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わたしの様子をどう思ったかわからないけど、隼人さんは、ブレなかった。
「まず食事な! 話はそれからだ」
……うん、腹が減ってはなんとやら、というやつですね!
隼人さんはにこにこと、わたしを見ていたけど、不意に胸ポケットに手を当てた。
「スマホよ、俺のデートの邪魔すんな。水没させるぞ」
隼人さん、それはスマホの罪ではなく、発信者の責任ではないでしょうか?
取り出したスマホを嫌そうに見て、隼人さんは大げさにため息をついた。そして、立ち上がった。
「わりぃ、ちょっと電話してくる」
「あ、はい。お気になさらず……」
「気にしちゃいけないのは、アリスの方。今、絶対、隼人さん忙しいのにわたしなんかの相手をさせちゃって……って考えただろ?」
なぜわかる。
中年の洞察力なのか⁉︎
いや、世の中年が皆こんな特殊能力持ってたりはしないですよね、そうですよ。
隼人さんが、凄いんだ。
たぶんアホっぽさ全開で見上げているであろうわたしに、凄い隼人さんは、駄目だぞー、と指をふった。ちっちっち、って。
この動作が様になる人がいるとは、思わなかったわ……。
「それ、違うからな。正解は、知らない店に連れて来た挙げ句、このわたしをテーブルに残して通話のために席を立つなんて、無粋な男ね! って。これだからな?」
このわたしって、どのわたしでございますか、隼人さん。
ちょっと、思いあたらないです。
「凄く素敵なお店に連れて来てくださっただけで、もう十分です」
「まだだよ、腹いっぱい食べて、味わわなきゃ。ここ、注文受けてから作るから、ちょっと時間かかるんだよなぁ……。料理が来るまでには戻れると思うが、来ちゃったら、先に食べるんだぞ? アツアツのをふぅふぅして食べるのが、うめぇからな!」
じゃ、ほんと、わりぃ、と謝りながら、隼人さんは店内に戻って行った。
通話スペースがあるのかな。なんか、そういう需要もありそうだよね、このお店。
なにしろ、お値段が書かれていないメニューが出てくるんだからな!
……はぁ。
丹精された庭を眺めつつ。
なにやってんだろ、感を満喫するしかない。
ここはどこで、わたしは誰なのか。
だいたいさー。隼人さんも翼様も、屈託なくわたしを「アリス」と呼ぶけど、日本人によくある名前ではないですよね。あきらかにおかしいよね。
そういう名前の人が日本にいない、とは申しませんが……たぶんきっと存在なさるとは思いますが、でも、ポピュラーではないはずです。
なにより、わたしの記憶が主張する。
この名前は違う、って。
ゲームのための名前なんだ、って。
そんなどうでもいいことよりさー、我が記憶よ、もっと重要なことを教えてくれないかなー。
ここは、いったいなんなのか。
わたしがゲーム世界に入っちゃったんだとして、どうすれば出られるのか?
ていうか、今の状況、ほんとになんなの⁉︎
一。よくある異世界転生。はっと気づくと、乙女ゲームの世界に生まれ変わってましたー……っていうやつ。
でもあれ、ライバル役に生まれ変わるのが定石じゃない?
あと、現代人の知識でチートしたりとか!
……そういう展開が訪れる気配、ありませんね。
うん、異世界転生だとしても、あんま旨味がない感じです。もちろん、イケメンのアドレスが並んでるとか、連絡とったら即駆けつけて慰めてくれる。といった要素は……旨味かもしれないけど。
いや、確実にそうなんだろうけど、居心地悪いのよ!
だって、わたしって取り柄がないじゃないですか。大事にしてもらう価値が、どこにあるのか。
……わからん。
よし、次、行ってみよー。
二。転生とかじゃなく、精巧なゲーム世界にログインしたまま、なんらかの事故でログアウトできなくなってる説。
そういうのも小説で、あるよね。うん。あるある。
だいたい、VRゲームで……現実みたいにふるまうことができる自由度の高いゲームで、主人公その他大勢がゲームの中に閉じ込められちゃって、みたいな?
……でも、この乙女ゲーム系スケジューラ、VRにする必要、ある?
