Module_007
「くふわああああぁぁぁ~……眠い……」
ポカポカと温かい日差しが降り注ぐその日、セロは楽園内に設けられた庭の片隅で大きな欠伸をしていた。大きな木の根元で本を開く彼の耳には、風に揺られて擦れる葉のざわめきと共に、遠くではしゃぐ子どもたちの声が届く。
木漏れ日の中で一人周囲とは浮いた存在と化しているセロだが、こうした状況になったのもロッソたちから「たまには外で遊ぼう」と半ば無理矢理に連れられたからだ。
(はあぁ……折角今日も蔵書室で魔法の実験をしようと思ったのに……)
そんな風に心の中でため息を吐きながら目の前の本を読むセロに、いつの間にか近くまで来ていたロッソが声を掛ける。
「……ったくよぉ。いつまでも本ばっか読んでないで、たまには一緒に遊ぼうぜ!」
言いつつ手を掴んで引き起こしたロッソに、セロはため息交じりに言葉を返した。
「言っちゃあ悪いが、俺……走るのは苦手だぞ?」
「いいんだよ。最近ずっと蔵書室に行っていたんだろ? 身体を動かさないとすぐにへばるぞ? それにみんな一緒の方が楽しいって! 『夢中になって遊ぶ!』『そしてたっぷり遊んだ後はしっかり寝る!』それがここでの過ごし方なんだ。まぁ、これはエイデンとエルノディアの受け売りだけど」
「エイデンとエルノディア? 誰だそれ?」
ふとロッソの口から漏れた名前に、セロは首を傾げながら訊ねる。
「あー、お前は知らないか。エイデンとエルノディアは双子の兄弟で、両方とも俺の兄貴分みたいな人でさ。よく俺と一緒に遊んでくれた人たちなんだよ。さっきのセリフはその人の口癖みたいなものさ」
(なるほど。世話焼きの姉に、可愛い妹。そして自分に付き合ってくれる兄……か。ここが孤児院のような施設でも、ロッソが腐らずにこうして笑えるのは、そうした人たちのおかげなのかもな。そう思うと――彼らには感謝しかないな。彼らがいてくれたからこそ、こうして俺のようなヤツとつるんでくれるんだから……)
屈託なく笑うロッソの顔を視界に捉えながら、セロはふと胸中にまだ知らぬ彼らへ向けて感謝の言葉を贈る。
「なぁなぁ! 早く遊ぼうぜ! ぐだぐだしていると、あっという間に時間が過ぎちまうぞ!」
セロのやんわりと断ろうとする言葉に全く耳を貸さず、ロッソはぐいぐいと腕を引いて他の子どもたちのもとへと連れて行こうとする。
「あ~もう、分かった分かった。付き合ってやるからいい加減その手を離せって。んで? 何やるんだ?」
ロッソの勢いに押され、セロはため息交じりに遊びに混ざることを承諾する。その返答にニヤリと口の端を吊り上げたロッソは、他の子どもたちに「セロも入れてやってくれ」と声を掛け、セロの問いに答えた。
「うっし! なら、ルールも簡単な鬼ごっこでもやろうぜ。俺とお前が鬼で、他の子どもたちを捕まえるんだ」
「……正気か?」
「あぁ」
「もっぺん訊くぞ? 正気なのか?」
笑顔を見せながら返答するロッソに、セロは頬を引き攣らせながらさらに訊ねた。今セロ及びロッソを含め、楽園の庭には総勢三十名ほどの子どもたちが駆け回っている。
いくらまだ幼いとはいえ、それほどの人数の子どもをロッソとセロのたった二人で捕まえるのはそこそこ骨が折れる作業だ。
「あ゛ぁ!? クドいってんだよ。せいぜい鈍った身体を動かしてこい。別にお前一人ってわけでもないんだ。日暮れまで駆け回るってことにはならないだろうよ」
ロッソの容赦のない一言に項垂れつつ、セロは「受けてしまったものは仕方がない」と手にしていた書籍を足元の芝生に置いて大きく息を吐いた。
「あーもー、分かったよ。こうなったら今日はトコトン付き合って――って……うん?」
視線の先で走り回る子供たちを前に気持ちを入れ替えていたセロの目が、庭の端で教務棟へと歩いていく見覚えのない男性の姿を捉えた。セロの目が捉えたその男性は、金髪をオールバックにした灰色の瞳をもつ壮年の男性であった。
