第十二話
エミリがお菓子を食べたり飯を食っているシーンを書くと、なんだかほっこりします。
エミリはしばらく黙っていたが、やがて口を開いてこう言った。
「和成さん落ち着いて聞いてください。彼女を助ける事ははっきり言って無理です。それは、芋虫が蛹にならず、いきなり成虫になるのと同じくらい無理な話です。彼女の体は頭の先からつま先まで、完全にノドグロに乗っ取られています。あの赤い吐息がその証拠です。緑色や黄色なら、まだ手の打ち所があったのですが……赤色の吐息の場合、宿主の体を助ける事は出来ません」
「……」
「すいません。私の行動が遅かったばっかりに……」
「あのさ、何度もしつこく尋ねるようで悪いんだけど……本当に、本当に羽純の体には、ノドグロの尻尾が寄生しているのか?」
俺のその質問に、エミリは怪訝な表情を向けた。
自分のことを信用してくれないことに、若干の不快感を覚えたようだ。
「あの、どうしてそこまで気にかかるんですか?」
「だって、昨晩言ってたじゃないか。ノドグロの宿主に近しい人間は、皆何かしらの災厄に襲われるって。でも、羽純と一番近い関係にある支倉には何の被害もないんだぜ!?昨日研究室に来た時だって、あいつに変わった様子は無かったんだ!これをどう説明するんだよ!」
話しているうちに、口調が乱暴になってくる。何だか自分が我侭な事を言っている幼子になった気分だった。そんな俺をエミリはじっと見つめ、ゆっくりとした口調で宥めた。
「和成さん。災厄の度合いというのはその人その人によって違うのです。それに、災厄が訪れる時間帯も異なります。もしかしたら、今、貴方の知らないところで、支倉さんはとんでもない災厄に見舞われているかもしれません。それとも、貴方は二十四時間、彼の行動を全て把握しているとでも言うですか?把握した上でそんな事を言っているのですか?」
最後の方になるとエミリも興奮してきたのか、語気が荒くなった。俺が何度も疑うから、さすがに頭に来たのだろう。
俺は、エミリがそんな荒々しい口調で怒った事に驚いて、暫く彼女の顔を、ぽかんと見ることしか出来なかった。
やがて、彼女は自分がとんでもないことを言ってしまったと理解したのか、ハッとした表情になるとすぐさまソファーから飛び降り、土下座して謝り倒した。
「す、すいません!言い過ぎました!許してください!」
涙目になって許しを乞うエミリ。
彼女のそんな姿など見たくもなかった俺は、土下座をする事を止めさせ、謝罪の言葉を述べた。
「いや、俺も悪かったよ。ごめんな、疑ったりして。ただ、羽純の事を考えるとなんだかこう……胸が締め付けられるというか……そんな気分になって、居ても立っても居られなくなっちまうんだ」
最後に「ごめん」と付け加えると、俺はエミリから逃げる様に布団に潜り込んだ。彼女はそんな俺の様子を黙って見ていたが、やがて、お菓子を再び貪り始めた。
次に目が覚めた時、日はとっぷりと沈んでしまっていた。ガラス窓に映る闇夜を見て、今度は枕元の時計に目をやった。が、短針も長針も全く、ピクリとも動いていない。
寝惚け眼を擦りながら、俺は『はて、どうしてこの時計は動かないのだろうか』と、少しの間思案した。
「あー……しまった。そう言えば電池切れてたんだっけ……」
ポツリと呟く。そして今度は、ソファーの方に目をやった。
テーブルの菓子を全て食べ尽くしたエミリが、すぅすぅと寝息を立てている。俺は、そこらへんから適当な毛布を手に取ると、それを静かに彼女の体にかけてやった。
携帯を開いて時刻を確認すると、午後十時半を少し回った所だった。かなり長い事、惰眠を貪っていた事になる。
「さて……」
