最終話
俺が退院した時、既に季節は秋に移り変わっていた。
俺は休む間もなく、就職活動を再開させた、すると不思議なことに、あれほど決まらなかった就職先があっさりと決まってしまった。
就職先は長野県のとある化学会社だった。『ぜひ我が社に入社してくれないか?』と人事部の部長さんから頭を下げられたときは、例えお世辞でも嬉しかった。
羽純は既に五月の時点で東京に本社を置く、大手の食品会社の内定を取っていた。どうやら、開発部の研究員として働く事になるらしい。一方の支倉は、頑張ってリハビリに精を出している。早ければ、来年の春には退院出来るっていう話だ。
あの日以来、時折エミリの事を思い出す。
俺が病院に担ぎ込まれた翌日から、エミリは忽然と俺の前から姿を消した。何も言わずに去っていった彼女だが、代わりに手紙だけは残していった。
手紙には、今回の件に関する感謝の言葉と、俺の家で食べたお菓子と紅茶が美味しかった事が書かれていた。
今頃、一族の長年の夢を成し遂げた彼女は、島の英雄として祭り上げられているに違いない。その英雄の片腕としてノドグロの封印に手を貸す事が出来たのは、俺にとって生涯誇りになるべき事だった。
だが欲を言えば、彼女とはもう少し長い期間、一緒に生活していたかったのは事実だ。彼女とは、いい友人関係を築けそうだと感じたからだ。だが、それももう叶わないのだろう。
俺の手元に残されたのは、可愛らしい字で書かれた、彼女の手紙ただ一枚だけだった。
――そして三年が経った今、俺は東京のとある結婚式場に来ている。
何故って?
決まっている。
支倉と羽純の結婚式に招待されたからだ。
「おめでとう御座います」
「二人とも、凄く似合っているじゃないか」
「末永く暮らせよな」
「赤ちゃんの名前、もう決まったんですか?」
研究室の後輩達や教授、それに羽純の仕事先の同僚や上司達が、口々にお祝いの言葉を述べる。
ウェデイングドレスに身を包んだ羽純と、真っ白なタキシードに身を包んだ支倉は、照れたような、それでいて誇らしいような笑顔で、周囲のお祝いの言葉にお礼を述べて回っていた。
俺は自販機で買った缶コーヒーを手に、少し離れた位置からそんな二人の様子を見つめていた。
俺は、この数年で、自分はこの先どういった生き方をしていけばいいのか、理解していた。
自分にとっての幸せが何なのか、
自分が守るべき世界は何なのか。
頭ではなく、心で理解出来るようになっていた。
全てはあの日――ノドグロの尻尾と対峙した時から始まったのだ。
もう俺の心は『初恋』という名の呪縛には囚われていなかった。
羽純の笑顔を見ても、嬉しい気持ちにはなるが、心にささくれ立った痛みを感じる事はなかった。これが『大人になる』という意味なのかもしれないなと、漠然とそんな事を考える。
その日の結婚式は賑やかで、楽しいものだった。俺も珍しく酒を浴びるほど飲んで、支倉と一緒に馬鹿な事をやってのけた。それを見て、羽純は少し困ったような、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。
二次会は羽純の会社の同僚達や研究室の面々と飲み、三次会は、俺と支倉と羽純の三人で場所を移して呑んだ。小さな、寂れた焼き鳥屋でだ。
「お前に祝って貰えるのが、一番嬉しかったんだ。本当に有難う」
三次会が終わって、店を出ようとしたときだ。まだ若干の麻痺が残る右手を差し出し、支倉が握手を求めてきた。
俺は照れ隠しで「気持ち悪い事言うなよなぁ」などと悪態をついたが、がっちりと彼と握手を交わした。分厚くて、暖かい手だった。
羽純達と別れた俺は終電に乗って、ホテルへの帰り道を歩いていた。
もう夜中の十二時を回っているというのに、道はまだ多くの人で溢れかえっていた。さすが東京だなぁと、俺は田舎者丸出しの感想を抱き、歩き続ける。
ホテルに到着し、フロントで預けておいた部屋のキーを受け取る。
そのままエレベーターを使って七階まで行き、自室の前まで歩みを進めた時だった。
