深い森-2 図書室Ⅳ
夜の静けさが、忍び寄る影の音をも消す。寝息を立てる私の元に影は伸びる。
その影が私の首に触れた。
そっと、握られる。私は呼吸が苦しくなり、目を開いた。
私の首を絞めるのは――――……リノ?
グラヴィオンが翼を広げて、唸り声を出す。私は飛び起きて、咳き込んだ。
薄暗いベッドルームには、私とグラヴィオンしかいない。でもグラヴィオンは窓を睨み付けていた。首を擦り、私はまた確認する。
「……グラ、誰かいたの?」
グルル、と唸るだけで、グラヴィオンはなにも答えようとはしない。
「……夢のせい、夢のせいよ、グラ……」
ただの夢だ。私が魘され、グラヴィオンは侵入者だと思ったのかもしれない。
「夢よね、グラ」
そっと、鰐のように厚い皮の背中を撫でて確認する。
夢だ。悪夢だ。悪夢にしては、質が悪い。リノが私の元に忍び寄り、首を絞める夢なんて……。
暗い中、リノに見えた顔は、なんだか憎しみを込めて私を睨んでいるように見えて……ゾッとした。
唸る喉を撫でて、グラヴィオンを落ち着かせる。やがて、グラヴィオンの唸り声が止んだ。荒い息を吹いて、ベッドの上に身を沈めた。窓を睨み続けるグラヴィオンに寄り添い、私は撫で続ける。
窓はちゃんと鍵をつけたはずなのに、微かに開いていて、夜風でカーテンを揺らしていた。
それをぼんやり見つめていたら、いつしか眠りに落ちてしまった。
次に目を開くと、朝になっていた。グラヴィオンを見ると、窓を睨んでいる。
「ずっと見張っていたの? グラ」
訊いても、グラヴィオンは窓から目を放さない。
「……誰か、いたの? グラ」
グラヴィオンは、何も言わなかった。私はベッドから降りて、窓に歩み寄る。窓はやっぱり微かに開いていた。押し開けて、朝の空気を入れる。見慣れた光景が広がっていた。
窓辺に指先を走らせながら、窓を閉めたことを思い返す。
侵入者だなんて……。窓を覗いた時点で、グラヴィオンが気付くはず。リノなら、匂いを覚えているもの。
……いや、リノはいない。リノはいなかった。夢だったんだ。そう思うことにして、私はグラヴィオンの元に戻り、頭を撫でる。
「少し眠っていて」
そう告げて、朝の支度をしたのだけれど、家を出る前にはグラヴィオンは人の姿になっていた。人の姿になるのは、好きじゃないはずなのに。
黒いコートを身に纏うブラックゴールドの髪をした少年。少し眠たそうにゴールドの瞳を細めていた。
「……どうかしたのかい? グラヴィオン。朝からお前が人の姿でいるのは珍しい」
「……」
今日も早くお仕事に向かおうとしていたジオお兄様も、玄関前で立ち止まり首を傾げた。
グラヴィオンは何も言わず、ただ不機嫌そうにジオお兄様を見上げる。
人の姿になっている時は、大抵そんな態度をするグラヴィオンに対し、お兄様はただ微笑むだけ。
「……じゃあ、いってきます、ジュリア」
忙しいジオお兄様は、理由を問い詰めることを諦めて、私の額に口付けを落とす。そして出掛けた。
グラヴィオンはしかめっ面で扉を見つめる。そんなグラヴィオンの眉間をお母様は指で撫でると、笑って私達を見送ってくれた。
グラヴィオンが、人の姿で一緒に登校するなんて初めて。ぴったり寄り添って、眠たそうに細めたゴールドの瞳は、警戒したように周りを見ている。
「きっと夢よ……」
「……」
グラヴィオンにそっと言ったけれど、何も答えてくれない。
多分、私を守ってくれるグラヴィオンは、責任を感じている。それで警戒心を剥き出しにしているんだ。誰にも私を傷付けさせないために。