俺は、パンッと太腿を両手で叩くと、キッチンに向かった。今夜の夕食を何にしようか決めるために、冷蔵庫を開ける。
中に入っていたのはソフト麺の袋が二つ。それに人参、キャベツ、もやしに豚肉、ウスターソースの瓶があった。夕食は焼きそばにしてくれと、冷蔵庫が意見を申し立てているような、それほどまでに完璧な食材の群れだった。
「この焼きそば美味しいです!和成さんは料理の才能があるんじゃないですか!?」
あれだけ菓子を食ったにも関わらず、この女……いや、この女鬼の胃袋は宇宙か何かなのだろうか。むしゃむしゃと麺を頬張り、ご機嫌な声を上げるエミリ。
こんな料理、今時の男だったら誰でも作れるよと俺は言ったが、褒められた事は内心嬉しかった。これまで誰かの為に料理を作った事など、ただの一度も無かったが、なかなかどうして、誰かの為に料理を作るというのは気分のいいものだった。
時刻が夜の十一時半を回った頃、俺達はようやく遅めの夕飯を終えた。が、昼にたっぷりと睡眠を取ってしまったからなのか、眠気は全くなかった。
それはエミリも同じだったのだろう。「何か面白いテレビはやってないんですかねぇ」とか言いながら、人の家のリモコンを勝手にいじり回す。
「テレビの事も知ってるのか」
「和成さん、あなた、鬼ヶ島を無人島かなにかと勘違いしていませんか?」
「……うん、まぁちょっとは」
「失礼ですねぇ~。あ、見てください和成さん。この女性キャスター結構美人さんですよ!おっぱいも大きいし、こういう人、タイプじゃないんですか?」
俺は黙ってエミリからリモコンを奪い返すと、夜中の天気予報のニュースにチャンネルを合わせた。
ニュースによると、どうやら明日の午前中から、俺の住んでいる地域は激しいゲリラ豪雨に見舞われるようだった。一日の大半を研究室か、あるいは東京での就職活動で過ごす俺には殆ど関係のない内容だった。
ニュースが終わり、午前一時に時計の針が差し掛かった所で、俺は缶ビールと、サイダーを一本ずつ取り出してテーブルに置いた。俺は缶ビールに、エミリはサイダーにそれぞれ口を付ける。
「飲むか?」
俺は試しに、開けたばかりの缶ビールをエミリに手渡した。
彼女は鼻先を缶の口に近づけて犬の様にクンクンと鼻を鳴らすと、恐る恐るビールを口に含んだ。
「ぶっ!」
少し飲んだ所で、ビールを勢い良く吐き出すエミリ。「うえぇええ」と、呻き声のような声を上げる。
「何ですかこれ!酷くまずいですよぉ」
「ははは。何だかんだ言って、まだまだお子ちゃまなんだな」
俺は手元にあったタオルで飛び散ったビールの残骸を拭き取り、ビールを飲んでしかめっ面になっているエミリを見て笑った。少し、心が安らいだ気がした。
ビールを半分程開けた時だった。俺はおもむろに、エミリに向かってこんな質問をした。
「エミリはさ、好きな人っているのか?」
「え?私ですか?うーん、そうですねぇ」
サイダーから口を離し、エミリは右手の人差し指を下唇に当て、目線を天井に向けて思案しはじめた。俺は、その様子を黙って眺めていた。
「たぶん、和成さんの事は好きです。でも、私が和成さんに抱いている感情は、『親愛』の感情なんだと思います。『恋焦がれる』とか、そういった感情とは別個のものだと思います」
恋焦がれる。
今年で俺は二十四歳になるが、その言葉は、俺にとって酷く懐かしく、そして、何処か遠い世界の言葉に聞こえた。今、まさに自分がそういう状況になっているのにも関わらず、だ。
「俺はさ、中学二年生の時に、初めて羽純と出会ったんだ」
気がつけば、俺は昔の初恋について語っていた。酒が回ってきた証拠だ。誰かに、自分の思いを聞いて欲しかった。だから、突然にこんな話しをし始めたのだろう。
そう、無理やり自分を納得させた。