第十九話
「羽純!?」
思わず腰が砕けそうになった。羽純の顔、羽純の口を象っているにも関わらず、彼女の口から発せられたのは、禍々しい呪詛の言葉だった。
【貴様ラノ事ダ。必ズ我ヲ消シニ来ルダロウト思ッテオッタワ。ダガ、モウ遅イ。今ノ我ハ完全ニ、嘗テノ『力』ヲ取リ戻シタ。フフ、人間世界ノ台詞ヲ借リテ言ウナラ『月ガ巡ッテキタ』トデモ言ウノカナ?】
頬が裂けてしまうのではないかと思うほど大きく口を開けると、羽純の姿をした『それ』は声を上げて笑った。どぶまみれの水道管が笑うと、きっとこんな感じなのだろうと、漠然と俺は思った。
後ろを振り返る。エミリは、猛禽類の眼光が如き鋭さで『それ』を睨みつけていた。
「羽純!いや、お前はッ!?」
目の前で起こっている現実が受け止められなくて、俺は絞るように声を出した。ぎょろりと目だけを動かし、嘲るような笑みを浮かべた。
【残念ダッタナァ。コノ弱キ人間ノ肉体ト魂ハ、既ニ我ガ手中ニアル。貴様ガ、ドウ足掻キ苦シンダトシテモ、何モ変ワラン。世界ハ、古ノ時代ト等シク、我ノ箱庭ト化スノダ】
「お前がノドグロか!?」
体が震える。
足が竦む。
今すぐここから立ち去りたい。
逃げたい。
こんな奴のいない平和で静かな所に今すぐ逃げたい。そんな考えが頭の隅を過ぎる。
――だがしかし、逃げるわけにはいかない。
俺は両手を後ろに回すと、エミリの見える位置で、両手を使って『〇』のサインを描いた。
それが、戦闘開始の合図だった。
エミリは肩から下げていたショルダーバッグから大きな肉切り包丁を目にも止まらぬ速さで取り出すと、コンクリートの地面を蹴り、俺の頭上を軽々と飛び越えた。ノドグロに向かって一目散に駆け出す。餌を捕える獅子の如く猛然と標的に襲いかかるエミリだったが、それをただ黙って見ているノドグロではなかった。
ノドグロが、実に不気味な咆哮を上げる。
羽純の来ている白いワンピースがでこぼこに盛り上がったかと思うと、次の瞬間、服が弾け飛び、羽純の汗腺という汗腺から無数の黒い触手が放たれた。ほぼ全裸の姿になったというのに、そこには清潔感や儚さといった感傷的且つ性的興奮を覚えさせる要素は何も無い。
あるのはただ、世界を塗り潰すほどのどす黒い憎しみと、底知れぬ悪意だけである。羽純の面影は、もはやどこにも無かった。
放たれた触手達。その一本一本が複雑怪奇な軌道を空中で描けば、エミリの動きを止めようと束になって襲いかかる。
だが、エミリは持ち前の戦闘センスと足裁きを駆使し、怒涛の攻撃をギリギリの所で避けていく。右に左に頭と腰を揺らし、急所を狙ってくる一撃は持ち前の念動能力で叩き落とす。衝撃で、地面に陥没が刻まれる。
【流石ハ有角ノ戦士……ソノ強サ、未ダ衰エヌカ】
「余裕ぶっていられるのも、今の内だけですよ」
大敵の手前五メートルの所まで急接近した時だった。
エミリは鋭く息を吸い込むと、左腕を大きく前方に振った。手元から放たれた肉切り包丁が、綺麗な円運動を描いてノドグロを刈らんとする。
しかしながら、その行動は既に読まれていたのか。ノドグロは頭をひょいと右に揺らし、一撃を避けた。ゴールを見失った包丁は、そのまま虚空を切り裂いていく。
「くっ!」
軽い舌打ちが漏れる。
今度は右手に握っていた肉切り包丁をテレフォン・モーションで大きく振るう。
狙いは奴の左肩。
だがこの渾身の一撃も、あっさりと黒の触手によって防がれてしまう。
どうやら、羽純の全身から生えているあの黒い触手は、それなりの硬度と頑強さを持っているだけでなく、スピードもかなりのものであることが伺える。
只の人間である俺は勿論の事、例えエミリだとしても、致命傷に喰らえば無事では済まないだろう。
【コノ程度カ?】
「甘く見ない事ですね」
声色は高かったが、瞳は笑っていない。
その挑戦的で、且つ何かを企んでいるかのようなエミリの目付を見て、ノドグロは何かに勘付いたようだった。