でも夢なら、グラヴィオンが責任を感じる必要はない。けれど、グラヴィオンは夢ではないと思っている。何者かが窓を開け、私の首を掴んだ。それはもしかしたら、魔法の類い……。
「グラヴィオン……」
グラヴィオンの肩に私は頭を置いて、腕を絡める。少しでも張りつめた気を沈めようとその腕を撫でた。グラヴィオンは、ふぅーと息を吐く。落ち着いたみたい。
でも学園に辿り着くと、グラヴィオンの気がまた張りつめた。唸って喉を鳴らす。
そんなグラヴィオンが睨む先には、リノ。今日も私に抱き付こうと駆け寄ろうとしたリノは、グラヴィオンを見て直前で止まる。
「グラとおんなじ目……」
じぃっとリノは見開いた目で、グラヴィオンの目を覗く。興味津々の様子。グラヴィオンだと気付くのは、流石ね。
「おはよう、リノ。グラの人の姿だよ」
「おはよぉ、ジュリア……。顔色悪いね……二人とも、眠れなかったの?」
私とグラヴィオンを交互に見ると、リノは心配そうに眉毛を下げた。
「え、ええ……少しね」と私は苦笑を漏らす。グラヴィオンが、飛び掛かりそうで不安。でも私達を心配する優しいリノを見ると、やっぱりあれは夢だと思えた。リノが私の首を絞めるなんて……。
「……どぉかしたの? グラ」
リノはグラヴィオンに手を伸ばす。グラヴィオンの頬に触れた。
スンスン、とグラヴィオンは匂いを嗅ぐ。リノの匂いを確認したことで、彼が侵入者ではないと確証を得たらしい。
フシュー、と深い息を吐く。それからすりすりと頬を自分から寄せた。リノは、微笑んで撫でる。
すごい。またグラヴィオンの警戒心を吹っ飛ばしちゃったのね……。リノは本当にすごい。その穏やかな口調が影響をするのだろうか。不思議な子。
微笑ましくて、二人をすぐ隣で眺めていると、ドサッと落ちる音が聞こえた。
見ると、あの紫髪の女子生徒が鞄を落としている。こちらを見て固まった様子のその女子生徒の代わりに、取り巻きの女子生徒達が慌てて鞄の中から散乱した教科書を拾う。
「グラとジュリア、やっぱり似てるね」
リノがもう片方の手を私の頬に当てるから、目を戻すと無邪気に微笑んでいた。その掌の温もりは、あの夢とは違う。
「あ、ジャスミン様っ!」
声に反応してまた見てみると、あの女子生徒がギロッと私を睨み付けながら、玄関扉に向かっていく。
どうして、また……睨まれてしまうのでしょうか……。
「あれ? 皆、おはよう。珍しいね、グラヴィオンが人の姿でいるなんて」
振り返ると、ローズグレーの髪のダノン先輩がいた。
「おはようございます、ダノン先輩」
私もリノも挨拶を返すけれど、グラヴィオンはただ私の肩に顎を置くだけ。
「あれ、なんか機嫌悪い?」
「あー、すみません。二人揃って悪夢を見てしまい、グラヴィオンは一晩中起きていたみたいで」
「え? 大丈夫かい? 本当だ、女の子が寝不足なんて美容に悪いよ」
ダノン先輩は、私の目元を気にして触れようとした。
けれど、その前に、グラヴィオンがドラゴンの黒い手で遮る。触るなと言わんばかり。
グラヴィオンの愛想の悪さはいつものこと。ダノン先輩は、苦笑して手を引っ込めた。
「グラヴィオンは、全然元気そうだねぇ」
「そんなことありません……」
ちゃんと眠ってほしい。多分、そのうち耐えきれなくなって、明日まで眠るでしょう。
早く眠って、と頬を撫でるけど、息を吐くだけでグラヴィオンは人間の姿を保つ。強情な子ね。
やっぱり耐えきれなくなり、1限目にはグラヴィオンはドラゴンの姿に戻り、私の膝の上で眠った。
