第二十話
「邪魔をするなああああああ!!」
エミリは、和成に致命傷を負わせた巨大な触手を素手で掴むと、渾身の力を込めて引きちぎった。黒い体液が飛び散れば、触手は力を失って消滅した。
「和成さん!しっかりしてください!」
血だまりの中で微動だにしない和成の下に駆け寄り、エミリは必死で和成の名前を叫んだ。しかし、反応はない。和成の体はピクリとも動かない。
一瞬の出来事であった。エミリがあの秘伝の巻物をポケットから取り出そうとした時、突如煙の中から一本の触手が飛び出し、和成の腹を貫通したのだ。触手は和成の体を串刺しにしたまま、勢い良く地面に叩きつけた。彼女が反応出来ないほどの、刹那の出来事であった。
エミリは瞳を濡らす涙を右手で拭うと、両手で血に濡れた和成の腹部に触れた。瞬間、眩い光が彼女の手を照らした。念動能力を体組織活性に特化させた、所謂治癒能力という奴だ。しかし、それほど効力のあるものではない。傷はある程度塞がったものの、和成は依然として意識を取り戻さなかった。
【クカカカカカカ……】
拡散していくガスの中で、笑い声が聞こえた。
エミリが振り向くと、ノドグロが、その巨大すぎるとも言える大きな口を天に向けて勝ち誇ったかのように嗤っていた。あれだけの攻撃を加えたというのに、ああ、なんと、まだノドグロは息絶えていなかったのだ。なんという生命力か!
だが、手酷いダメージを負っているのは確かだ。
何故なら、先程までと比べ、その様相がひどく変わっていたからだ。全長は四メートル程まで小さくなり、体のあちこちから紫色の泥にも似た液体を滴らせている。口は頬まで裂けており、眼光は紅色に光っていた。口から、先程和成を襲ったあの太い触手が何本か顔を覗かせていた。
しかし、エミリの目を奪ったのはそういった異様なノドグロの外観よりも、むしろ彼の体に突き刺さったままの、未反応のナトリウムの棒だった。五キロはあるナトリウムの内、凡そ半分近くが未反応のまま残ってしまったのだ。
「(水が……足りなかった……!)」
空しいかな、たった二リットルの水では、全てのナトリウムを反応させる事が出来なかったのだ。
失策であった。
しかし、エミリには和成を責める気持ちは全くなかった。
逆に、和成をノドグロの攻撃から守って上げられなかった自分に、ひどく腹が立っていた。
「随分と、可愛らしい格好になったじゃないですか」
精一杯の皮肉だった。
ノドグロはゲラゲラと、まるで詰まりかけの排水管を流れる溝水のような声を上げると、エミリの皮肉を一蹴する。
【気位ダケハ一人前ダナ、有角ノ戦士ヨ。ダガコレデ終イダ。手傷ヲ負ッタトハ言エ、我ヲ封印スル事ハ出来ヌ。未来永劫ニナ】
ノドグロの巨大な目玉が、ぐいっと歪んだ。
二本の太い足をゆっくりと動かし、口から大量の触手を覗かせ、じりじりとエミリに迫る。
【葬リ去ル前ニ、聞キタイ事ガ有ル。何故貴様ラ有角ノ戦士ハ、我ヲ消ソウトスル?何故人間ヲ守ロウトスル?】
「それが、私たち一族の使命だからです」
【面白イ事ヲ言ウ。古ノ人間達カラ、無理矢理押シツケラレタ厄介事ガ、『使命』ト断ジルニ値スル筈ガ無イ。ソウデハナイカ?】
「……」
【我ヲ討伐スルト言ウ義務ヲ、一方的ニ負ワセタ人間達ヲ、怨マズ、呪ワズ、マシテ憎ムコトモシナイト言ウノカ……ソレガ果タシテ『正義』ト言エルノカ?】
エミリは口を結び、沈黙する。
疑問を感じた事がないと言えば、嘘になる。
昔、祖父から鬼ヶ島の成り立ちを話された時、彼女が真っ先に思った事は『人間は何とも身勝手な生き物だ』という感想だった。
ただ、人よりも変わった力を持っているというだけで周りから奇異の目で見られ、差別され、挙句の果てに『ノドグロの討伐』という人類の存亡に関わる重要なミッションを押し付けられた事が、エミリにとっては我慢ならぬ事だった。
重要な事を鬼達に丸投げしておきながら、自らは素知らぬ顔で毎日を送っている人間の無関心さが、彼女は嫌いだった。
重大な問題から目を避けて、他の誰かが何とかしてくれるだろうという、人間の浅はかな自分勝手さが、エミリには許せなかった。一族の使命とはいえ、エミリの心の中には何時も、人間達に対する不信感があった。
だから、村田和成という人間の半生を知ったとき、真っ先に『この人ならば』という思いが頭を過ぎった。
自らの社会的地位を危険に晒してまで誰かを助けようとするその気高い心が、ノドグロと立ち向かう自分にはどうしても必要だと、エミリは感じたのだ。心の底から信頼を寄せられる人間が、彼女には必要だったのだ。
「疑問を感じた事はありますよ」
ノドグロが、『やはりな』と言った顔で、再び喉を鳴らして笑った。
「でも」
一際、大きな声を出した。
「でも、今は違います。今は、一緒に戦ってくれる人がいる。人間を貴方の脅威から守るためだけじゃない。その人の世界を守るために、私は貴方を、必ず封印してみせる!」
【狂ッテイルナ。ソンナチッポケナ存在ノ為ニ、何故我ト闘ウ?何故我ニ従ワヌ?ソンナ小サキ人間ノ事ナド、放ッテ置ケバ良イデハナイカ】
ドロドロに溶けた太い右手の人差し指を向け、ノドグロは倒れている和成を指差した。何がおかしいのか、ノドグロは大きな口をめいいっぱい開けて怒鳴り散らすように笑った。