不審に思って自身の背後を振り向くノドグロ。視線の先に、先程エミリが外した肉切り包丁が、ブーメランの如き高速スピンで宙を斬り裂き、急速で迫ってきていた。
【小賢シイ】
ノドグロはギリギリギリッ……と奥歯を鳴らすと、今度は背中から極太の黒い触手を大量に生やすと、飛んでくる肉切り包丁を迎撃した。
その瞬間だった。真黒な舌をこれでもかというくらい空に向かって突き出し、絶叫するノドグロ。肉の焼け焦げる音と吐き気を催す臭気を撒き散らし、触手が焼けては千切れ飛ぶ。
純水の効果だ。先程の打ち合わせの際に、エミリが握っていた包丁の刀身に純水をぶっかけておいたのだ。
ノドグロは依然として、焼けただれる己の触手を酷くくねらせ、鋭い痛みに悶えている。
又とない好機だ。
「エミリ!」
俺は、リュックサックからペットボトルを一本取り出すと、それを彼女に向かって勢い良く放り投げた。
彼女はこちらを向かない代わりに、左手の平を宙に掲げる。
するとどうした事か。空中へ放り出され、重力に引かれてただ地面に落下するだけのはずのペットボトルが、まるで空間に縫い止められたかのようにピタリと静止、微動だにしなくなった。
エミリの十八番の、念動力によるものだ。
【貴様……我ヲコケニスルカッ!】
ノドグロは、その大きな目玉が怒りで飛び出るほどエミリを睨みつけた。
しかし、彼女が臆する事はない。天高く掲げた掌を握ると、拳骨を造る。
瞬間、雨が降ったかと思った。
否、雨ではない。
空から降り注ぐは、純水の弾丸である。
宙に浮かんだペットボトルがエミリの念動力によって破壊され、そこから溢れ出た二リットルの水塊が、無数の『水の弾丸』へと変化。ショットガンの如くノドグロに襲い掛る。
水の弾丸は勢い良く、ノドグロの顔に、喉に、胸に、脇腹に、腰に、膝に、脛に、衝突し、そこから湯気に似た煙がもうもうと立ち昇る。
理解不能なめちゃくちゃな雄叫びを上げ、顔を両手で抑えながら、コンクリートの上をじたばたと悶えるノドグロ。エミリはバックステップで距離を取ると、俺の所まで回避してきた。
勝ちは、既に見えている。
「やったな」
不器用に笑顔を浮かべて、そう言った。だが、エミリの表情は険しいままだ。
「油断は禁物ですよ和成さん。本当に大変なのは此処からです。奴はこの後、真の姿を現します」
エミリの言葉通りの事が、今まさに目の前で起ころうとしていた。
地面の上に転がって悶え狂っていたノドグロの体のあちこちから、これまでよりもさらに大量の黒い触手が、蜘蛛の子を散らしたかのようにうじゃうじゃと這出てきた。黒い触手は幾重にも幾重にもノドグロの、いや、『羽純だった体』を包み込み始める。
現れたのは、黒き魔人であった。
そのあまりの巨大さに、思わず見上げる。
恐らく、全長は十メートル近くはあるだろう。真黒な頭部から四本の鋭い角を生やし、凶悪な猛禽類を思わせる鋭い牙を口から覗かせ、大量の触手が絡まる巨躯の至る所から、紫色の、得体の知れぬ粘液を垂れ流している。呼吸をするたびに、その暗黒の口からはどす黒い煙が立ち昇る。
その異様さに圧倒されつつ、俺の頭は不思議と冷静だった。もはや、恐怖感が麻痺してしまっているのかもしれない。
「エミリ、予定通り頼むぞ」
俺は敵の注意をエミリから逸らせる為に、ノドグロに向かって駆け出した。魔人と化したノドグロが、電柱よりも太い右腕を大きく振るい、俺に目掛けて叩きつけてくる。
「くっ!」
何とか横っ跳びに回避して、態勢を立て直す。視線の端に、クレーターの如く穿たれた深い穴が目に入った。あれをまともに喰らえば、死ぬのは確実。
死ぬのは――確実。
だが、それを恐れては何も変わらない!男には、自身の命などかなぐり捨てて、やらねばならぬ時がある。
俺にとっては、今がその時だ。
襲い来るノドグロの攻撃を間一髪の所で避け続けながら、俺はちらりと視線を後ろにやった。どうやら、準備が整ったようだ。エミリの頭上に、ナトリウムの棒が幾つも浮かんでいた。エミリお得意の念動力だ。
「離れてください!」
