第四話
「ノドグロ……?それって、寿司のネタに出てくるあの高級魚のことか?」
「いいえ。ノドグロとは、頭に四本の大きなツノの付いた人型の化物の事です。人型と言いつつも、大きさは人の何十倍もあり、皮膚はヘドロのようにドロドロで、常に腐臭を撒き散らし、この世界を破滅に追いやろうとする怪生の極み。それがノドグロなのです」
「……」
こいつ、頭にウジでも湧いてんのか?
馬鹿馬鹿しい。なにが『世界の崩壊』だ。
こっちはエントリーシートを書くのに手一杯なんだ。
こんな奴の空想話に付き合うなんて時間の無駄だ。
この頭の可哀相な子の相手は、警察に任せよう。
そう思った俺は、腰を浮かせ、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
その様子を見たエミリが、悲しそうな声で「私の話を信じてくれないのですね……」と嘆く。どうやら、俺が今から何をしようとしているのか察したらしい。
「当たり前だろ。いきなり人の家に来て、『ノドグロが復活して世界が崩壊してしまいます』だぁ?馬鹿馬鹿しいにも程があるってんだ。君のホラ話を信じろってのが無理だね。嘘をつくなら、もう少し上手い嘘をついた方がいい」
「……分かりました」
俺の乱暴な物言いに対して、エミリは怒るどころか、全く動じる事無く静かに頷いた。
と、何を思ったのか、彼女は脇に置かれた鞄から何かを取り出した。
巻物である。
時代劇で忍者が屋敷に忍び込んで盗んできそうな、つまり、それだけ年季の入った代物のように映った。
次にエミリの取った行動に対し、俺は少々引いてしまった。
彼女は巻物を右手で持つと、俺の額にピタリと押し当ててきたのである。
「おい!ちょ……!」
余りの突拍子もない行動に、俺が抗議の声を上げようとする。
その時だった。
ぞわりと、俺の背中一面が、得体の知れない何者かに撫でられるような感覚に襲われる。
続いて、例えようのない悪寒が俺の全身を包み込んできたではないか。
目の前が黒く霞み、ノイズ混じりの映像が視界に入ってくる。
それは暗く、どこか哀しい、闇の映像だった。
排気音にも似た不気味な雄叫び声が山彦のように木霊する。視界に広がる映像であるというのに、まるで脳内に直接響いてくるような得体の知れない不気味さを持っていた。
正体不明の雄叫びは少しずつ、しかし確実に大きくなっていき、それと同時に雄叫びの主の姿が、闇の中からぼんやりと浮かび上がってきた。
頭に生えた四本のツノが放つ鈍い光。
大きく両側に避けた口から覗かせる、規則正しく並んだ鋭い牙。
電柱ほどの太さを持つ双腕。
その表面をヘドロのような黒色の粘性液体が流れている。
圧倒的な負のオーラを放つこの巨大な図体を支えるのは、これまた屋久島の縄文杉のように太く、硬そうな外皮に覆われた大腿部であった。
そんな『異形の怪物』の雄叫びが、どんどん、どんどん大きくなっていく。怪物の目は赤く血走り、じぃっとこちらを睨みつけている。
今まで俺が見たこともない、憤怒の形相を浮かべて。
更に良く見ればこの巨大な怪物の背中には、いくつもの髑髏が山のように積み重なり、怪物の動きに合わせてカタカタと不気味な奇音を立てる。
目の前に突如として現れた現実離れした映像に、俺の意識がショートしかける。
が、その度に怪物の不気味な雄叫びが脳内に木霊し、俺の意識を途切れさせまいとする。
「あ……あ……」
恐怖。
それ以外に例えようのない感情に、俺は支配されていた。
何とか口を動かそうとするが、ニューロンがそれを拒否。筋繊維へ送られる筈のありとあらゆる電気信号がシャットアウトされてしまっているのか、呂律が回らない。
このままでは、気がおかしくなるのは必至――――
と思った矢先の事だった。
エミリが俺の額から巻物をスッと離したのだ。
途端、先程までの禍々しい映像はプツリと消え、目の前にはこちらを心配そうに覗きこむエミリの顔があった。
辺りを見渡す。ゴミ箱、キッチン、友人から貰った液晶テレビ。日めくりカレンダー……なんてことはない、何時もの部屋の光景に戻っていた。
まるで、悪い夢でも見たかのような気分だ。しかしながら、全身から滝のようにあふれだす汗が、先程まで見ていた光景が、夢ではない事を嫌というほど実感させる。
俺の尋常ではない様子を見て、エミリが申し訳なさそうな声を出す。
「すみません、少々刺激が強すぎましたね」
「あ…………あ、ああ……」
「如何でしたか?」
シャツの裾で汗を拭う俺に、そんな事を聞いてくるエミリ。
少なくとも、良い気分であるはずがない。
「い、如何でしたかって……い、今のは……あ、あれ……ねぇ……な、何なの……?」
全身の毛穴という毛穴から大量の汗を滲ませ、俺はフルマラソンを終えた陸上選手の如く、息を弾ませながら彼女に尋ねる。
「あれがノドグロです。この世界を『混沌』に陥れる化け物です。言っても分かって貰えなかったので、少々乱暴でしたが脳内にノドグロの映像を少し、ほ~んの少し送らせて頂きました」
「はぁ……はぁ……あ、あんな化け物、見た事ないんだけど……本当に……いる……の?」
「奴は『確かに』実在します……ですが、一般人はノドグロをその目で捉える事は出来ても、気配を感知する事は出来ません。ノドグロは世界の枠から外れた超自然的な存在である為。人間の感覚の外側にいる存在なのです」
「な……」
俄には信じられない話だ。
実際、俺もあの映像を見せられなかったら、信じなかっただろう。が、今は少し、信じてもいい気がした。
あんな映像を見せられたら、誰だってそうなるだろう。俺は、震える手で携帯をポケットに戻した。
暫く、彼女の話を聞く必要があるように思えたからだ。