第十八話
俺はリュックサックを背負い、荷台を押しながら街中を全力疾走していた。
足を激しく回転させる度に、滝の様な汗が背中と額を濡らしていく。
こんなに必死な想いを抱えて走るのは、生まれて初めての事だった。
不思議な程に学生街は閑散としており、時折、歩道でくつろぐ野良猫数匹と視線が合う程度だった。
お日様は高く昇り、燦々と輝いている。
昨晩の天気予報ではゲリラ豪雨がやってくると言っていたが、とてもそうは思えない。
やがて、片側一車線の車道に出る。
周辺をせわしなく見回し、腕と腰に力を溜めて手首のスナップを利かし、荷台を方向転換させる。
膝が悲鳴を上げて若干前のめりになりつつも、俺は、つい数分前にエミリに指定された場所へ向かって走り続ける。
足元を縺れさせながら、必死になって走り続ける。
日ごろの運動不足がここにきて祟ったか。ぜは、ぜはと、見っともないくらいの荒い息が漏れる。
こんな所を知り合いに見られでもしたら、可笑しな反応をされるのに決まっていた。だが、今は体面を気にしている場合ではない。
腕時計の針が午前十時少し前を刻んだところで、俺は人気のない広い十字路に出た。寂れた美容院や八百屋、喫茶店が目に入る。
人の気配は恐ろしい程無かった。行った事はもちろんないが、月の裏側もこんなに静かなのだろうかと思うと、急に孤独感が心に押し寄せてきた。
「あ!和成さん!」
俺の弱気な気持ちを木端微塵に吹き飛ばすかのような声。視線を右に移す。エミリがいた。
走って彼女に近づこうとしたが、そこで躓いた。がらんがらんと音を立て、荷台に積んだドラム缶が道に散らばる。
「何ですか?これ」
「ナトリウムさ」
転がりゆくドラム缶を手で止め、息を切らして俺は答えた。
「ナトリウム?」
「ああ、うちの研究室からかっぱらってきた。五百グラムの缶が全部で十本。合計で五キロ。これを使って爆発を起こす」
「……はぁ」
俺の言っている内容が良く分かっていないのか。エミリが訝しむ表情でドラム缶を凝視している。
過ぎて行く時間の流れを惜しむかのように、俺は早口になって『作戦』を説明した。
「いいか?よく聞いてくれ。ナトリウムってのは水と反応すると、爆発を起こすんだ。だから普段は、ほら、こういう褐色の瓶に、有機溶媒を浸しておいて保管しておくんだ。空気中の水分と反応しないようにな」
俺は缶の一つを手に取ると蓋を開け、そこから褐色瓶を取り出し、エミリに見せた。褐色瓶の中には太さ二センチ、長さ十センチ程度の灰色の棒が何本か、まるで標本にされたかのように静かに沈んでいる。
エミリは眉間に皺を寄せ、暫くそれを見つめていた。奇妙な虫を見るような目付きであった。
「こんなの、一体何処から持ってきたんですか?」
「だから、俺の研究室さ。本当はカリウムがよかったんだけどな。さすがにそれは無かった」
「勝手に持ち出してきて、大丈夫なんですか?」
苦笑が漏れる。
無論、大丈夫な訳がない。
研究室の備品を勝手に持ち出すことは禁止されている。
ましてや、持ち出したのがあのナトリウムで、しかもそれを五キロ分盗んできたというのだから、もし教授が知ったらどんな顔をするだろうか。
「許可なんて取ってる暇ないだろ?当然、無断で持ち出してきた。まぁ、バレたら確実に退学だろうな」
「……それほどまでに、羽純さんを助けたいんですね?」
エミリの問いに力強く頷く。退学になった後の事など、今の俺にはどうでもよかった。
何としても羽純を助けるのだという確固たる決意。
俺の頭の中にはそれしかなかった。
「分かりました。和成さんの意志を尊重します。なんとしてでも羽純さんを助けだし、ノドグロを封印しましょう。私も己と、己の一族の誇りに賭けて全力を尽くします」
そこから、俺はエミリから現在の状況を説明された。どうやら、羽純は俺達のいる地点から三百メートル程先の所にいるらしい。
「羽純さんは今、歩いて此処に向かってきています。恐らく、もうノドグロによって意識が乗っ取られている事でしょう。向こうもレーダーを使って、私の事を探している可能性があります」
「それで、どうするんだ?此処で迎え撃つのか?」
「はい。向こうがこっちに向かって来ている以上、下手に動くのは危険です。此処で迎え撃つのが得策かと思います」
エミリはセーラー服のポケットから、不可思議な幾何学模様の書かれた紙を取り出した。
それを自分の足元に何枚か落とし、念仏のような複雑怪奇な呪文を唱える。
「人払いの結界を敷きました。これで安心して封印に集中することができます」
そこから、俺達は今後の段取りについて簡単な打ち合わせをした。どうやってナトリウムを爆発させ、どのタイミングでエミリが封印を施すか。それを決めるための打ち合わせだ。
打ち合わせを終えた直後、背中に嫌な気配を感じた。驚いて振り返る。が、誰も居なかった。居なかった代わりに、目線の先にある空間がひどく歪んで見えた。
まるでそこだけが、じわじわと別の世界へ切り抜かれていくようなそんな違和感だ。
続いて、コツコツコツと、耳元にハイヒールで地面を叩く音が聞こえてきた。
「羽純……!」
俺の目線の先、約三十メートル程離れた所に羽純がいた。遠くからでも分かるくらい、彼女の顔は青白かった。体中の英気が根こそぎ『何か』に奪われてしまったように見えた。
「羽純!」
慌てて彼女に駆け寄ろうとした。が、シャツの袖を誰かに掴まれる。振り向いた。エミリだ。行ってはならないと警告するように、彼女は口を真一文字に結んで首を横に振った。
「お気持ちは分かります。ですが、落ち着いて下さい」
「…………」
俺は、黙って羽純がこちらに歩み寄ってくる姿を見つめるしかなかった。彼女は一歩一歩、確実に、静かに俺達の方へ近づいてくる。
が、その歩き方が俺には酷く不気味に感じられた。
【久シ振リダナ、忌マワシキ有角ノ戦士ヨ】