また、その男性は一目で高価だと分かる服を身につけており、彼の横にはペコペコと何度も頭を下げる楽園の大人たちが数名いる。
「どうしたんだよ? さっさとやろうぜ」
「あ、あぁ……今行くよ」
一目で部外者だと分かる人物だが、セロは自分を呼ぶロッソたちの声にその男性から視線を外すのだった。
◆◇◆
その日の夜。既に寄宿棟の消灯から幾許かの時間が経過した頃、セロはベッドの上で何度も寝返りを打っては悶々とした時を過ごしていた。
「あ~……は、腹減った……」
だが、彼の入眠をぐぅぐぅと鳴る腹が邪魔をする。あの後、結局ロッソの誘いに乗ったセロは、なんだかんだで日没まで子どもたちの遊びに付き合わされる羽目になった。散々身体を動かしたのだから今日はさぞかしぐっすり眠れるだろうと思っていたセロだったが、彼の予想は消灯後すぐに裏切られる。
(うぅ~っ、クソッ……普段あまり食べないから今日もいつも通りの量にしたのが間違いだったか)
グルグルと犬の唸り声にも似た空腹音に、セロは思わず「燃費の悪い身体だな」と思いつつ顔を顰める。ここ最近は教育棟の蔵書室に入り浸っていたせいか、いつも外で遊んでいるロッソたちに比べて食べる量が少なくなっていた。
だが、今日に限っては「あんな量で満足できるか」と腹の虫が治まる様子は見られない。庭の中を走り回っていたため、身体の疲れは感じるものの、それを上回る空腹感がセロを苦しめていた。
(このままじゃあ、最悪夜明けまで空腹と付き合うことになりそうだし、仕方がない……コッソリ行って戻ってくればバレることもないだろ)
静かに毛布を剥いだセロは、ベッドから降りて部屋を出る。「消灯後は速やかに寝ること」という楽園内のルールはあるものの、こうまで空腹では明日の実験にも支障が出かねないと判断し、セロは一人明かりが落ちた宿舎棟の中を静かに歩く。
(確か……食料とかは教務棟にあるんだっけか。まぁちょっと腹の中に入れるだけだし、少しの量なら気づかれないだろ)
ロッソから事前に教えてもらっていた施設内の知識をもとに、セロは暗闇の中を物音を立てないよう気を払いながら静かに歩いていく。
この楽園における食糧事情は教務棟で給食センターよろしく一括管理されており、そこで食料品の仕入れから日々の献立まで決められている。もちろん宿舎棟にも非常時に備えていくらかの食糧はあるが、そこにあるのは保存食のみだ。
(けど、棟内に入ったはいいものの――具体的な内部の構造については教えてくれなかったんだよなぁ~。はぁ……こりゃ、地道に探すしかないか)
あの時案内してくれたロッソも「詳しくは知らない」と告げる教務棟。その中に運よく足を踏み入れられたセロだったが、「これからまだ歩くのか」とやや肩を落として彷徨い続けた。
(うん……なんだ? 話し声……?)
食料を求め、どうにか姿を見られることなく教務棟にまでやって来たセロ。陽が落ち、暗くなった棟内を虱潰しに探す彼の耳が小さな話声を捉えたのはそんな時だった。
(この部屋からか……)
わずかに開いていた扉の隙間から漏れる二人の声に、自然とセロはその内容に耳をそばだてる。ちらりと隙間から中の様子を窺えば、室内には一人の老人と一人の男性の姿が確認できた。
(うん……? あの男は――)
ちらりと様子を覗いていたセロは、片方の男性の姿に眉根を寄せた。
(確か……昼間にここにやって来た男だったか? 楽園の関係者じゃないみたいだったけど……)
彼の目に映ったのは、昼間にここを訪れた金髪の男性であった。どうやら隙間からセロが覗いているとは露知らず、目の前の老人と会話を続けている。老人の顔はセロも見知ったものであった。
(向かいに座っているのは……院長?)