スケジューラに没入は、まずいんじゃないの。スマホで遊べるから、ゲームの特徴が活かされていたわけで……。
ないわー。あるにしても、VRが完璧に社会で一般化して、日常の大部分をVR世界で過ごす層があらわれてから、でしょ。
そしたら、VR世界でイケメン・スケジューラ、需要あるよね。あるある、きっとある。
でも、わたしの記憶によれば、このゲームはスマホ対応でございまして、それ以上でも以下でもなかったはず。
……まぁ、今の感じがVRだからって、ゲーム自体がVR化されてる必要はないか。
つまり、ですよ。
三。ログインして戻れないなどという、もっともらしさなどなく、単にゲーム世界に意識が飛んでいる。
どうよこれ。
もはや理屈をつけようとする気配もない、クレイジーさ!
転生と、基本、同じかな……いや、違うよね。
転生だと、わたしの本体、もう死んでる。戻れない。
そう考えたとき、ふれないようにしていた可能性に直面して、わたしはぞっとした。
わたし、死んだのかも。
世界が高速で自分から遠ざかっていく気がした。心臓の鼓動だけが、ひどく速い。全力疾走してるみたい。
いやいや、とわたしは眼をしばたたいた。ほら、よく見ましょうよ、アリスさん(仮名)。
凄く綺麗なお花が咲いていて、水音も耳に心地よくて。これがわたしが属している現実ですよ!
……涅槃かよ。
いやいや、ここは美しいけど! 思いだせ、殺風景なマイルームを!
よし、落ち着いた、落ち着こう、落ち着いた気になりましょう!
四。輪廻転生の過程で魂がちょっと混乱している。
ほら、過去生の記憶がよみがえりかけて、現世のわたしが混乱してる、とかさ。
……まぁそれでもいいけど、ここが記憶にある(気がする)ゲーム世界に酷似していることの説明にはならないですよね。
やっぱ、だったら異世界転生の方が筋としては納得いくよなぁ。
うん。
ここまで考えてみて気がついたけど、結局、わたしの状態としては。
精神ていうか思考? 自我? なんか、そういうのだけが、このアリスさんの身体に来ちゃってるか。
あるいは、このアリスさんこそが自分自身だけど、なんか混乱してるだけか。
シンプルな二択に整理できるよね……どっちもどっち、って感じするけど。
どっちもどっちでも、どっちかに妥当性があるはずで……はずですよね、絶対に。
うーん、とわたしは考えこんだ。
精神だけって、憑依か。
言葉を変えたら、わたし霊魂か!
……あれ?
なんか、霊って考えに既視感あるぞ……。
えええええ、やっぱりわたし死んでるの⁉︎
動揺した自分に、落ち着こう、落ち着きます、落ち着いた! と活用をかまして、あらためて。
生き霊っていう言葉もございますわよ、アリスさん!
ていうか、霊とか非科学的なこといってないで……いや、わたしが理解できる範囲の科学的ななにかで、この状況が説明できるのかはわかんないけど!
とにかく、思考停止にならないように!
そうだ。
言葉の問題なら、もうちょっとほら、心理学っぽいイメージがある言葉で考えればいいじゃない。
自分じゃない自分が存在するって、それ、多重人格ってやつでは?
……あんまり流行らないって聞いた気がするけど……って。あれ?
誰に聞いたんだ。
いつ?
首を捻っているところへ、店員さんがやって来て。
一瞬で、わたしの思考は不毛な現状把握の試みから引き剥がされた。
だってこの色! 形! 匂い‼︎
おお、これがアツアツをふぅふぅすべし、と隼人さんが厳命なさった! 食事もデザートも込み込みの贅沢パンケーキ!
ことりという優しい音とともにテーブルに置かれたそのプレートから、わたしは目が離せなくなった。
なにこの至福の湯気!
添えられたソーセージの焼きたてパリっと感の奥に確信される芳醇な肉汁。眼を楽しませる彩り豊かな野菜に、エディブル・フラワー。軽やかに存在を主張するドレッシングと、メープルシロップの艶やかさの競演。いや、饗宴かな……蕩けるクリーム、しなやかな生ハム、薄くスライスされたスモークチーズ……なんでもありだ!
五感を満遍なく刺激する、もの凄い誘惑!
いや……いくら先に食べてろといわれたっつってもですよ?
ここは!
隼人さんのお帰りを待つべきですよね?
お腹がきゅーっと絞られるような空腹感を、わたしは無視しようとした。努力した。
頑張った!