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公爵家のお庭は、わたくしのごとき小市民の「庭」概念を、サヨナラ満塁場外ホームランでぶっ飛ばすくらいの規模でした。東京ドームが余裕で何個か入りそうです。正確にどうかはともかく、イメージ的に!
広い。
ロンロンの中でも、お屋敷に招かれて降霊会、っていうのは何回か経験してたけど、なにしろ霧に消えちゃう背景グラフィックだったから、移動中の景色なんてよくわからないし、正直、あまり気にしたこともなかったです。
田園風景なんて、接する機会もありませんでした。
なだらかに起伏する丘陵地帯、見渡す限り、公爵家の土地ですって。
エリザベス様、それはもう庭ではなく、領地、みたいな表現をしていただいた方がいいかもしれませんよ!
ところどころにある木立の風情は、英国児童文学の絵本・挿絵黄金期のあれやこれやを思い出す色と形で、なんかもう感激です。
兎もいます。
おまえら、逃げないと夕食になっちゃうぞ、と思いながら眺めてしまいます。
「あっちに川があるの。殿方を追い払えなかったら、ボートを漕がせようと思っていたのだけれど、さっさと調査を進めないと駄目よ、って、丁寧に説明してあげたら、なんとか納得してくれたわ」
エリザベス様はそうおっしゃいますが、納得していただいたのではなく、無理矢理いい聞かせて蹴り出した、って聞こえます。
なぜだろう。
わたし疲れてるのよ、そうよ。
わたしたちは木立を抜け、ちょっといい感じの草原にピクニック・セットを広げました。
正確には、使用人の皆さんが仕度してくださるのを拝見しつつ、ふたりで花を摘んでました……わたしがモブ顔でなければ、まるで映画の一シーン! なのになぁ。惜しい。
少し先には、さっきエリザベス様が言及なさっていた川が見えます。
水面がきらきらとかがやいて、実に美しいです。
エリザベス様といると、なんだかお淑やかな気分になります。不思議です。
……ほんとに天使なんじゃないだろうか?
大きな敷物の上に、豪華なピクニック・バスケット。ハニー・マスタード・ソースのロースト・チキン・サンドウィッチに、苺と生クリームたっぷりのトライフル。この際、時代考証とかどうでもよくなってきたわたしですが、燻製した肉に黒胡椒がたっぷりかかっているのを見て、この時代の胡椒の価格に思いを馳せてしまいます。俗物過ぎます。
でもこれがわたし。お値段、怖い。
「ああ、そうそう」
食事が終わり、食後のお茶も終わり、ちょっと食べ過ぎたかもという後悔と戦いはじめた頃。エリザベス様が、小さな箱を取り出した。
エリザベス様の上品なてのひらに収まる程度の、ほんとうに小さな箱だ。
「これ、アーサーが。どうしてもアリスに渡してくれ、って」
「なんでしょう」
「開けてごらんなさいな。わたしは中をあらためたから、もう知っているの」
あらためたんですか!
……まぁエリザベス様ならやるだろう。アーサーもやるな。ぶっちゃけ、王太子殿下もやりそうね! わたしの周りに、わたし宛のプレゼントの中をあらためそうな人しかいない件について、深く考えたい!
交友関係を見直すべきなのでは⁉︎
シルヴェストリもやるよな。やる、ゼッタイ……と思いながら、わたしは箱を開けた。
箱の中身は、指輪だった。
ルビー……だよなぁ。アーサーが、ガラス玉の指輪を用意するとは思えないし。
「こんな立派なもの、いただけません」
「守り石だから、持っておいた方がいいわ。細工がずいぶん雑だけど。でも、石自体の力には、関係しないから」
「雑……」
べつに、雑には見えない。台座にしっかり固定されてるし、石に傷もないし。問題があるとすれば、庶民の手を飾るには石が大き過ぎでは? というところだろう。
「急いで作らせたといっていたし、そこは目を瞑らないといけないわね」
「エリザベス様、わたし……」
「わたしが、はめてあげる。より強い守りになるように、呪文をかけるわ」
あっさり指輪を取り上げると、さ、とエリザベス様は手をさし出した。
「わたしが先に思いつけばよかったのだけれど。悔しいわ。でも、アリスの指に指輪を通す役目だけは、譲れない」
手袋をはずして、といわれたら、逆らえない。エリザベス様の声は、命令することに慣れきった、特権階級の声。そしてわたしは、血筋こそ立派なのが混ざっている可能性はあっても、育ちが完全に庶民です。
請われるままに出してしまった右手のくすり指に、エリザベス様は、そっと指輪をすべりこませた。ゆっくり、少しずつ。
口の中でつぶやかれる呪文のせいか、指輪は妙にむず痒くて、そして……その……。
いいづらいけど、すっごい気もちよかったというか……。なにこれ。
変な声が出そう!