【クハハハハッ!見ロ!サァ見ロ!モウスグ死ヌソ。今ニ死ヌゾ。消エルノハ我デハナイ。ソノ小サキ人間ノ命ノ方ダッ!クハハハハハッ!】
「貴様ァアアアアアアアアアアアアッッ!」
和成を愚弄した事に、エミリの怒りが爆発した。これまで見せたこともない憤怒の形相で、地を蹴った。衝撃で、足元のコンクリートに亀裂が奔る。
【良カロウ。自ラ死地ヲ踏ミニ行クカ】
ノドグロは嗤うのを止めると、今度は全身のいたるところから触手を突き出し始めた。恐らく、この一撃で自分を仕留めるつもりなのだろうとエミリは感じた。
ノドグロが、その真っ黒な触手をエミリの眼前に向ける。エミリは、果たしてどうするべきか迷っていた。羽純を助ける術は既に潰えてしまった。
こうなったら、羽純を殺すしかなかった。だが……和成が目覚めたとき、羽純が死んだ事を知ったら、彼はどう思うだろう。
自分を罵倒するだろうか?
それとも悲嘆に暮れるだろうか?
いずれにせよ、そんな和成を、エミリは見たくなかった。
触手がエミリを襲い始めた。
彼女は両手を前に翳し、念動力の壁を構成。触手が弾ける。
だが、今度はその壁の隙間をぬうように、右斜め前から触手の束が突っ込んできた。エミリは咄嗟にバックステップを決め、それを躱す、そこに、横から、上から、滝のような怒涛の攻撃が押し寄せてきた。
【ハハハ……ハハハハッハハハハハハハハハ!】
悦楽の声を上げながら、ノドグロの一方的な攻撃が続く。
鋭い触手の切っ先が、エミリの頬を霞め、セーラー服に切れ込みを作っていく。それでも、エミリは反撃には出なかった。
否、出来なかったのだ。
「(何か……水を出すもの……)」
エミリは念動力の壁で自らを防御しつつ、周りを伺う、だが、道路には消火栓らしきものも、ホースのようなものも見当たらなかった。
そうこうしている内に集中力が途切れたのか、念動力の壁にヒビが入った。
彼女の念動力の強度は、その集中力に依存する。
つまり、意識が散漫な状況では、能力を駆使することは至難の業だった。やがて、壁は霧散し、そこに雨あられの如く、大量の触手が襲いかかる。
「ぐっ……あ、ああああ、ああああああああああぁぁぁあああああっ!」
白目を剥き、背中を弓なりに仰け反らせて、口から涎を垂れ流し、エミリが絶叫。
彼女の全身に巻き付いた触手から、高圧の電流が流れてきたのだ。
本気を出したノドグロの、とっておきの一撃だった。
電流の細かな刃が、彼女の服を、肌を徹底的に傷つけていく。
【消エ去レイ!】
無情にもノドグロはそう告げると、エミリの体を遥か頭上から、地面に思いっきり叩きつけた。
体中の関節という関節が悲鳴を上げ、エミリは後頭部を思いっきり地面に叩きつけられた。
口から、大量の吐血。
どうやら、折れた肋骨が肺に何本か刺さったようだ。
背中の一部と後頭部は、打ち付けられる寸前に念動力の壁でとっさにガードしたが、集中力が足りなかったせいか、完全に守る事は不可能だった。鋭く、重い痛みが全身を襲う。
ぐわんぐわんと頭蓋骨の中で脳みそが暴れ回る。目の前に映る景色が幾重にもだぶって見えた。
もう、エミリに戦うだけの力は残されていなかった。ふと、視界の隅に、仰向けになったままの和成が見えた。
『このままじゃ世界がヤバイんだろ?だったら、協力するよ』
一昨日、会ったばかりの自分に対して、和成は屈託のない笑顔でそう言ってくれた。それが、エミリにとっては何よりも嬉しかった。人間にも、こんなに素晴らしい人が居るんだと思うと、胸の奥が熱くなった。だから、何としても彼の役に立ちたいと思った。彼の世界を、守ってあげたいと思ったのだ。
それが蓋を開けてみればどうだ?自分は和成を危険な目に遭わせたどころか、致命傷を負わせてしまった。挙句の果てに、この有様だ。
ノドグロが、その巨体をゆっくりと前に倒し、エミリににじり寄ってきた。ああ……これで本当に終わりだと、エミリは自分の命が儚くも握りつぶされる事を覚悟した。
涙が地面に落ちる音が聞こえた。
やけに大きく誇張された音だった。
エミリは知らないうちに自分が涙を流しているのだと思った。
――否、それは涙ではなかった。大粒の、雨だった。
雨は、ポタポタポタと一定のリズムを刻んで空から振ってきたが、やがて五秒とも立たないうちに、豪雨となった。地面を激しく雨粒が叩きつけ、あっという間に辺りが湖に変化するほどの豪雨だった。
ゲリラ豪雨だ。
「(そういえば……)」
エミリは咄嗟に思い出した。
昨晩のニュースで、確かここら一体は午前中に激しいゲリラ豪雨に見舞われると報道していたが、それがこの土壇場で的中したのだ。
希望の光が差し込んできた。
エミリはやや口角を上げると、未だ意識を取り戻していない和成に向かって叫んだ。
「これは……!もしかしたら、いけるかもしれませんよ和成さん!」
【ナ、何ィイイイイイイイイイ!?コ、コレハッ!?】
ノドグロが驚愕の声を上げた。
未反応のナトリウムのあちこちから、白煙が立ち昇る。
大量の水素ガスがノドグロの全身を包みこみ、そして……オレンジ色に激しく光ったと思った瞬間、爆炎が舞い上がる!
