前夜祭―1
虫の囁く声や、人々の影もない。馬車の窓越しに見る森は、星が瞬く音すら聞こえてきそうなほどの静寂に包まれていた。その森を駆け抜けると、遠くで灯りがぼんやりと浮かび上がった。灯りは近づくにつれ、爛々と光輝くカントリーハウスから漏れ出る明かりであることが分かった。鬱蒼とする闇の中でも、カントリーハウスはその存在をはっきりと示していた。そう、これがポートマン家のカントリーハウスだ。
「初めまして。アルフォンス・ドミルトンです」
午後六時。夜目にも煌びやかに映る、豪華なカントリーハウスの玄関ホールで、セシルはその場に劣らず、大輪の花のように眩しい笑顔を浮かべた。この人当たりの良い相好が、セシルの最大の武器だった。
セシルは満開の笑みで右手を差し出した。淡い金に輝く髪と、くりっとしたあどけない瞳が、端正な顔立ちを柔和な容姿へ変えていた。身に着けた甘めの煉瓦色のフロックコートが、セシルの印象をより穏やかに見せていた。
その笑顔を見たシャルロット・ポートマンは、まあ、と束の間、口元に手を添え、セシルに見惚れていたが、はっとした様子で手を出し、挨拶を交わした。
「私がシャルロット・ポートマンです」
セシルの隣に控えていたギルバートが、同じく右手を差し出した。
「助手の、ギルバートです。よろしくお願いいたします」
シャルロットも右手を広げて、握手を返した。
「こちらこそ、今日はよろしくお願いいたします」
ギルバートは、ウェーブの利いた、たおやかな艶のある黒髪と、親しみ深く笑う澄んだ黒眼が知的で、端麗な顔立ちだ。身に着けた黒のフロックコートはセシルの物よりかっちりとしており、その分、几帳面で繊細な印象を与えた。
「…お話に聞いていた印象と、随分違っておりましたので、正直とても驚いておりますわ」
シャルロットは呆けた顔をセシルとギルバートに交互へ向けて、感嘆の声を上げた。
セシルは形の整った眉をわずかに下げて、苦笑を漏らした。
「そうですか?」
すると、シャルロットはええ、と乳青色の瞳に皺を寄せて、物柔らかに微笑んだ。
「こんなに顔立ちの整ったジェントルマン、私は初めて見ました…助手さんも、なんてお綺麗なのかしら。きっと、今回の晩餐会で大騒ぎになりますわ」
「そんな風に言って頂くなんて、思ってもいませんでした。ありがとうございます」
セシルは照れ笑いを浮かべつつ、シャルロットに礼を述べた。
「今日は、ドミルトン伯爵もお忙しいのに、早々にお越しいただき、ありがとうございました」
シャルロットは頭を下げた。しっかりと束ねられた赤茶の髪には、所々白髪が混じり始めているが、それがかえって大人の落ち着きを醸し出していた。つま先から頭まで、所作が洗練されており、良家の品があった。
「いいえ、全く問題ありませんよ」
セシルはにこやかに手を横に振った。シャルロットは、瞳を僅かに歪めて憂色を見せた。
「取材のお仕事に、支障はありませんでしたか?」
「取材?」
セシルは笑顔を向けたまま、首を傾げた。するとシャルロットは、きょとん、とした顔つきになり、セシルと同じく首を捻った。
「…電話でおっしゃっておりませんでしたか?雑誌の取材依頼がありますゆえ、この時間になってしまうと…」
まずい。
セシルの背筋が凍った。
セシルは手をポン、と叩いて大げさに頷くと、間髪を入れず一気に話し始めた。
「ああ!取材ですね!ええ、大丈夫ですよ。それよりも、その取材のせいで着くのがこんなに遅くなってしまい、申し訳ないです」
シャルロットは首を横に振りながら否定した。
「いいえ、謝るのはこちらの方です。出来るだけ早く来てほしいという私のわがままを受け入れて下さって、本当に感謝しております」
シャルロットはもう一度深長に頭を下げた。
これ以上話が深入っては、自分がドミルトンでないことがばれてしまう。
セシルは何とか話題を反らそうと、張り付いた笑顔を浮かべながら、やんわりと本題へ導いた。
「わがままなんて、そんなことはありませんよ…で、その晩餐会の殺人予告状というのは?」
シャルロットは、そうですわね、と頷くと、予告状は寝室にあると言った。
「――客間でお待ちください。今お持ちいたしますわ」