第二十一話
「はい、かず君、あーん」
「い、いや羽純……あの、これはちょっとダメだって……」
病院のベッドに横たわる俺は、羽純から差し出されたりんごを食べるべきか否か迷っていた。
助けを求めて左隣を見ると、そこには俺と同じく、病院のベッドに身を預けている支倉の姿があった。頼みの友人はこちらに背中を向けてぐがーぐがーとイビキを立てている。全く呑気なものである。
「えーなんでよ。いいじゃない。友達の事を気遣うあたしの身にもなってよ」
ぶくーっと頬を膨らます羽純。思わず、その頬をツンツンと突きたくなったが、ぐっと堪える。
あの後――エミリがノドグロの尻尾を封印した後の事だが――結論から言えば、支倉は一命を取り留めた。
一時は心肺停止というとんでもない危機に陥ったらしいのだが、その後、奇跡的に意識を取り戻し、周りの心配なんぞ余所にみるみる内に回復していった。
医者も舌を巻く程の回復っぷりで『長年医者をやってますが、血栓が勝手にしぼんでいくなんて有り得ないんですよ』とかなんとか言っていた。入院から三ヶ月程経過した今は、リハビリに勤しんでいる。
これは後から分かった事なのだが、支倉が意識を取り戻した時間は、丁度エミリがノドグロを封印したのとほぼ同じ時間帯だったらしい。
だからどうこう言うわけではない。
俺としては、友人が意識を回復した事の方が素直に嬉しかったのだ。ただ、それだけだった。
一方の俺はというと、ノドグロとの戦いで腹部にでっかい穴を開けられ、そのまま救急車に乗って病院に運ばれた。
何とか命は繋ぎ止めたものの、医者から全治三ヶ月の重症ですと告げられ、こうして支倉と同じ病室で、仲良く入院しているという訳だ。研究室のみんなはさぞかし驚いた事だろう。
同じ日に一人は大病を煩い、もう一人は腹に重症を負ったのだから。後輩たちや教授にはとんでもない迷惑をかけてしまったと、内心反省した。
そうそう、そう言えばあのナトリウムの一件だが……結論から言うと、大事には至らなかった。
いや、ナトリウム自体が消失したのはかなりの問題になったのだが、少なくとも、俺が疑われる事はなかった。目撃証言もなく、更にナトリウムの缶が研究室とは縁もゆかりもない、どっかの十字路の隅で発見された事から、物取りとしての犯行として警察は捜査しているらしい。
当然だが、犯人は見つかっていない。
正直に言うべきかなとも思ったのだが、しかしこっちは世界の危機と戦っていたのだ。少し多めに見てもらってもいいだろうと思い、何も言わなかった。
無論、この事は墓場まで持っていくつもりだ。
俺の病院への付き添いにはエミリが同行してくれた。救急車の中で意識を取り戻した俺が、虚ろな眼差しで『やったのか?』と聞くと、エミリは『やりましたよ!』と、目に涙を溜めて何度も何度も強く頷いていた。
エミリが俺の下を去ってから既に一カ月が経過しているが、あの時の笑顔を俺は今でも忘れていない。きっとこれからも忘れないだろう。
そして、ノドグロにその体を支配されていた当の羽純と言えば、俺や支倉とは違って、特に酷い傷は負っていなかった。
俺と同じくその日のうちに病院に担ぎ込まれたものの、簡単な処置だけされて翌朝帰宅したという事だ。一体なんなのだこの差は。
俺は、目の前に差し出された林檎をじーっと見つめ、意を決してむしゃぶりついた。
「ね?美味しい?美味しい?」
目を細めて語りかける羽純に、俺は視線だけで『美味しい』と答えた。羽純の笑顔がはじけた。以前の様に、心が痛む事はまるでなかった。
「ねぇ」
林檎を食べ終え、真昼のご機嫌な陽光に目を細めていた時だった。ふいに、椅子に座っていた羽純が話かけてきた。
「どうした?」
羽純は伏し目がちになり、何かを言い澱んでいるようだった。が、下を向きながらも、ポツポツと話始める。
「私がこの病院に担ぎ込まれてた時にね、私、夢を見てたの」
「夢?」
「うん。今でもはっきり覚えてるんだけど」
スズメの鳴く声が窓越しに部屋に響いた。
「夢を見てたの。その夢はね、とっても暗くて、とっても寂しくて、とっても怖い夢だった」
「うん」
「夢の世界は暗闇でさ。周りを見渡しても、私以外の人間は誰もいなかったの。まるで、深い井戸の中に取り残されたような、そんな孤独感があったわ。辺りは真っ暗。叫んでも、叫んでも、誰も助けに来てくれないの。永遠に時間が流れて行くんじゃないかって不安になったのよ」
「うん」
「でね、ああ、もうダメだなぁとか、あたし、ここで死ぬんだなぁとか、そんな漠然とした事を考えてたの。でも……その時、光が差し込んできたの」
「うん……」
「真っ暗闇だった部屋を照らしてね、光が差し込んできたの。眩しい眩しい光だったわ。それこそ、目も開けられない位眩しかった。その眩しい光の中から、誰かが私に向かって、手を差し出してくれたのよ。『助けに来たよ』って、そう言って……そこで夢は終わったの。気がついたら、あたしは病院のベッドの上で横になってた」
「…………」
「ずっと考えてたんだ。あの時、私に声を掛けてくれた人は誰だったんだろう。私に救いの手を差し伸べてきたのは誰だったんだろうって。でも、それが、分かった気がする。あれは、多分」
羽純はじっと俺の目を覗きこんできた。薄茶色の、可愛らしい大きな瞳。彼女が次に何と言わんとしているのか、俺には分かっていた。その問いに対して俺が何て答えるべきなのかは、俺自身が良く知っていた。
だけれども、俺は、羽純に次の台詞を言わせたくなかった。それを言わせるのは男の仕事ではないように思えたからだ。
俺は目を逸らすことなく、羽純を真っ直ぐに見つめてこう言った。
「それは支倉だ」
「え?」
思いがけない返答に、羽純が頓狂な声を上げた。
「支倉だよ。奴が君を助けたんだ。あいつこそ、君の救世主だ」
「ち、違うよ!けーちゃんじゃなかった!あれはどう見ても――」
「いや」
困惑する羽純に対し、俺はピシャリと言った。
「支倉だよ」
沈黙が流れた。五秒にも五分にも思える長い沈黙。やがて、羽純がはぁ~と、嘆息をつく。
「ほんと……馬鹿なんだから……」
「ああ、馬鹿でいいさ」
ぷっと吹き出して、俺達はひとしきり笑いあった。横では、相変わらず支倉がイビキを立てて寝ていた。こいつ、少し寝過ぎじゃないだろうか?
「(おい、今の話、聞いてなかっただろうな?)」
俺は横目で、そう心の中で問いかけた。