俺はその合図と同時、今度はノドグロから一目散に逃げ出した。
無防備にも背中を晒すという恐怖感はあったが、そんなのに怖気づいている場合じゃない。悲鳴を上げる自身の両足に渾身の力を込めて逃げる俺と、宙を飛ぶナトリウムの棒がすれ違う。総量五キロに及ぶ大量のナトリウムがノドグロの体に、ズブリと突き刺さっていく。
【ムン……?】
ノドグロは、自らの体に突き刺さるいくつもの灰色の塊が、ナトリウムとは知らないようだった。ただ突き刺さるだけではダメージを感じないのか、特に悶える様子もない。
【ソノ程度ノ攻撃デ、我ガ怯ムト思ウタカッ!】
ノドグロは自らの体に刺さる幾つものナトリウムを抜き取ろうともせず、両腕を大きく振るった。暗黒の剛腕が俺とエミリに向かって振り下ろされる。
だが、その攻撃よりも寸分早く、こちらの攻撃が奴に届いた。
残りの二本のペットボトルを念動力で自在に操ると、エミリはノドグロ目掛けて勢いよくぶつける。破裂したペットボトルから大量の水という水が噴出。ノドグロの体に、そして、体から突き出している大量のナトリウムに衝突し、飛散していった。
――耳をつんざくような爆音が響く。
【ギイイアアアアアアアアッッッッ!?】
総重量五キロに及ぶナトリウムが純水と反応して巨大な爆発を引き起こしたのだ。天地を揺るがす絶叫が、街中に響き渡る。
ナトリウムは水と反応して水素ガスを発生させながら、オレンジ色に一瞬輝くと、辺りを爆音と爆風で包み込んでいく。化学反応の連鎖に合わせて、ノドグロの巨体が大きく激しく揺らいだ。
俺もエミリもその圧倒的威力におののきながら、直ぐに安全な場所まで退避する。
【オ、オオ、オオオオオッッッ!オ、オノレェェェエェエエエエエエ!】
凄まじい形相で恨み節を上げながら、ノドグロの黒い体が爆風に飲まれて辺りに飛散していく。
ノドグロの体を形成していた、黒く、所々紫混じりのヘドロの様な物体が音を立てて、道路と言う道路。壁と言う壁にへばりついていく。
トマトを思いっきり壁にぶつけたかのように水音を立ててひしゃげていくその姿は、グロテスク極まりない。
やがて、相当数のナトリウムが反応したのか、ノドグロの姿は発生した大量の水素ガスの白煙に包まれて、俺達の視界から消え去った。だが、尚も白煙の中でノドグロの痛々しい絶叫は響き続け――――やがて、聞こえなくなった。
ナトリウムが水と反応する時の、あの特有の破砕音すらも。
果たして上手くいったのだろうか?羽純の体は無事なんだろうか?その事が気がかりだった。
「やりましたよ和成さん!凄いです!感動的です!家に帰ったら沢山紅茶とお菓子を貪りたい気分です!」
俺の心配なんて余所に、エミリは興奮した口調で喜びの声を上げていた。「あのなぁ」と、俺は呆れ顔で告げる。
「喜ぶのはまだ早いだろ?早く封印を……」
「あ、そうでした」
エミリはそそくさと、スカートのポケットに手を突っ込むと、あの秘伝の巻物を取り出した。
――その直後であった。
「あれ?」
右脇腹に鋭い痛みを感じた。
と、同時に世界が反転した。
何が起こったのか分からなかった。気づいた時には俺の体はコンクリートの地面に横たわっていた。全身を強く打ち付けた為か、意識が霞む。
霞んだ視界の中に、黒く巨大な触手が目に入った時、俺はようやく、自分がノドグロの攻撃を食らった事を理解した。
「か、和成さん!」
エミリの悲痛な叫びが耳に届く。
しかし、俺の体はその声に反応することが出来なかった。体が思うように動かない。なんとか左手だけは動いたので、恐る恐る自分の腹に手を当てた。
じんわりと生暖かい液体の感触を覚えた。
「(あ、あれ?何で俺、血を流してるんだろう)」
不思議と痛みはなかった。神経がやられているのだろう。たった一発食らっただけだというのにこの破壊力だ。
本当に、ノドグロという化け物は世界を崩壊させるだけの力を持っているのかもしれない。冷静にもそんな事を考えている内に、俺の意識は深い深い泥の中に沈んでいった。