立て続けに起こる轟音、轟音、轟音――後に続く巨大な爆風がノドグロの体を吹き飛ばし、エミリと気を失ったままの和成もそれに巻き込まれそうになる。
しかし、エミリが残った最後の力を振り絞って念動力の壁を己と、そして和成の体に展開させた為に、二人は爆風に飲まれる事はなかった。
壮絶な光景だった。
いつ止むのか分からぬ豪雨。
そして、そこから生まれる大量の水滴がナトリウムと反応して化学反応を起こし、激しく爆散する。オレンジ色に光っては爆発し、また光っては爆発する。その繰り返しだった。
爆発によって、ノドグロの体を形成していたあのヘドロのような真っ黒い、少し紫がかった物体が、辺りに飛散していく。
それにつれて、やがてノドグロの体は四メートル、三メートル、二メートルと縮んでいき……羽純本来の身長に戻った。
頭から生えていた四本の角もすっかりと萎んでしまい。筋骨隆々とした体格は、枯れ木のように頼りなくなった。
そしてついに、その時が訪れた。
ゲリラ豪雨というまさかのサプライズに窮地を救われたエミリは、天候に感謝しつつ、足に踏ん張りをつけてよろよろと立ち上がった。
まだ、ノドグロから受けたダメージは抜けきってはいないが、しかしゆっくりとはしていられない。封印出来るチャンスが舞い込んできたのだ。
【バ、莫迦ナッ!】
ノドグロはぜぇぜぇと息を切らし、憎しみの篭った目でエミリを睨みつけていたが、それも直ぐに終わった。
勝てぬと悟ったのだろう。
羽純の体からミミズの様な短い触手が次々と外に這出てきた。やがて、それらは一つに合わさり、ブヨブヨとした黒い玉に変化したかと思うと……長さ三十センチ程の細長い尻尾に形を落ち着かせた。
其れが、今の今まで封印を免れ、ぬくぬくと生き永らえてきた、ノドグロの尻尾の正体だった。
しゅうしゅうと音を立てて、あちこちから紫色の煙を出している。
ノドグロの支配から解き放たれた羽純は意識を失ったまま、その場に膝から崩れ落ちた。直ぐに駆け寄ってやりたいとエミリは思ったが、今はノドグロを封印するのが先だ。まだ一度も言葉を交わした事のない羽純に心の中で『ごめんなさい』と謝罪すると、エミリはポケットから巻物を取り出して紐を外す。バサァッとそれを空中に広げると、エミリはブツブツと呪文を唱え始めた。
詠唱完了。
虹色の激しい光が巻物を包み込み、そこから幾筋もの光の束が生まれた。光の束はノドグロの尻尾をがっちりと拘束し、巻物の中に引きずり込もうとする。
【我ハ闇。我ハ暗黒。我ハ破壊。光有ル処、我ガ有リ…………我ガ有ル処、地獄……有リッ!グオオオオオオオオオオッッッ!】
それが、魔獣が遺した、最後の叫びだった。
光の束はノドグロの尻尾を完全に包み込むと、そのまま巻物の中へ引きずり込んでいった。
あっという間の、一瞬の出来事だった。
「終わった……終わったんだ。全部」
脱力し、その場にへたり込むエミリ。
生命エネルギーを消費する危険な封印術ではあったが、祖父とは事なり、残りの寿命がまだ百年以上あるエミリには、まだこの世を生きるだけの命は残されていた。
巻物に視線をやる。汗と雨に濡れた顔に、笑みが戻った。もう、あの憎々しいノドグロの声は、聞こえて来なかった。
全てが終わった時、雨はすっかり上がっていた。
雲間から、光が差し込んできた。