ドアの前に『奇妙な生き物』が体育座りをしてしゃがんでいた。
『奇妙な生き物』は十九、二十歳くらいの娘だった。
三年前のあの日と変わらず、こめかみの部分から小さい象牙色の角を覗かせている。ショルダーバッグを肩から下げてはいたが、巻物は手に持っていなかった。
「エミリ!?」
彼女の正体に気がついた俺は驚きの声を上げ、彼女に駆け寄った。俺の呼び掛けに反応して、娘がこちらを振り向く。
間違いない。エミリだった。少し顔つきが大人っぽくなっていたが、忘れるわけがなかった。三年ぶりの再会だった。
エミリは俺の姿を確認すると、その大きな瞳をこれでもかと見開き「和成さん!?」と、驚きの声を上げた。
「和成さん!此処に来てたんですか!?」
「なんだよエミリ久しぶりじゃねぇか!えぇ!?三年ぶりだなーおい。元気にしてたのか?全然連絡が無いから心配してたんだぞ!」
久しぶりの再会に、俺は目を細めて心の底から喜びの声を上げた。
しかし、そんな俺とは対照的に、エミリは深刻そうな表情で俺を見つめた。その様子に、俺の心もざわつき始める。
「お、おい。どうしたんだよ。まさか、何かあったのか?」
「あの……和成さん!」
言うと、エミリはお辞儀をした。
「また、私に協力してください!」
「え?そ、それってどういう――」
「実は数日前に、あのノドグロを封印した巻物が盗まれてしまったんです」
「……………………は?」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。
エミリは瞳に涙を潤ませて話を続けた。
「うう~~~すいません!ちゃんと管理していなかった私のせいなんです。巻物を盗んだのは鬼ヶ島の中でも特に問題のある一匹の鬼でして……調査の結果、その鬼がこの日本で、あのノドグロを再び復活させようとしていることが分かったんです。このまま放っておいたら、世界は再び、ノドグロの脅威に晒されてしまいます!」
「…………で、君はこの俺に協力を要請したと?」
「す、すいません~~~~!」
その場に土下座して、額をカーペットに擦りつけるエミリ。全くおかしなもんだ。友人の結婚式の帰りに、こんなサプライズが待ち受けてるなんて、神様も少々演出がくどすぎるんじゃないだろうか。
「ほら、立てよ」
俺は、相変わらず土下座を続けるエミリに手を差しのべる。彼女を無理やり立たせると、俺は疑問をぶつけた。
「あのさぁ、何で俺に頼むんだ?もっと俺以外にも強い人はいるじゃないか」
「そんなの決まってます!」
エミリはにこっと笑って、自信満々に答えた。
「和成さんが、信頼出来る人間だからです!」
「……その理由」
「え?」
「俺を誘うその理由、三年前と変わったんだな」
「そ、そうでしたか?」
あたふたとするエミリ。その様子が可笑しくて俺はつい吹き出してしまった。エミリは三年経っても全く変わっていなかった。それが、俺の心をひどく落ち着かせた。
「分かった。協力するよ」
「え?」
「だから、協力するって言ってるんだよ。このままじゃ世界がヤバイんだろ?で、協力出来る人間は俺しかいないんだろ?だったら、やるしかないじゃないか」
そうだ。やるしかないのだ。
例え、どんなに強大な壁が目の前に立ちはだかったとしても。
どんなに理不尽な出来事が起こったとしても。
俺はそれに毅然として立ち向かわなきゃならない。
俺が守るべき世界を守るために。
俺が掴み取るべき幸せを掴むために。
「…………」
エミリは俺の言葉を聞くと、暫くぽかんとしていたが、やがて、思い出したかのように、くすりと笑った。
「お、おい。何が可笑しいんだよ」
「和成さんのその台詞。三年前と全く一緒ですよ」
「え?そ、そんなわけないだろ」
「いーえ!全く同じです。ほんと、面白い人ですねぇ~和成さんは」
エミリの屈託のない笑顔が、眩しかった。
完
これで「ノドグロの尻尾」はお終いです。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。




