前夜祭ー2
雨が降っていた。いつになく激しく降る雨だった。その音は、寝室でひとり寝ていたシャルロットの睡眠を遮った。シャルロットは陰鬱に重いため息を吐いた。
折角、ひとりで苦労してハロウィンの晩餐会の招待状を作ったというのに、心は晴れなかった。それもこれも、この雨が悪いのだ。
“あなたがいなくても、晩餐会くらい、私で開けますよ”
夫に揚々と告げた言葉が過った。あの言葉は、半分は本心、もう半分は強がりで言ったものだった。
普段から仲良くしている方々との親睦会を兼ね、毎年このカントリーハウスでハロウィンパーティを開いていた。ハロウィンパーティというのは、夫が仕事でアメリカへ訪れた時に見つけた、アメリカの行事の一つだった。アメリカでは仮装をして楽しむそうだが、ここはイギリス流に仮面をつけてはどうだろう、と夫が提案してきたのが始まりだった。
シャルロットは寝返りを打った。閉じられた窓硝子が割れるのではないかと思うような、そんな横殴りの雨が窓を打ち付けている。
その雨の音に混じって、一際大きく扉を叩く音が聞こえた。
「奥様、シャルロット様!」
メイドのエイダの声だ。高く澄んだ声がシャルロットを浅い眠りから引き起こした。シャルロットは小さく呻くと、重い瞼をこすり、ベッドに潜ったままエイダに問いかけた。
「…エイダ、一体何なのです、こんな夜中に…」
「シャルロット様、大変です!封筒が…」
「封筒?」
シャルロットはゆっくりとベッドから起き上がると、傍のデスクに置かれたランタンに火を灯した。そしてそのランタンを片手に携行し、ゆっくりと扉へ近づき、施錠を外した。そして、一応用心のため、扉を僅かだけ開けた。
「シャルロット様!」
エイダはランタンを手に提げたまま、唇をわなわなと震わせていた。シャルロットが倉卒と扉を開くと、エイダはやっとの手つきで手紙を渡した。
「まあ、どうしたっていうの、エイダ」
シャルロットは分けも分からず手紙を受け取った。落手した封筒は、雨のせいでびっしょりと濡れていた。
「これは…?」
シャルロットは手紙を矯めつ眇めつ注視した。封筒の表には、黒のインクで「ハロウィンパーティの宴と共に」と麗筆を揮って書かれていたが、雨に濡れて文字が随分滲んでいた。差出人も確認をしたが、封筒の裏には何も記述がなかった。エイダが先に改めた様子で、押されたスタンプが、綺麗に剥がされていた。
封筒を開け、中身を取り出した。そして、手紙を開き、文面を一読する。
巨大で凶暴なグリズリー
そんな彼は、小さな子どもを食べていた
けれど、その子どもは気付いていない
…自分がクマに食べられたことを
さて、今宵の宴は、誰が子どもになるのだろう?
