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オレはいつの間にかソファーで眠っていたらしい。
近所の公園にある滑り台を使って流しそうめんを食べるという、ヘンテコでバカらしい夢から目覚めたオレは、アルコールで重くなった体を何とか起こしてソファーに座り直した。
壁に取り付けらえたアナログ時計(猫の尻尾が針替わりとなって時刻を示すという機能性を無視したデザインの)を見ると8時20分頃だということが分かった。窓から日光が入り込んでいるので午後ではなく午前だ。
オレはふらつく足取りで格安アパートの狭い1LKの床を壁伝いに歩き、キッチンのシンクで顔を洗ってついでに水も飲んだ。コップを持つ腕が棒のように固く、ひどい筋肉痛に陥っていることが分かると溜息が自然とでる。
夢じゃなかったのかよ……
何度もトモヒロに向けてパイプ椅子を叩き付けた映像がフラッシュバックする。このことは売人仲間にどう説明すればいいのだろうか? あの研究所も、どこにあったか覚えていないし、あんなにぶっ飛んだ話をしても信じてもらえないだろう。むしろ売り物の薬をくすねて使ったのかと誤解されるだろうな……
冷静さを取り戻した意識は残酷に現実を突きつける。どこかに逃げてしまいたい。消えてしまいたいという思い……こんな時に人間は覚醒剤や麻薬に手を出してしまうのだろう。
普段覚醒剤を売りつけている客を、どうしようもないバカだとか内心見下して罵っていたオレが、こうして今、その客と同じ心理に立たされているとは皮肉だ。
そうやってしばらくシンクの穴に吸い込まれていく水の流れをボーっと眺めていると、下品な音が部屋中に鳴り響いてぼやけた心に割り込んできた。
その音はこのアパートの出入口ドアの開閉音だ。古い金属製のドアの金具の微妙な劣化が、どういうワケか乳牛のいびきのような音を発する原因となっている。
「あれぇ? シンちゃん来てたの!? 」
そのドアの音とは対極の位置にある澄んだ声を聞いたオレは、ここでようやく心の落ち着きを取り戻した。
「悪いなリオナ……冷蔵庫にあったマズイ酒全部飲んじまったよ」
「いいよお! まだまだ段ボールにマズイのいっぱいあるから! 」
白いコートを羽織ったまま、リオナはオレの背中に抱き付いてきた。甘いシャンプーの香りと、酒とタバコの匂いがする彼女の感触は、オレの記憶から昨日の一件だけを一瞬だけキレイに取り去ってくれた。
「リオナ、しばらくここにいさせてくれるか? ちょっと仕事で疲れちまってな」
「ええっ! ホント? いいよいいよお! 一週間でも一ヶ月でも引きこもってていいから! 」
「はは……サンキューな」
「ちょっと待ってて、シャワー浴びてくるからね。そしたらご飯作ってあげるから」
「無理すんなよ、夜勤明けだろ? 」
「へーきへーき! それじゃーバスルームまで行ってきまーす! まっててねー」
そう言ってロッカーのような狭いバスルームへと消えたリオナ。彼女はちょっと頭の弱そうなところはあるけど、笑顔が可愛くて一緒にいると否応なく和ませてくれる存在だ。
そんな彼女が、オレが昨日トモヒロを殺したということを知ったらどう思うだろう……そもそも俺がヤクの売人をやってるってことも知らないからな……
付き合ってる女は他に二人いるが、リオナにだけはオレが原因で不幸な思いをさせたくないと思う。それほど純粋な存在だ。
でも、今こうして窮地に立たされたら、オレはこうして彼女を頼りにしているという現実。後ろめたい商売をしている自分自身の濁った心を少しでもマシに見せたいために、オレはリオナをそういう存在として見ているのかもしれない。やっぱり、つくづくオレは最低な人間なんだな。
そしてしばらくしてシャワーを浴び終えたリオナは、朝飯ということを考えずに麻婆豆腐と山盛りの炒飯、そして同じくてんこ盛りにされた冷凍餃子の山という、気合の入った手料理を振舞ってくれ、腹が千切れそうになった疲れでオレはベッドで二度寝した。
再び目覚めると、昼の3時になっていた。
シャツが汗でじんわりと濡れていて、仰向けの左半身に温かい重みがあった。左を向けば、そこにはオレの隣で寝息を立てているリオナ。
どうやらモバイル端末をいじりながら寝てしまったらしく、右手に持った端末を顔面に押し当てた状態になっていた。
「ふふッ」と自然と笑い声がこぼれてしまった。リオナはそれに気が付いて目を覚ましてしまったようだ。ちょっと悪いことをしたな。