しっかりしろ、わたし!
エリザベス様の頬もほんのり紅くなってるけど、なんですかね、この、健全なのに妙に艶っぽいシチュエーション⁉︎
やがて指輪は完全にわたしの指におさまり、呪文も終わった。
ふたり同時に、大きく息を吐いてしまい。視線が合うと、エリザベス様は微笑んで尋ねた。
「アーサーにやらせるわけには、いかないでしょう?」
「そ、そうですね」
エリザベス様は、素手のままのわたしの手を、そっと撫でた。
ひぃー、今は! 今はご勘弁を!
「アリスは、わたしのこと、好き?」
「す、好きですよ!」
「軽いわ、答えかたが」
「すみません……」
「ああ、気にしないでね。わたしがアリスを好きなほどには、アリスはわたしを好きってわけじゃないのは、知っているの。そしてね、こういうとき、わたしは口をつぐんで我慢するものだと思っていたのよ」
「エリザベス様……」
「でもね、あなたとふたりでいると、我慢しなくていいのかな、って思えるの。さっきもそうよね、似合うとか似合わないとかじゃなく、好きなものを身につけてください、って。そういってくれたでしょう?」
確かにいった。いったけど、もう一回、念を押したい!
「いいました。でも、エリザベス様なら、ほんとうにお似合いになるはずです!」
「ありがとう、アリス。……わたしね、望ましい自分でいないと、落ち着かないの」
望ましい自分……。
それはつまり、眼の色まで考えて、映えるコーディネートをしないと駄目とか、そういうレベルで?
「望ましい自分に自分を近づけていくのって、楽しかったわ。苦しいこともあったけど、達成感の方が、それを上回っていたから。わたしは自分の意志で、自分をつくり上げていく。やり遂げつづけている。それは、わたしにとって、誇らしいことだったの。でも、あるとき不意に思ってしまったのよ。望ましいと思っているのは、自分なのか。それとも社会なのか。わたしはわたしのためではなく、主体のない化け物のような社会通念に、奉仕しているのではないかしら? って」
すぐには言葉をかけることができなかった。
エリザベス様が背負うものの大きさは、わたしにはわからない。
公爵家の令嬢の身にかかる期待って、きっと、すごく大きい。そして、厄介なものであるに違いない。
それを気軽に、気にしなくて大丈夫とか、いえないし。ましてや、そんなことないです、エリザベス様はエリザベス様の信じる道を進んでらっしゃいますよ、っていうこともできない。
安易な励ましは、悪気がないほど手に負えないものだ。エリザベス様のような性格なら、特に。ありがとう、と答えながら、相手を心から閉め出してしまうだろう。
でも、なんていえばいいのか。努力するエリザベス様も、それを誇りに思うことも、疑念を抱くことも。全部、エリザベス様のエリザベス様らしい人生で、どれも間違いじゃない、って。押しつけがましくなく、ああしろこうしろと指図するでもなく、ただ、できる範囲で見守ってますよ、って。
……なにをいっても、エリザベス様には邪魔になってしまう気がして。
考えた末に、結局、これしかいえなかった。
「わたしには、すごいセンスとか、ないですけど。でも、確信をもって申し上げます。エリザベス様なら、ピンクのリボンでも全然大丈夫です。とても、お可愛らしくなられますよ」
エリザベス様はわたしを見て、ふわっと笑った。いつもより、うんとやわらかい笑顔だ。
「そう信じられる自分になりたいし、今はまだ、それを信じられないけど……でも、アリスといるときだけは、それも悪くないな、って思えるの。だから、アリスはわたしの心の癒しなの。すごいのよ、アリス。あなたひとりで、社会通念全部をひっくるめたより、強いんだから。あとね……」
「な、なんでしょう」
エリザベス様に眼を覗きこまれて、わたしはドキドキした。
やばくないですか、これ。
落とすんじゃなく、落とされかかってませんか、わたし⁉︎
「そのピンク色のリボンは、あなたに似合うのを見立てたんだから、絶対、わたしよりあなたの方が似合うわ。すっごく……可愛い」
最後は早口にささやくと、エリザベス様は真っ赤になった。
え、なにこれ、可愛いのはエリザベス様ご本人じゃろおぉぉ!