最初で最後の贈り物
母から突然明かされた「豊」という異父兄弟の存在に、まひるはさすがに衝撃を受けていた。
「…嫌なら諦めるけど…まひると浩はどう?
お兄ちゃんに逢うのは嫌?…会いたくない?」
まひるはすぐに返事が出来ず、うなだれたまましばらく考えていた。
「おまえたち、どうなんだ?」
黙って成り行きを見守っていた父が、穏やかな口調で返事を促す。
「…あ、はい…」
たとえ父親は違っても、自分達と同じ母の子供なのだ。そのお兄ちゃんが自分達に逢いたいと言ってくれている。やはり、母のためにも逢うのが一番だとまひるは思った。
「うん。…いいよ」
顔を上げてまひるが答えると
「ボクもいいよ~」
浩は間髪開けずに笑顔で答えた。
些細な事でまひると喧嘩をする度に「あ~あ、僕に優しいお兄ちゃんがいてくれたらな~」とぼやいていた浩の事だ。浩にとってお兄ちゃんは憧れだった。最初から≪逢いたい≫と答えは決まっていたようだ。
そして、
2週間後の週末のこと。
母は朝から驚くほどご機嫌だった。
鼻歌を歌いながら掃除を終えると、口紅を塗ってめかしこんでいた。よっぽどこの日が待ち遠しかったのだろう。お気に入りの黒とグレンチェックのワンピースを着て、そわそわと時計ばかり気にしていた。
「まひるも浩も、お兄ちゃんが来たら、ちゃんと挨拶してね」
「は~い」
「大丈夫だよ、ちゃんとわかってるよー」
そう。
この日は豊お兄ちゃんが、家に来る日なのだ。
午後2時を少し回った頃。
トントンと玄関を叩く音がして、「こんにちは~」と男性の声がした。
「あ!お母さん!お兄ちゃんが来たよ!」
浩が素早く気づいて立ち上がった。
まひると浩が聞いた初めての豊の声だ。
「は~い」
母は手ぐしで髪を整えて、満面の笑みで玄関へ向かう。まひると浩も母の後を追って、襖の影からこっそり覗き見していた。
「お母さん、お久しぶりです。元気だった?」
少しハスキーな豊の声は、落ち着いていてとても優しかった。
「元気よ~。みんな待ってるわよ。あら…?」
豊のすぐ後ろには淡いピンクのワンピースを着た婚約者がいて、「はじめまして、マキコです」と会釈した。
「あ、ごめん!お母さん。言ってなかったね。こちらマキコさん。僕の婚約者だよ。今日お母さんに会いたいって、一緒に来てくれたんだ」
「まあ…!嬉しいわ!豊…。
マキコさん、来てくれてありがとう…」
豊は今後逢えなくなってしまう母のために、自分の婚約者を連れてきてくれたのだ。
二人の幸せそうな姿を見た途端、母の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「えっ、そんな。泣かないでよ、お母さん…」
豊は泣いてしまった母を見て少し戸惑ったが、すぐに笑顔になり、「マキコさん、僕のお母さんだよ」と母をマキコに紹介した。
「こんにちは、お母さん」
「こんにちは。マキコさん。会えて嬉しいわ…」
母は溢れる涙を拭いながら、「遠いところ…お疲れ様。さぁ、狭いところだけどあがって…」と、母は二人を迎え入れた。
そして、「すぐにお茶を入れるわね」と、泣き顔を見られないように手で顔を隠しながら台所に下がった。
母と入れ替わるように、今度は父が豊とマキコを出迎えた。
「はじめまして、豊くん。マキコさん。よく来てくれたね。今日は来てくれてありがとう。それから…結婚、おめでとう」
「はじめまして、豊です。お父さん…。お邪魔させていただく事になり、本当に嬉しいです。ありがとうございます」
「はじめまして、マキコです。突然お邪魔することになって、すみません…」
豊も母につられて涙がこぼれ落ちた。
父は豊に握手を求め、豊も嬉しそうに父の手を握りながら挨拶を交わしあった。
「あ、そうだ!実は今日、車で来たんです。角の道路に停めてきたんですけど、そこで大丈夫ですか?」
父は一旦外に出て、豊が指さす方を確認すると
「あぁ、西川さんちの横だね。あそこなら大丈夫だよ」と微笑んだ。
「さあ。豊くんも、マキコさんも奥へどうぞ。
あっ!ごめん…。うちはスリッパないから、そのまま上がって」
「はい、お邪魔します」
「お邪魔します」
部屋と言っても、まひるの家は小さい。
玄関を開けたら、すぐに小さな台所とトイレがあり、襖を開けたところにしきりのない六畳の和室が2つあるだけだ。
豊とマキコは父に促されるまま、奥のテーブルについた。まひる達は先に座って待っていた。
「こんにちは。まひるです」
「浩です。はじめまして…」
まひると浩も続けて挨拶をした。
「こんにちは、豊です。はじめまして。
聞いてたとおり、ふたりとも可愛いね。
会えてホントに嬉しいよ~」
お兄ちゃんに誉められて二人ともご満悦だ。
初めて逢ったお兄ちゃんは、背が高くて痩せていた。写真で見たとおり優しい目をしている。はっきりした目元と穏やかな雰囲気が、母にとてもよく似ていた。