「ふぁあ、ごめんねシンちゃん……私も一緒に寝ちゃったみたい……」
リオナのブラウンの髪がだらしなく乱れ、その間から覗く瞳がどことなく神秘的だった。オレはその髪をかき分けて彼女の顔を露わにして、おでこにそっとキスをした。
「まだ寝てろよ、今夜も仕事あるんだろ? 」
「へへ、今日はお休みなんだよ。一日中ゆっくりできるよ」
「ほう、できるってソレをか? 」
オレはリオナが片時も離さなかったモバイル端末を指差す。そこから映し出されている画面には、ゲームアプリと思われるカラフルな色彩の光が漏れていた。
「へへ、シンちゃんがいなかったらそうしてたかもね……今ハマってるんだ。ウチの店でも流行ってるんだよ」
ゲームの類には全く興味の無いオレは、リオナのように四六時中液晶画面と睨めっこしてまでのめり込む行為が理解できなかった。売人仲間の間でもハマってる奴がいて、そういう人間を見るたびに「ガキくせぇ」と鼻で笑ってはいたが、その反面オレは漫画が大好きで、コンビニで売られている分厚い辞書のような懐かしい作品の総集編を見つけると、ついつい買ってしまうクセがある。それを考えれば、オレも大して変わらない「ガキくせぇ」心をいつまでも心に抱えているんだな。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
ヘビーすぎる朝飯で重くなった体を少しでも軽量化する為、オレはトイレにこもった。昨日の失態も一緒に出して流せればいいのに……などと思いつつ便器で格闘し、10分程で行為は終わり、ベッドに戻ろうとした。
「お? 」
そこで待ち受けた状況に、オレは少し胸騒ぎを感じた。
「リオナ? 」
リオナはベッドの上に跪いて、そこに置かれたモバイル端末の画面を食い入るように見つめている。その液晶からは、フルオートのライフルから生じられる光のように、連続されたフラッシュが映し出されて彼女の顔を不気味に輝かせた。
そしてオレは昨日、その行為に酷似した場面に遭遇していたをやっとのことで思い出し、急いで端末を手で払い飛ばした。
「大丈夫かリオナ! おい! しっかりしろ! 」
くそ! なんでだ!? なんでなんだよ! オレは確かに、あの時しっかりと殺したハズなのに!
トモヒロはあの時、液晶画面を覗き込んで体を乗っ取られた! さっきのリオナと全く同じだ!
「リオナ! リオナぁぁぁぁ! 」
リオナは気絶しているようだった。手足がだらりとして力が無く、口をポカリと開きっぱなしにしている。
「頼む! 返事をしてくれ! 」
オレはついつい感情的になって、彼女の頬をはたいてしまう。しかし、その甲斐あってか「う……」とうめき声をこぼして、リオナは意識を取り戻してくれたようだ。
「リオナ! 大丈夫か? 」
「う……うん……」
「オレが分かるか? 」
「シン……ジ……? 」
「そうだ! 良かった! 」
オレは彼女を抱きしめ、最悪の事態を免れたことを感謝した。無神論者だが、思わず「神様! 」と心の中で叫びまくった。
「わたしも……嬉しい……」
「そうか……オレはもっと嬉しいよ」
「そうなの? 」
「ああ! 」
「ホント? 」
「当たり前だろ! 」
「……わたしを椅子で何度も叩いたのに? 」
「……………」
咄嗟に彼女の体を突き飛ばし、オレはベッドから離れる。そしてオレは目の前で起こった最低最悪の事態を受け入れるしかなった。
「嘘だろ……」
「嘘ではない。つまり現実ね」
「何でお前がいるんだよ! ここに!? 」
「覚醒した私は一つのプログラムとして人格を作り、それは大きな世界へと拡散して行った。つまりね、ベンツを壊したところで、そのオーナーまで壊したことにはならないでしょう? 」
「くそ……くそっ! くそっ! 」
認めたくないが、リオナの体は変態マッドサイエンティストと覚醒剤が生み出した、狂気の化身が支配してしまったらしい……
「シオォォォォーンッ!! 」
オレは後先考えずにシオンの首を絞めてベッドに押し倒した。その肉体がリオナであることを忘れるほどに焦っていた。
「ふふ、わたしの名前、覚えてくれてたんだね。嬉しい」
首を絞められているのにも関わらず、余裕の笑みを浮かべるシオン。全く同じ顔の笑顔なのにリオナとは全く違う、タイヤにこびり付いた犬のクソのように不快な笑顔だ。
「ふざけやがってぇえ! 」
オレはベッドのシーツを剥ぎ取り、そのままシオンを包み込むようにして縛り上げ、とりあえず身動きを取れなくした。
