第十三話
「羽純は俺の一つ前の席の女の子だった。当時は身長がちっちゃくて、百五十かそこらしかなかった。でも、笑顔が素敵な女の子だった。性格も良くて、勉強も出来るし、スポーツも万能だった。それでいて、決して奢ることはなかった。つまり否応なく誰からも好意を持たれるような、そんな女の子だったのさ」
俺はそこで一息ついて、ビールで喉を潤した。頬が火照っているのが分かる。ああ、これは完全に酔いが回っているなぁと、そんな事を思った。
「俺も、そんな彼女の魅力に取り付かれた人間の一人だった。彼女とは話している内に、互いに共通の趣味を持っている事もわかった。好きな音楽や、好きな小説が同じだったんだ。そこから俺達は急速に仲を深めていった。休みの日は一緒に買い物に出かけたりもした。でも、彼氏彼女の関係じゃなかった。あくまで、俺と彼女の関係は『仲のいい友達』でしかなった。それがひどく窮屈に思えたときもあったけど、でも、当時の事を思えば、俺はその状況に結構満足していたんだ。ここで彼女に告白して、もし断られたら、彼女が何処か手の届かない、俺の知らない遠いところへ去ってしまうんじゃないかって思って不安になったんだ。それから俺達は同じ高校、同じ大学へと進学した。進学しても、俺と彼女の関係は変わらなかった。変化が訪れたのは、俺と羽純が大学で支倉と出会ってからだ」
俺は、もう一度ビールを飲んで、喉の乾きを抑えた。
エミリは、黙って俺の話を聞いていた。
「俺と羽純、それに支倉の三人は『文学同好会』っていうクラブに所属しているんだ。支倉とは大学一年の時に知り合って、仲のいい友人だった。そして、俺を仲介して支倉と羽純は知り合ったんだ。そこから、俺達はよく三人で行動した。浜辺の洞窟に肝試しに行ったり、海辺でバーベキューをしたり、映画を見に行ったり、キャンパス中の雪をかき集めて巨大な雪だるまを作ったり、色々した。俺達三人の関係に微妙な変化が訪れたのはそれから二年後の、大学三年生の時の暑い夏の夜の事だった。その日、、俺は支倉に呼び出されてこう告げられたんだ『俺と羽純、付き合う事になったから』ってな。そりゃ驚いたさ。俺の知らない所で、二人は何時の間にか男女の仲になってたんだから」
「それで、和成さんはどうしたんですか?」
「いや……どうって、別に何もしなかったさ。素直に『おめでとう』って、そう声を掛けた。まぁ正直言えば悔しかったよ。実際、その日の夜は柄にもなく枕を涙で濡らしたさ。でも、よくよく考えてみればこれでよかったんだって思えたんだ。支倉はいい奴だし、女癖も全く悪くない奴だった。真面目で気立てのいい奴だったし、そんな所に惹かれて、羽純もアイツと付き合うことになったんだろうって、そう『無理やり』自分を納得させたんだ。羽純が幸せになれるならそれでい。そういう風に考えるようになったんだ。でも――」
そこで一度、話を切った。
何気なく、俺は空になったビールの口を覗き込んだ。真っ暗で、全てを飲み込んでいまいそうな言い様のない深淵が、そこに広がっていた。
「でも、そんなのは只の格好つけだったんだ。誰だって、自分を一番に愛して欲しいって思うし、誰だって、誰かを一番に愛したいって思うんだ。俺もそうだったんだ。頭では分かっていても、心がついていけなかった。寝起きで一番最初に脳裏に浮かぶのは、いつも羽純の事だった。でも、次には『ああ、あいつはもう俺の手の届かない所に行ってしまったんだなぁ』っていう虚無感が俺を襲うんだ。羽純の笑顔を見ると……胸がひどく痛むんだ。こうなることならいっそ――」
――いっそ、もっと早くに羽純に告白しておくべきだった。
喉元まで出かかったその言葉を、俺は必死になって嚥下した。
ここでそれを言ってしまえば、自分の唯一の矜持というか、誇りというか、そういうものが音を立てて崩れてしまうような、そんな言い知れぬ恐怖が俺を襲うんじゃないかと思ったからだ。
「まるで、呪縛ですね」
エミリがポツリと、呟くように言った。的を射た、実に的確な表現だと思った。
まさしくそうだ。今の俺の心は『初恋』という名の見えない糸で、雁字搦めにされている状況だった。解こうにも解けない。無理やり前に進もうとすると、心がギシギシと音を鳴らす。
にっちもさっちもいかない状況に、今の俺は置かれていた。