるし。

それも含めて今の私達があるわけで。


もし、幸太郎さんが高校2年の時に私にあってもさ、私、中1だよ?

恋したかどうかわからないし、幸太郎さんもそうじゃない?

ちょっと前まで小学生だった女の子だよ?

眉毛だって、ぼうぼうでさ。

あの頃の私は貧相でのっぽだったし。

絶対好きになってもらう自信がない」


そう言ってカラカラと由美は笑う。

由美の身体を抱きしめながら、ふと写真の中でしか知らない由美の幼い頃を思う。

面影は残っているが、今の由美とは違う、幸太郎が知らない由美が楽しそうな笑顔で写っていた。


「うん。でも、あんな可愛らしかった時代の由美を知らないのは悔しい。

俺も隣に居たかったと思うよ」


「え、こわっ!

じゃ、なくて、早く引っ越し作業終わらせようよー、全然進まないじゃんかー」


「抱きついてきたのは由美だろ?」


「そうだけど」


由美は軽く舌を出して、苦笑いする。

そうしてゆっくりとお互いに離れて作業を再開する。

ガムテープを片手にした由美が、遠慮がちに幸太郎を見た。


「…薬缶、どうする?」


「由美に、任せるよ。

俺は、正直どっちでも良い。

薬缶は、薬缶だし」


由美はちょっとだけ、思案顔をしてから微笑んだ。


「今度、欲しい薬缶が見つかるまでは、このままで良いかな。

だって、由来知っていても2年は使っているもん。

気にしていたら、買い替えてるよ、いくら私でも」


「由美が良いなら、それでいいよ。

俺、女って新婚生活とかに夢を持っているって思っていたから、全部新しいので揃えるのかと思っていたから、さ」


「まぁねー、でもさぁ、ベッド良いの買ったし、寝具も肌触りが良いのが嬉しいし。

寝具、結構お金かかったでしょ?

その代わり、あるやつはそのままで使おうって決めたでしょ?

私のプライオリティはぐっすり眠れる方だったのよね」


そう言いながらも、付き合いだして家に来るようになった由美は包丁を新調して切れ味が良いものに変えたりしていたから、少しずつ台所用品もアップグレードしているのを幸太郎は知っている。

そこまで拘りのない幸太郎の身の回りのものは、少しずつ由美の色に染められているのだろう。


「俺は、俺の奥さんが幸せだったら、それでいいよ」


「まだ奥さんじゃ、ありませーん」


ふんふんとラジオに合わせて音程外れの鼻歌を歌いながら由美は丁寧な手つきでガムテープを貼っていた。

幸太郎も中断していた作業を再開する。


「新居に早めに引っ越して来いよ」


「結婚式の前日に、お父さん、お母さん、今までお世話になりました、をやりたいから、駄目―」


「前日って、ホテル前泊じゃんか」


「あ、そうだった。その前の日にやるから、良いんだよー、だ」


由美が立ち上がり、手早く冷凍庫一層チャーハンを作り始める。

立ち上るチャーハンの良い匂いと、由美の調子外れの鼻歌を聞きながら幸太郎もコップやスプーンを用意する。


何でもない日常。

かつて、心の中で天秤にかけても、結婚に傾かなかった。


「出来たよー、さー食べよう!

頂きます!」


元気よく由美が挨拶をする。


「いただきます、ありがとう、由美」


幸太郎も続けて挨拶をし、出来立ての湯気の出ているチャーハンを一口食べる。


「フフ、私、幸太郎さんがいただきますっていう声、好きだな。

なんか、嬉しくなるの」


「こんな美味しいチャーハンをささっと作ってくれる奥さんが出来る、俺の方が幸せだと思うけど?」


そう言って二人で笑いあいながら、お互いにもくもくとチャーハンを口に運ぶ。


幸太郎は由美をじっと見つめて思う。

何気ない日常がこよなく愛しいこと。

今だって、幸太郎自身が彼女の人生を背負う程立派な人間になったとは思っていない。

だけど、由美となら。

いや、違う。

ただ単純に、由美の傍にずっと居たいから。

結婚は勢い、そう会社の先輩が言っていたけれど。

きっと、この単純な思いに突き動かされるからだと思う。

そして、以前の時のように、由美と自分の生活を天秤にかける事すらしていなかった自分に幸太郎は気が付いた。


由美はあつー、と言いながら麦茶を飲んでいる。


「俺、由美が毎日笑っていられるように、頑張るよ」


「チャーハン食べながら、そんなん言われても、何て答えればいいのよ」


恥ずかしいのか、ちゃかしながら言葉を返す由美は、それでも嬉しそうに笑っている。


あの時、傾かなかった天秤の答えなんてものは、きっと最初からなかった。

天秤にかけるような想いなら、結婚に躊躇してしまうのは当たり前なのだから。

ふ、と由美と幸太郎の目が合う。

二人同時に微笑み合う。

それだけ、なのにとても胸が暖かくなる。

こんな些細な事でも幸せを感じられる幸福を、幸太郎は残り一口になったチャーハンと共に噛み締めた。


お終い



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