わずかに開いたドア隙間から中を覗くセロは、やや横柄な態度でふんぞり返る金髪の男性とは対照的に、幾度もハンカチで額の汗を拭う老人――楽園の総統括者たるカサイス=デコイズ院長の姿を捉えた。デコイズ院長は七十を超える年齢でありながらも、普段からセロやロッソを始めとした子どもたちと一緒に遊んだり食事をしたりと柔和な笑みを湛えつつも元気に過ごす御仁であった。
セロも何度かデコイズの姿は目にしたことがあり、ロッソから「あの爺さんがここの院長だよ」と聞かされた際は大いに驚いたものである。しかしながら、今セロが目にしているデコイズは、普段の温厚な人柄は欠片も見受けられない。「二人の間に一体どんな接点が……?」という疑問をセロは胸中に抱きつつも、両者の会話に耳をそばだてた。
「……なるほど。提示されたこちらの資料及び説明から『楽園』での研究がどこまで進んでいるのかはおおよそ把握できました」
室内に設置された長テーブルと一組のソファ。そこに向い合せの形で座っていた男性は、目の前のデコイズ院長にボソリと呟いた。かけていた眼鏡を外し、手元の資料をテーブルに戻した彼に、デコイズは頭を下げる。
「あ、ありがとうございます、ザヴィスト伯。失われた技法たる魔法の復活――その研究を推し進めることが出来たのも、貴方がここに莫大な出資をして頂いたからです」
デコイズは目の前の男性――リサール=ザヴィスト伯爵に深々と頭をさげながら、感謝の言葉を述べた。
しかしながら、その謝辞を受け止めるザヴィスト伯の顔色は優れない。
「しかし……デコイズ院長、どうやら楽園の研究もそろそろ潮時のようだ」
「なっ……!? 何故です!」
ザヴィスト伯の言葉に、デコイズは驚いた様子で身を乗り出しつつ訊ねた。
「私もこの施設の子どもを材料に、さまざまなコネクションを築かせてもらった。お陰で当家は公国の中でも指折りの地位と権力を有する名門の一つとして数えられるまでに至った。そのお返しとばかりに、この楽園には出資及び人体実験への便宜を図ってはきたが……話を聞いた限り、研究が実を結ぶまでにはまだ時間がかかりそうだ」
「で、ですが! 研究は着実に前へと進んでいます! 子どもたちを使った実験では、その成果の片鱗が……」
デコイズはテーブルを叩きながらザヴィスト伯の言葉に猛然と抗議する。院長とてこれまで多額の資金と多くの時間を費やしてきた研究に、「自分でなければ形にすることは出来ない」という自負がある。あと一歩のところで「止めろ」というのは、デコイズにとっては身を切られるほどに辛く、残酷な仕打ちというものであった。
「それに、貴方を始めとする大勢の『出資者』たちのもとへはこれまでに何人もの子どもたちを金と引き換えに宛がっている。他の出資者から聞く限り、この『楽園』の子どもたちは優秀で従順。出資者のもとには他の有力貴族から『斡旋してくれ』との依頼が引きも切らないとか」
院長の指摘に、今度はザヴィスト伯がその表情を曇らせた。
「あぁ、貴殿の言う通りだ。そうした依頼は私のもとにも来ている。だが……こちらとしては資金も出している関係上、そろそろ成果を上げて欲しいのだよ。いくら貴族とはいえ、その資金は湯水のように使えるわけもない」
「えぇ、その辺りの事情は私も重々承知しております。ですが、今しばらくお待ちくだされば……」
なおも食い下がるデコイズだったが、対するザヴィスト伯は「残念だが……」と首を横に振りながら告げた。
「潮時、と告げたのには他にも理由がある。それは――この国の中枢を担う貴族たちの一勢力に不穏な動きがみられるのだ。これは何も貴殿に圧力をかけているわけではなく、私の伝手で調べ上げた確かな事実だ。しかも、ここ最近急速に賛同する者たちが増えている。早く成果を上げなければ、そやつらを抑えつけられることも不可能になるだろう。また、これまでの『治療』と称した人体実験が明るみに出れば、良くて研究の永久凍結、最悪……関係者全員の粛清が行われるぞ」
脅しともとられるザヴィスト伯爵の一言に、デコイズは「そ、そんな……」と顔を青ざめさせた。
「もし研究をこのまま続けたいのならば、その成果を国外にまで轟かせることだ。私の力で押し留められるのはせいぜい1カ月ほどしかできんだろう。それまでの間に楽園での研究について、その有用性を示せ。たとえ……どんな手段を用いてもな。でなければ、この先の未来は永遠に閉ざされたものとなろう」
「ぐっ……」
伯爵の位を持つリサール=ザヴィストの言葉は、デコイズ院長の肩に重くのしかかった。突如として突き付けられた最後通牒に、ギュッと拳を握った彼は、わずかに身を震わせながらポツリと呟いた。
「分かりました……必ずや満足のいく結果を――」
「あぁ。楽しみに待っている」
デコイズの言葉を聞き届けたザヴィスト伯爵は、その言葉を最後に部屋から静かに立ち去った。
「あぁ……やってやるとも。ここには豊富な実験設備と材料がある。1カ月と言わず、半月で必ず成果を出して見せようではないか。それまでせいぜいふんぞり返っていればいいさ。――汚い金の蝿共め」
ギシリと奥歯を噛みながらザヴィスト伯爵が去った扉を眺めるデコイズは、テーブルの上に広げた資料を纏めると自分の研究に戻っていった。
(おいおい。魔法、研究、子ども……果ては人体実験だと?)