2限目までは抱えて上げていたけれど、やがて小さくなり腕輪のように手首に巻き付く。そのまま昼休みまで、ずっと起きなかった。
「グラヴィオン、まだ眠っているの?」
ナディア達と昼食をとっている時に、リノに問われたから頷く。しょうがないわ。
「きゃー!」
食堂に黄色い声が響いたから、私達は振り向く。食堂入り口が、女子生徒達で塞がってしまっていた。
「あたしの王子様!!」
キラリ、と目を輝かせたナディアが立ち上がる。例のエリート生のことみたい。
チラリ、と人込みの中にルビーのような輝きを放つ赤毛が見えた。確かに燃えるような赤。残念ながら、そのお顔はお目にかかれなかった。
ナディアとその友だちは、その人込みに突進するように向かっていってしまう。
「パワフルだねぇ」とリノは笑う。
「そうだ、ジュリア。グラも寝てるし、一緒にお昼寝しよう?」
無邪気にお昼寝を誘ってくれるけれど、リノと違って私はお昼寝の習慣がない。だから断る。
また残念そうにリノは肩を竦めたけれど、昼食を済ませるとお昼寝をしに行った。
昨日のお昼休みに、図書室Ⅱを見たのだけれど、白のローブの生徒で満室だった。だから今日は図書室Ⅲの方で、勉強をしようと向かう。扉を開いて覗いたら、白と黒のローブが半々くらいにいた。ここも勉強が集中できそうにない。
図書室Ⅳを覗こうと思ったのだけれど、窓際の机に突っ伏している黒のローブの生徒が目に留まる。
フードを深く被っているけれど、長い赤毛と白い肌が見えた。ラピア先輩だ。
昨日も低血圧で具合が悪そうだったラピア先輩は、防音の魔法を使って遮断して眠っているみたいだ。
そっとしておくことにして、私はそこを出た。
この頃、ラピア先輩は体調が悪い……いつか倒れてしまいそうで心配だ。ラピア先輩の体調不良の原因は、ストレスだけれど……。また最近、家族のことでストレスを感じるような出来事が起きたのだろうか。ラピア先輩は、家族について全く話さないから、わからない。
「……リノは、どこでお昼寝をしているのかしら」
午後に会う時は、とてもすっきりした様子のリノ。お昼寝している場所が快適なら、ラピア先輩に教えてあげてほしい。あとで話してみよう。
打ち明けてくれるかはわからないけれど、ラピア先輩に相談に乗ると言ってみよう。
そう決めて、私は図書室Ⅳを探した。その図書室Ⅳにはまだ入ったことはなかったから、少し見付けるのに手こずった。薄暗い廊下の先だもの。
「あった……」
少し古びた木製の扉の上には、図書室Ⅳと書いてある。他の図書室より小さい。
ノブに手を触れた時、妙な感覚をした。手首に巻き付いたグラヴィオンも、ギシッと身をよじらせる。でもはっきりわからないから、首を傾げるだけで、気にせず中に入った。
無数に本棚が二列に並ぶ部屋の中は、本が入りきらずに床に積み上げられているところもあって、手入れが行き届いていないと印象を持った。
アーチ型の窓には海の底みたいに深い青色の厚手のカーテン。ところどころ開いているから、近付いて見なくとも日焼けした本が目立つ。
なにより、そこには誰もいない。他の図書室と違って静寂に包まれていた。全く人気がない図書室みたい。
こういう場所を望んでいた私には好都合だから、一人で占領してしまおうと、本棚の間に設置してあるテーブルにつくことにした。
けれども――。
そこに、人がいた。
「……君、どうやって入った?」
床に積み上げられた本の影でわからなかったけれど、そこにいた彼と目が合う。
黒い髪と、黒い縁眼鏡の、白いローブの生徒。本を開いている彼は、静寂な図書室に、低い声を響かせた。
20150130