お兄ちゃん
これは、まひるの中学時代の話です。
母に言われたとおりに、まひると浩は正座してちゃぶ台についた。父は母の隣でお茶をすすりながら、軽く咳払いをして、ゆっくりと母に視線を向けた。
「お母さん…どうしたの?」
ただならぬ雰囲気を察した弟の浩は、心配そうに母に訊ねた。まひるも不安そうに母と父を見つめながら、次の言葉を待った。
母は言葉を選びながら慎重に二人に告げた。
「実はね…。おまえたちにこの事を話すのはまだ早いかな…と、お父さんにもよく相談したんだけど色々事情があって、やっぱり今しか話す機会がないかなと…思って…。
だけど、これから話す事は…。
おまえたちにとって嬉しくないと思うし…ものすごく驚くとも思うし、もしかしたらショックを受けるかもしれない…。
でも、もうおまえたちも中学生になったものね。
まひるも浩も、大丈夫よね。
おまえたちなら大丈夫と信じて、話すわね…」
母は父に(いいわね?)と確認するように頷くと、父もそれに応えて「お母さんの話をちゃんと聞けよ」と子供たちに言い聞かせた。
ふたりは黙って頷いた。
「…びっくりすると思うけど、びっくりしないでね」と、(ちょっとそれは無理だろう)と思われる前置きをした後、
「おまえたちなら、ちゃんとわかってくれると信じているから…」と、二人の目をしっかり見ながら話を続けた。
「お母さんにはね。もうひとり子供がいるの。
その子のお父さんはお父さんじゃなくて、違う人なんだけどね…。まひると浩には、お兄ちゃんがいるの」
「えっ?お兄ちゃん?」
まひると浩は驚きの声をあげた。
これを聞いて驚かないわけがない。
母の告白は二人の子供たちにとっては、やはり衝撃的なものだった。
話を聞くと、母は父と出逢うずっと前に、親が決めた他の男性と結婚しており、20歳の時に男の子を授かったという。
母が産んだその子の名前は豊くん。
豊くんが生まれた当初の母は幸せだったが、その幸せはそう長くは続かなかった。
母の元旦那は不誠実で、母以外にも付き合っていた女性がいたという。そして、あり得ない事に、いつしかその愛人が同居するという不思議な共同生活が始まったのだ。
母は何度も男性に抗議したが受け入れてもらえず、離婚したいと申し出ても認めてもらえなかった。
ある日、母はそんな結婚生活に我慢出来なくなり、まだ3才になったばかりの豊くんを連れて家を出たのだ。
しかし、すぐに親戚づたいに母の居場所がバレてしまい、豊くんは無理やり男性に連れ戻されて、母とは離婚することになった。
離婚後、その愛人は母の元旦那と結婚し、豊くんの母親になってしまったのだという。
「今まで、お兄ちゃんのこと言えなくて…
本当にごめんね…」
豊くんや当時の事を思い出して、さぞかし辛かっただろう。泣きながら、それでも一生懸命に話してくれた。
まだ中学生だったまひると浩には、母の本当の悲しみや辛さは到底理解しづらいものだった。
けれど、まだ子供とはいえ、母の涙でその悲しみはそれなりに理解出来る。
ティッシュで涙を拭きながらお兄ちゃんの事を打ち明けてくれた母の姿を見て、まひると浩の目にも涙が溢れた。
「…本当に…ごめんね…」
母は離婚後も豊くんの身を案じ、元旦那や女性にはわからないように時々会っていたという。
母は1枚の写真を見せた。
それは、大人になった豊くんだった。
当時の流行りの長髪で、ギターを抱えてカメラ目線で微笑む豊くんがそこにいた。
まひると浩は、父親違いのお兄ちゃんの姿を初めて見た。
(なるほど…)
まひるはお兄ちゃんの写真を見て、今まで不思議に感じていた謎が解けて合点した。
お兄ちゃんの背格好が、母が大好きな歌手「真木ひでと」によく似ていたからだ。
母はテレビで真木ひでとを見たり、歌を聴くたびによく泣いていた。
まひると浩はそんな母を見るたびに
「あ~、また泣いてるー」
「なんで泣くんだよー」等と笑っていた。
母はいつも
「だって真木ひでとの歌がいいんだもの」とか
「ごめんね。何だか感動しちゃって~…」
等と返していたが、きっと真木ひでとにお兄ちゃんの姿を重ねて、思い出していたのだろう。
母は続けて、豊くんの話をした。
豊くんは複雑な家庭に育ったせいで、とても苦労したと思うが、今では立派に成長して、来月結婚する事が決まったという。結婚の報告をした母はとても嬉しそうだった。
「でもね。お嫁さんが北海道の人で、結婚したら実家の旅館を継がないといけないらしいの。
だから、豊は婿入りして北海道に引越す事に決めたんだって。
北海道に行ったら、もうお母さんとも逢えなくなるんだけど、豊からひとつお願いされてね…。
北海道に行く前に、おまえたちに一目だけでも会いたいって言われているの。
ひとりっ子の豊にとって、お父さんは違っても、まひると浩は兄弟だからね…。
会いたいって…。
まひる。
浩…。
…どうかしら。
嫌かもしれないけど…
おまえたちにとってお兄ちゃんにあたる豊と…
会ってもらえないかな…」