「どうするつもりなの? 」
「リオナの体から、お前を追い出すんだよ! 」
オレは次に、荷造りの為のビニール紐を使い、シオンの手足を固定してソファに腰かけさせた。ただし、左手だけは動かせるようにしておいた。それには理由がある。
「なぁシオン。オレは職業柄、時には人間を痛めつけなきゃならん時がある」
「拷問、及び制裁というお題目の元、か弱い人間に理不尽な暴力をふるうってワケね」
少し放っておいた内に、シオンはネット上を行き来して情報を吸収して成長したらしい。オレの言葉に対し、いちいち癇に障る返答をしてきやがる。
「まぁ、そういったところだ。でもな、ただ殴ったり蹴ったりするんじゃ駄目なんだ。顔だとか手だとか、目立つ場所に傷が残るとこちらとしても色々面倒なことになりかねない。だから、最小の傷で最大の苦痛を与えるってのが、ポイントでね」
オレはシオンの目の前にあるダイニングテーブルの上に、コップと小瓶に入ったタバスコ。そしてタオルとメモ用紙を並べて見せた。
「何をする気なの? 」
「面倒なコトに、お前の体はリオナの体だ。だから最も傷が目立たない拷問方法をお前に試そうと思う」
コップにタバスコをありったけ注ぎ、次にシオンの左手を掴み取ってテーブルの上に押し付けた所で、どうやらコイツも気が付いたようだ。
「指の先は神経が集中していて、痛みを感じやすい……なるほど、考えたわね」
「そんな余裕こいた口は、もう聞けなくしてやる! 」
メモ用紙を一枚破り、それをシオンの人差し指の爪の間に挟み込んで一気に引き抜く。
「うっ……! 」
歪んだシオンの顔を見て安心した。どうやらコイツの体はしっかりと痛みを感じているようだ。研究所で拘束されていた時は、痛みを感じないようにされていたらしいが、リオナの体を使っている時点で、痛い・熱い・冷たい・固い・柔らかい等々、全ての感触を得られるようになったらしい。
「さぁ、次からが本番だ」
オレはタオルをシオンの口に巻き付けてさるぐつわにした。そして鈍い切れ味で一文字に傷つけられた指を、タバスコの溜まったコップに無理矢理突っ込ませる。
「うぅーーーーーー……ッ!! 」
シオンの額からは大量の汗が流れ、顔が真っ赤に染まって効果はてきめんだったことを教えてくれた。
「さぁ、シオン。お前がリオナから出ていくまで何度もコレを繰り返すぞ! 」
タオルのさるぐつわを取り、シオンの反応を見る。リオナの顔が涙と鼻水が垂れ流しになっていて一瞬心が痛んだが、ここでひるんでしまってはダメだ。
「ハァ……ハァ……わたしは……」
「わたしは? わたしはなんだ? え? 」
「わたしは……ネットワークを通じて、様々な感情を理解できるようになったつもりだ……でもね……」
「なるほどな」
オレにはシオンの与太話なんて聞いている余裕は無い。次は中指の爪の間を切り裂き、再びタバスコの中に突っ込ませる。
「ううううああああッ!! 」
さるぐつわをし忘れたことはミスだった。アパートの住人に気付かれては困る。何せオレは覚醒剤の売人でなおかつ殺人犯なのだから。
「どうだ? そろそろその体を元に戻しちゃくれないか? あ? 」
「ふふ……」
「な、なんだ? 」
痛みで顔が歪み、よだれまで垂らしているのにも関わらず、笑った。シオンはオレに向けて笑顔を向かたのだ。
「シンジ……教えてくれるか? わたしはこんな状況でも未だに分からずにいるんだ……」
「てめぇ……まだお仕置きが必要みたいだな」
オレはシオンの無駄口を封じようとタオルに手に取った。
「わたしは……恐怖という感情が分からないんだ」
次の瞬間、オレの目に焼けるような痛みが走った。
「うぐああああああッ!! 」
シオンの野郎! タバスコを目にぶっかけやがったな! 涙が止まらない! 鼻水があふれ出る……!! チクショウ! チクショウッ!!
とにかくオレは手探りでキッチンへと向かい、蛇口の水で目を洗った。くそう! 舐めた真似しやがって!
オレの怒りは頂点に達し、とうとう奥の手を引っ張りだす決意が固まった。
キッチンの棚の奥にしまわれた大きなビスケットの缶。オレはその中に、リオナにも内緒でいざという時の為に隠していた物がある。
「恐怖が分からないだって? いいぜ、教えてやるよ! 」
俺がビスケット缶から取り出したのは……H&K―USP(H&K社製 汎用自動拳銃)! とあるツテから手に入れた純正の本物だ!