「はじめまして、マキコです」
マキコは豊よりも2歳年下だという。
口数は少ないが、とても優しそうな女性だった。
一通り皆の挨拶が終わった頃、「はい、お待たせしました~。お茶どうぞ~」と、泣いて鼻が赤くなったままの母が、温かいお茶とお菓子を持ってやってきた。
まひる達は初対面の豊とマキコに少し緊張していたが、豊やマキコが「学校は楽しい?」「部活は何かやってるの?」等と、色々話しかけてくれたおかげで、いつの間にか打ち解けられた。
そして、ふたりはごく自然に豊の事を「お兄ちゃん」と呼べるようになっていた。
だけど、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。
やがて、遠くから≪夕焼けこやけ≫の放送が聞こえてくると、豊は壁掛け時計を見上げて「あ…。そろそろ帰らないと…」と言った。
母はみんなで一緒に晩御飯も食べられると期待して、秘かにしゃぶしゃぶの準備をしていた。
母は名残惜しそうに「せめて夕飯を食べてってよ」と懇願したのだが、豊達は他の予定があり、どうしても帰らないといけないという。
「…そう…。残念だわ…」
母はひどく落胆したが、渋々頷いた。
そんな母を見て、豊は「あ、そうだ!危ない、危ない。つい、忘れるところだった!」と、何かを思い出したようだ。
「ちょっとマキコと一緒に車に行ってくるから、お母さん待ってて」と伝えて、上着を着て家を出た。
しばらくすると、両手にプレゼントを持って、豊とマキコが戻ってきた。
「はい、これ。お母さんに」
「これは、お父さん」
「そして、これはまひるちゃんと…。
はい。これは、浩ちゃんに」
それは、お兄ちゃんからの最初で最後のプレゼントだった。
母は大好きな薄紫色の花柄のスカーフを。
父は、これまた父が大好きなウイスキーを。
まひると浩には、それぞれ黒いハードケース付のアコースティック・ギターが贈られた。
すぐに弾けるようにと、ピックやチューニング用の音叉。そして、教則本までプレゼントしてくれた。
「お母さん…。首周りが温かいと風邪引かないから、良かったらこれ使ってね。どうか…。これからもずっと…元気でいてください…。今日は本当にありがとう…」
母も豊も泣いていた。
母はいつもよりも小さく見えた。
そして、豊の手からプレゼントのスカーフを受けとると、まるで子供のように泣きじゃくった。
「お父さん…。今日は逢ってくれてありがとうございました…。どうか、母を…これ…からも…よ、よろしくお願い…します…!今日は、お父さんと呼ばせてくださり、あ、…ありがとうございました…!」
豊は肩を震わせながら、父に深々と頭を下げた。
父は贈り物のウイスキーを受けとると、ウイスキーごと豊を強く抱き締めながら「豊くん…。豊くんは、本当に背が高いな~」と、豊を見上げて泣き笑いをした。
これは血筋なのだろうか。
神谷家はみんな、涙もろい。
そして、父は豊からゆっくり離れて握手をすると、さらに言葉を続けた。
「君も今まで色々大変だったなあ…。
小さい時から本当のお母さんと離ればなれになって…苦労したな…。だけど…さすがうちのお母さんの子供だ!
立派に育ってくれて、本当にありがとう…。今日はマキコさんも連れてきてくれて、本当にありがとう…。どうか、幸せにな。元気でな」と、感謝を述べた。
「まひるちゃん。浩ちゃん。
今日は逢ってくれて、本当に…ありがとうね。それから…お兄ちゃんと呼んでくれて…あ、ありがとう…」
「お兄ちゃん…」
「お兄ちゃんはね…。寂しい時とか、悲しい時は…。いつもギターを弾いていたんだ。だけど、大きくなってからは…嬉しい時も、楽しい時も弾けるようになったんだ。音楽は、本当にいいよ」
そう言いながら、二人にギターを手渡すと…
「だから、今度はまひるちゃんと、浩ちゃんにも…ギターを弾いたり、音楽を身近に感じてもらいながら…幸せになってもらいたいんだ…。
本当は…。
ふたりにギターを教えてあげたいんだけど、時間がなくてごめんね…。
今日は本当にありがとう…。
お兄ちゃんは、こんなに可愛い…妹と…弟に会えて…本当に、幸せだ…。
本当に…ありがとう…」
「ありがとう…。お兄ちゃん…」
「お兄ちゃん…!」
まひるも浩も、お兄ちゃんと逢えるのはこれが最後。豊の家庭の事情で二度と逢えないとわかっていたので、泣いて別れを惜しんだ。
「豊…。豊…!」
母はお兄ちゃんの胸に飛び込んで、最後の別れを交わした。
この時、母と豊が一番つらかったと思う。
別れの時がやってきた。
車が見えなくなるまで、大きく手を振った。
お兄ちゃんとの最初で最後の時間。
最初で最後の
お兄ちゃんからの贈り物。
お兄ちゃんがくれたギターは、まひるにとって大事な宝物になった。
そしてこれが、まひるがギターを弾くきっかけになった。