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誰かが……呼んでる?
あれ……誰……だっけ……。
「アリス! まったく……返事もできないのか。これが最後だ。起きろ、時間だ」
声は徐々に、冷たく、するどくなって……首筋からぞくっと寒気が……。
……。
って!
「つ……翼様ッ⁉︎」
「やはり寝ぼけているようだな」
つきっぱなしのPCのモニターが、真っ暗な部屋をぼんやりと照らしている。
今、何時。
寝起きの眼で画面を見るけど、焦点が合わない。
耳に覚える違和感で、イヤホンをつけたままだと気がつく。声は、そこから聞こえたみたいだ。
出元はスマホのはず。あれ、スマホがない。
技術の進歩のおかげで、無線でイヤホンが使えるのはいいけど、コードを辿って本体を発見するという原始的なテクニックが無効なのは残念過ぎる。
眠い目をこすって探したけど、机の上にはスマホの影も形もない。
スマホ、スマホ……と、室内を見回すと、カーテンの隙間からまぶしいほどの日差しがあふれていて、ああ、と思った。
朝じゃないですか、これ。へたをすると、昼かもしれませんぞ……。
あと、首筋が痛いです。寝違えたというほどではないけど、痛い。いや、この状況を考えると、座り違えた、というべきかな。
「今日の予定を確認したい。目は覚めたか」
「えっ、あっ、はい、たぶん……」
翼様が予定を確認なさるんだから、朝だ。よかった、昼じゃない。
それはともかく、スマホ!
どこだぁあ!
……あ、あった!
幸せとスマホは、あなたの足もとに落ちてます!
うっかり立ち上がったら踏み割ってるところだったよ、あっぶない。
「遅い」
翼様、ご立腹! まぁそうなりますよね、うん、知ってた!
わたしは、あわててスマホの画面をスワイプした。えっと、アプリアプリ……これこれ、予定予定……。
「今日は、午後三時にミーティングがあります」
「案件はなんだ」
「えっと……サンサルーク社との技術提携による、新商品開発……の、ブレインストーミングです」
「我が社からは何名が出席する」
「翼様を含めて六名です」
「わかった。サンサルークから素案として送られた文書があったな」
「はい」
「それを……いや、自分でやる。おまえは半休を取れ」
「は……えっ?」
はんきゅう、って聞こえましたよ⁉︎
「はんきゅうって、百貨店ですか、電鉄ですか、それとも北とか南とかの半球ですか? あとは、ええと……」
ボケのバリエーションが枯渇した!
「百貨店にせよ電鉄にせよ、ましてや地球の半分だなんて、おまえが取れるものじゃないだろう。もう少し、考えてからものをいえ」
「善処します」
「できるものなら、やってみろ」
やれといったことを、できないとおっしゃる!
ひどい、さすが翼様!
「もう心が折れました。ありがとうございます」
「おまえのいいところは、考えずにものをいうところだからな。せっかくの美点をつぶすのは、もったいない」
「いいところ、の定義に疑問を覚えます」
「考えないで口走ったことが、素直で単純な心根をそのままあらわしているから、だ。つまり、おまえの心は綺麗だね、という話だよ。それと、半休は体調管理のためだ。声がちょっとおかしいぞ。寝落ちしたくらいだ、睡眠不足だろう。ちゃんと布団に入って寝ろ。体調が戻らなければ、午後もそのまま休め」
「でも、考えてからものをいえ、と……」
「それくらい、いわせろよ。あとの予定は自分でなんとかする。スケジューラには入力してあるんだろう?」
「はい、それはもう」
今だって、スケジューラ見て確認したわけですし!
「ではな、ちゃんと休めよ」
一方的に、通話は切れた。
……えっと。
えー?
だんだん目が覚めてきたんだけど……えー?
ちょっと待って。
あれ?