そしてふとしたきっかけから両者の会話を盗み聞きしていたセロは、大人たちに見つからないよう夜陰に紛れるようにその場からそっと立ち去るのだった。
◆◇◆
(あ~、ダメだ。昨夜のことが強烈過ぎてほとんど寝付けなかった……)
明くる日、ほとんど徹夜状態で頭の回転が鈍くなったセロは、その日は体調が悪いからと外へと繰り出すロッソたちに申し出て一人ベッドに寝転がっていた。
(俺がここで目を覚ましてから今日まで、何名かの子どもたちが楽園を『卒業』していった。卒業の基準は分からない……彼らの年齢もバラバラだし、これといった共通点も見つけられない。単にこの『楽園』の大人たちが卒業と言ったから決まったんだが……彼らが今何をしているのか、どこにいるのか、その後の詳細は知らされていない)
セロは一人きりになった部屋の中、昨晩の院長たちの会話の信憑性を探っていた。
(同じく、疾患があるからと『治療』のために宿舎棟を離れていった子供たちもいた。だが、その子供たちは今もなお戻ってきてはいない。今までは気にもしなかったけれど……あの会話の後じゃあ『裏がある』としか思えないよな……聞いた限り、とても冗談の類には思えなかったし……)
そこまでの推察を終え、ため息交じりに呟いたセロは、「なら――あの会話が真実なら」と仮定してさらに思索を巡らせていく。
「楽園の研究――それは失われた技法である魔法の復活だ。その名目のもとに子どもを使った人体実験にまで及んでいる。なら……その魔法が使える俺は?」
ふと、セロの口から出た言葉。その先に待つ展開を想像した時、無意識のうちに彼の背筋がゾクリと粟立った。
「……冗談じゃない。良くて実験に付き合わされた挙句、ここで一生飼い殺しだ。まだ確証は無いにしろ、俺たちのような子どもを『実験材料』とみなしているようなヤツらと一生付き合うってのか? それこそ悪い夢だ」
ブルリと一度身を震わせたセロは、やがて一つの結論を口にする。
「決めた――何が何でもこんな場所からオサラバしてやる」
自らの決意を口にしたセロは、この日から脱出に向けた行動を開始するのだった。
セロがそんな決意を固めたと同じ時――教務棟の奥に位置する部屋、院長室ではこの楽園を取り仕切るデコイズ院長が一人苛立ちを募らせていた。
「クソッ! 『早急に成果を見せろ』だと? 簡単に言ってくれるわ! ここまで……ここまで来るのに、どれほどの時間と金を費やしたと思っている! 楽園での研究もあともうわずかというところまで来ているというのに……」
デコイズ院長は昨夜のザヴィスト伯爵からの言葉を脳裏に思い浮かべながらギリッと歯噛みしつつ吠えた。彼がトップを務めるこの楽園では、失われた技法である「魔法」の発現と適性者の人工的創造をテーマに日夜研究を続けている。
不可能とされ、いずこの国も匙を投げた技法の復活。だが、一研究者としてその魅力に取り憑つかれたデコイズは、その実現のために、これまでに何度も人体実験を繰り返していた。
ある時は楽園の子を殺害し、人間の肉体構造を理解・観察するためにバラバラに分解するという狂気に満ちた所業まで行った。
回収した際、バケツから飛び出した手は幼く、真っ赤な血が飛び出した手を伝ってポタポタと床に滴っていたことは今でも鮮明に思い出せるほどである。
また、解剖だけではなく、他のアプローチによる人体実験により、少なくない犠牲者がこれまでに生み出されている。こうして自らの手を血で染めながらも研究に身を捧げたデコイズにとっては、このまま研究が凍結されるなど許せるはずもなかった。
「もう少し、あと少し理論を突き詰めれば……」
煮え切らない思いを胸に、犠牲を払ってまで推し進めてきた研究に対する院長の意地とプライドが、やがて彼を狂気に走らせていくのであった。