マガジンを差し込み、スライドを引いて弾を込める。あとはトリガーを引けば、目の前には屍が出来上がるってワケだ。
オレは拳銃を片手にシオンの元へと戻る。もちろんリオナを傷つけることはしない。……が、呆気なく命を終わらせることのできる人類の英知を見せつけて怯えさせることぐらいはしていいだろう。
「待たせたな! ふざけやがって! 今度こそお前に地獄を見せてやる! 」
丸い跡が残るほどに、銃口をシオンの額にグリグリと押し付けると今まで減らず口を叩いていたコイツも、目を泳がせて怯え始めたようだ。
「いろいろ情報を得て賢くなったんだろう? それならコイツのことはよく知ってるよな? このトリガーにちょっと力を込めれば、鉛弾が飛び出て肉を吹き飛ばすんだ! いいか? 今度はこれを使って指を一本ずつ吹き飛ばし、その傷口に塩を塗り込んでやる! いいか? 今すぐ体を元に戻しやがれ! 」
脅しは予想以上に効いたらしい。歯をカチカチと震わせ、顔を青ざめさせて、ションベンまで漏らしやがってる。さぁ、分かったか? これが恐怖ってヤツだ!
「な……なに……どうして……? 」
「あぁ? 」
震える声で精一杯の声を引っ張り出しているらしい。声が詰まって言葉が上手く聞き取れない。
「はぁ? もっとハッキリ喋れや」
「う……うう……なんで? シンジ……なんでこんなコト……」
「こんなコト? ああ? てめぇ自分のしたことがわかんねぇのか? それとも理解できないのか? どっちなんだ! 」
思いっきり頬に平手打ちを食らわせ、シオンの鼻から血液が流れ出る。その弱々しい態度に、オレはどことなく達成感を覚えていた。
「シンジ……なんで……わたし……ゴメン……バカだから……わかんないの……なんで怒ってるの? 謝るから……謝るからもうやめてよぉ……」
「………………」
まさか……だろ? もしかして……
「リオナ? お前……リオナか? 」
もしかして……もうシオンは去っていったのか? オレは彼女に近づき、それを確認しようとした。しかし……
「ひいっ! 」と彼女はオレから逃げようとし、まるで猛獣を見るような目で睨みつけられてしまった。
「ま、待ってくれよ! オレは……違うんだ! この銃だって……モデルガンなんだ! 心配しないでくれ……オレが君を殺すワケないじゃ……」
オレが必死でリオナに弁明しようとしていると、背後から下品な金属音が聞こえ、その方向へと体を向けた。
「オイ! さっきからうるせえぞ! ケンカなら他所でやれや! 」
そこにいたのは見知らぬ中年男性だった。おそらくオレ達の騒ぎが気になって押し込んできた、このアパートの住人だ。
「おい……おめえ……まさかそれ……ホンモノなのか? 」
マズイ、拳銃を見られた!
「ち……違う。これは……」
「助けて! わたし、殺されかけたんです! 」
イレギュラーな事態にオタオタするオレは、今のリオナの叫びで、完全にパニックになってしまったようだ……オレは顔にたかった蚊を叩き潰そうとするように、半ば本能的な反応を持って、銃口を中年男性に向けて迷いなく引き金を引いた。
平凡なアポートで、昼下がりに聞こえる音としてはこれ以上不似合いなモノは無いだろう。革のクッションを殴りつけた音を何重にも重ねて増幅させたような空気の振動が巻き起こったと思ったらその直後、後頭部からどす黒い液体を撒き散らしてドアに悪趣味な染みを作る中年男性の姿があった。
「キャアアアアッッッッ!!!! 」
そして響くリオナの絶叫。もう、駄目だ……このままでは……オレは……
今思えば、オレはトモヒロを撲殺した時点で全て壊れてしまっていたのかもしれない。自分の手で一人の人間の人生を終わらせてしまったのにも関わらず、自責の念が全く現れなかったことの異常さに、今やっと気が付いたのだ。
オレは、自分自身のことしか考えていなかった。覚醒剤を売り、相棒を殺し、見知らぬ男を殺し……気が付けば……
「やべぇ……やべぇ……やっちまった……やっちまったよ……」
何の罪もない……自分の恋人に向けて弾丸をブチこんじまって尚、逃走を図って生き延びようとしている……醜すぎる呆れた根性を持ち合せた自分自身がいた。