翼様は、天仰グループの若き総帥であり、わたしの上司だ。
スカイツリー並みに高い社会的地位にもかかわらず、とても物腰がやわらかで、人を思いやることができる、生き仏みたいな存在だな、と……。
最初は思ってました。
うん。
いや、今でも思ってるよ⁉︎
だって、借金の保証人になって破滅した父のせいで、半端なく恐ろしい取り立てを受けていたとき、救いの手を差し伸べてくださったのが、翼様なんだもの。
恩人ですよ。
あと、わたしにとっては債権者っていうか。立て替えてもらった額面を考えると、一生はたらいても返しきれないけど、だからって、ブッチするわけにもいかないじゃん!
そう、半休なんて言葉に甘えてたら、いつまでも借金が減らないよね……。
ちびちびとでも、はたらいて返さないと!
って頑張ってたら、翼様の口調ばかりか、お話しになる内容までもが、フランクをぶっちぎって容赦ない感じになってきた昨今です。
容赦はなくても、情けはあります。そのへん、やっぱり本質は生き仏なんじゃないかと思うよ。
親切だけど、やさしくない。
それが、天仰翼という人物なのです。
というわけで、世紀のイケメンで、スーパー・ハイスペック男子と一緒に仕事してても、ロマンティックな雰囲気にはならないのが残念ですね。
まぁ、しかたない。
わたしじゃ遊びにもならないでしょ。身の程を知るがよい。
目立たないのが取り柄のモブ顔にモブ体型。
あまりにも没個性的で背景になっちゃうから、連れ歩いても問題にならない、って利点はあるかもしれません。
でも、それくらいだよな。
人材として優秀ってわけでもないし。
予定を確認っていうのも、わたしが翼様のアシスタントとして同行することになってる案件だけで。
まぁ……甘やかされてますよね。なんでかは、知らんけど。
わたしはスマホを置いて、のびをした。
半休か……半休……。体調管理のための、半休。
うーん、たしかになぁ。なんか、ぼーっとするしなぁ。
体調、よくないのかもしれないな。……首は痛いな、確実に。うむ。
休もう。
総帥、お言葉に甘えます!
とりあえず、いわれた通りにしようと、わたしはベッドに向かった。
天仰総帥のポンコツ秘書として雇われてから、職場直近の物件を提示されて、たぶん格安で借りてるんだけど……格安でも、そもそも場所がいいから、お高い家賃。光熱費や、秘書としての戦闘装備、つまりスーツとかパンプスとか、百均でごまかしてたら秘書室のお姉様に叱られた化粧品とか、文房具とか。あれとかこれとか、まぁいろいろかかるよね。
周りの皆様と、人としてのスペックはもとより、生活費のレベルとか、常識というか……諸々の落差が凄くて、気疲れはします。
さすが生き仏の職場、秘書室のお姉様がたも、人間のできたかたばかりですけど。でもやっぱり、埋められない溝どころか、満々と水をたたえた深い濠があり、こえられない壁があるのです。
あ、いわれたように身のまわりをととのえても問題ない程度のお給料は、いただいてます。
金額聞いて、壮大な仕掛けのドッキリ・カメラを疑ってキョロキョロしたくらいには、破格なんだけれども。
それも借金を返しやすくするためってことだしなぁ。
口は悪いけど、翼様は生き仏。マジで尊い。
ほんと、あんな人、実在しないって。
「はあ〜……」
なんでため息が出ちゃうんだろう。
わたし、恵まれてるのにな。
まぁ、親がろくでもなかったという、スタート地点でのハンデはあったにせよ、その後の展開は、すっごいじゃん?
シンデレラ並みだよね。どこのおとぎ話だよ。
こんなの、あり得ないでしょ。フィクションっぽいよねー。
少女漫画とか、いや少女に限らないな……女性向けの、甘々ロマンスの設定か、っていうの。
まぁ?
ロマンティックなムードが、どこにもないけど?
でもほんと、設定だけはそういうのっぽいよなー、乙女ゲームとかさー。
……。
乙女ゲーム?
がば、と音がしそうな勢いで、わたしは起き上がった。
胸がドキドキしてる。
待って。これ、なに?
どういう状況?
乙女ゲームっぽい、じゃなくない? まんま、乙女ゲームじゃない?
若干、違う部分もあるけど……これ、乙女ゲーム+スケジュールアプリの、『プライベート・ラブ』の設定だよね⁉︎
誤字報告ありがとうございます! 適用させてもらいました。