レイバン スチュアート
「これは…」
シャルロットは手紙を見つめたまま、大きく目を見開いた。
これは、A・Eハウスマンの「シュプロッシャーの若者」に書かれた詩の一節だ。子どもが凶暴なグリズリーに食べられてしまう、その場面から純情な子どもでも無情な世の中には通用しないという世の残酷さを語った詩だ。
「さっき、玄関を叩く音がしましたので、何事かと思い、扉を開けてみたら…このような封筒が落ちていて…シャルロット様、わ、私はどうしたら…」
エイダの震えに呼応するように、ランタンがカタカタと音を立てた。
ハロウィンパーティで子ども(だれか)が食べられる(しぬ)――――
これは、殺人予告状だ。
「ああ――――」
シャルロットは震える指先で自分の額を覆った。
夫は今、アメリカへ出張しており、しばらくは戻ってこない。
どうして、こんな時に限って…
私がやろうと思ったことが、間違いだったのかしら――――
「…私も、どうして良いのか分かりませんでした。私自身も焦ってしまい、思わず…迷惑を承知で、ドミルトン伯爵にお電話を差し上げました。そして、こちらが件の、脅迫状になります」
シャルロットは寝室の本棚から取り出した、古びた木箱を丁重に、テーブルの上へ置いた。
柔らかな卵色のシャンデリアが燭光を放ち、暖炉の灯火が揺らめく客間は、上質な絨毯が敷かれ、温かみに溢れていた。
セシルとギルバートは、シャルロットと向かい合うようにして、客間のソファに腰を下ろしていた。シャルロットはそろりとした手つきで、木箱をセシルの傍へ差し出した。セシルはその木箱を収受すると、そっと箱を開けた。中には、皺の寄った一通の手紙が入っていた。
「こちらですか?」
「はい」
セシルは手紙を取り出すと、封筒を確認した。表面には、インクの滲んだ文字で「ハロウィンパーティの宴と共に」と揮毫されていた。それを見て、セシルは内心ほっと胸を撫で下ろした。
裏面を調べ、何も記載されていないことを把握すると、丁寧に封筒を開け、手紙を開いた。
ほっとした気持ちが、安堵へ変わった。
レイバンではない―――
そう、確信した。筆跡がレイバンとは全く異なっていたのだ。レイバンは角張った、神経質そうな字を書くが、この手紙の字は、流麗で、まるでカリグラフィーを習っているように秀麗だった。
そして何より違うのが、この手紙を書いた人間は、右利きという事実だった。レイバンは左利きだから、文字を書く時、インクが乾く前に次の文字を書いていく。そのまま書き続けるから、文字が右にわずかに滲むのだ。だが、その独特の滲みが、この手紙にはない。よって、この手紙を書いた人物は右利きという事になる。
そう考えると、レイバンである可能性は極めて低い。
「一応、今日いらっしゃる予定の方々の筆跡を見てもよろしいですか?」
セシルは手紙を細見したまま、シャルロットに問いかけた。シャルロットはこくりと頷いて直答した。
「分かりました。今日来られる方々の、お礼状の返信でよろしいでしょうか?」
「はい、構いません」
「では…今お持ちしますわ。少しこちらでお待ちください」
シャルロットはそう付言すると、姿勢良くソファから立ち上がり、足早に客間から出ていった。
シャルロットが席を外してから、暫く経った後、セシルは、手紙を入っていた封筒へ入れ、ギルバートに託した。
「ギルバート、どう思う?」
ギルバートはセシルからその手紙を拝受すると、さらりと封筒を確認し、手紙を開いた。
「私の知っている、レイバン氏が書いた筆跡とは明らかに異なっています。レイバン氏が書いた物ではないことは、確実かと」
ギルバートが再び手紙を戻し、セシルへ返上した。セシルは封筒を受け取ると、沈潜しながら頷いた。
「そうだな、私もそう思う」
扉を叩く音が響いた。粛然と扉が開かれると、失礼します、とシャルロットが顔を出した。シャルロットの隻腕は、沢山の手紙が抱えられていた。
「こちらが、招待した方々のお礼状です」
シャルロットは再び客間のソファに座ると、把持していた手紙の束をセシルへ渡した。セシルは、ありがとうございます、と謝礼を述べて受け取ると、慣れた手つきで手紙の封筒を通覧していった。
セシルはシャルロットから接受した封筒の束と、脅迫状を交互に見比べた。
「こちらは、お預かりしてもよろしいですか?」
「ええ、問題ありません」
シャルロットは首を縦に振り、肯定した。
「ありがとうございます」
セシルはシャルロットに礼を告げると、手紙を総てギルバートに預けた。
「よろしくお願いします」
シャルロットは深く頭を下げ、懇請した。頭を上げた彼女の眉は曇ったまま、僅かに唇を噛みしめていた。
「私が来たのなら、もう心配ありませんよ、ミス・シャルロット。必ずや、私がこの犯人を見つけて見せましょう」
セシルは温柔に満ちた淡緑色の瞳を、シャルロットへ向けた。シャルロットの濁った眼が、セシルの言葉でわずかに微光が差した。
「どうか、よろしくお願いいたします」
セシルは、力強く頷いた。