コイバナには勝てません。
「玉城、俺は考えたんだよ」
既に部活は大方終わり、部室はガランとしていた。
そんな中黙々とボクシンググローブを磨く玉城に、松田が突然かけた言葉だ。
文脈も何も無いから、当然玉城には意味が分からない。
「何を?」
「お前に勝つ方法だよ」
松田はそう言うと、ニカッと爽やかに笑った。青春映画にでも出てきそうな表情だ。
B組の高木さんも、この笑顔にやられ、そして他の被害者と同様あえなく轟沈したのだろうか。
「新しい必殺技でも思いついたか?」
「この前の『ガーディアン・イン・ヘル~黄金の祝宴~』がかわされたので、それはもう諦めた」
松田は持ち前の陽気さから、時々ふざけたオリジナルブローを放ってくることがあった。
玉城としては実力の伯仲している松田には真面目に戦ってほしいと思うこともあるが、そんな松田の明るさがこの部のムード維持に役立っていることも理解している。
「ああそうさ。あの秘技がかわされて以来、俺は考えに考え抜いたさ。どうすればお前に勝てるかをな」
松田は右拳を握り締め、苦難の日々に思いをはせるかのごとく眉間にしわを寄せた。その全てが芝居がかっていて、うそ臭さを強く演出している。
間違いなく意識的なものだ。
「そんなことしなくても、もうお前は十分色々な物を持ってるだろ」
一部上場会社の役員である父親、上の中のルックス、成績優秀、トークのセンスもある。松田が持っていないものを探すほうが難しい。
玉城のそんな言葉に松田は一瞬無言になる。
その目に剣呑なものが混じっているのを玉城は見逃さなかった。
「ああ、確かにそうかもな。だが……」
玉城は立ち上がり、壁に左手をついた。
「それは関係ない。俺はボクシングでお前に勝ちたいんだ」
松田の声は既に茶化すような軽さを取り戻していたが、本音が相当に混じっている。
玉城はそう直感した。
「そこで心理戦を挑むことにした」
「心理戦、ねえ」
玉城はそう呟いた。何事も正攻法で行く松田らしくもない。
「そうだ。心理戦を挑む上で、俺は3つの核弾頭を用意した。3つ全部を使わないですむことを願ってるよ」
松田は人差し指を立て、左右にゆっくりと振る。
気取った仕草だが、松田がやると様になるものだ。
「まずは一つ目だ」
松田はそこで大きく間を空けた。もったいぶっているつもりだろう。
今は二人しかいない部室で、玉城がただただボクシンググローブを磨く音が続く。
「D組の黒井さんが、お前のことを好きらしい。今日のために入念にチェックした、確かな情報だ」
黒井さん。長い黒髪に切れ長の目をした女の子だ。男子内評価は決して低くない。
「ふーん」
しかし、玉城は生返事を返すのみだった。
「ふーん、てオイ!」
松田は玉城に大きくつめよった。
「お前今まで確か彼女いないんだろ!もっとこう、震えるもんは無いのかよ!」
松田の訴えかけるような言葉にも玉城は無反応を貫き、その手はボクシンググローブから離れない。
「ああ、そうか、分かったよ……じゃあ次の最終兵器、『挑発』を持ち出すしかねえな」
荒くなった息を落ち着け、松田が不敵な笑みと共に言った。
最終兵器がいくつもあってたまるか。
玉城はそう思いながらも、特に口出しはしない。
息を整えた松田からは、今までと雰囲気の違う冷酷な言葉が飛び出した。
「率直に言ってな、お前に将来性は無い。ボクシングだって随分練習してるけどよ、お前より強い奴はこの部ですらいくらでもいるぜ」
事実だった。真性のボクシング馬鹿と揶揄される玉城だが、実力は隔絶して高いわけではない。
同じ二年生でも玉城より強い男はいた。
さらに玉城は自身の体格とセンスの問題から、もうさほど伸び代が無いことを自覚している。
「家だって貧乏で、頭も良くない。これから大変だろうよ、俺なら自殺してるかもな」
事実だった。
玉城の家は貧乏だ。子供を大学に行かせる余裕など無く、また玉城自身の成績も良くない。
二年後にはどこかの工場で働くのだろうなと、玉城はぼんやりと考えていた。
その後も松田の辛らつな罵倒は続いた。
あくまでこれは遊びですよ、という体を装ってはいるが、その実言葉の棘は深く鋭い。
本音があからさまに漏れているのを感じながら、玉城は松田が何を必死になっているのか分からなかった。
堂々としていればいいのに、ここまでして松田が自分に噛み付く理由が見つからない。
持つものが持たざるものに必死に牙をむいている。
不思議な構図だった。
「それで」
松田の、挑発という名目で行われた言葉のリンチがひとしきり終わったところで、玉城は言った。
「それが俺とお前の試合に何の関係があるんだ」
これは強がりでもなんでもなく、玉城の本心だった。
僅かな静寂。松田は面食らったような顔をしている。
「ハッハッハッハ……」
松田は笑っていた。しかしそれはどこかひねり出すような、気圧される者の笑いでもあった。
「あー、分かった。ボクシングには関係ないか。まあそうだな、関係ないな。じゃあ最後の爆弾だ」
松田はそこで呼吸を整えた。
「俺の父親が会社役員ってのは知ってるよな」
玉城は頷いた。それも、名前を聞けば誰もが知っているような大会社だ。
「お前、大学行く気無いんだろ?試合でお前が負けたら、オヤジに紹介してやるよ。多分就職を世話してもらえるだろうな。もうオヤジにも話は通した」
松田は得意気な様子だ。心なしか先ほどより余裕が出てきている。
松田は軽く言っているが、大して偏差値も高くない高卒生を有名企業に就職させるのがそう簡単とは思えない。
松田の父親が松田に甘いという話は何度も聞いているが、それでもこのお願いには困惑したことだろう。
それを説き伏せてしまうほど松田が必死になったという訳で。
どれだけ松田が勝ちたいのか、その情念の強さを玉城はひしひしと感じた。
しかし、だからこそ分からない。
「松田。お前はボクシングで勝ちたいんだろ?」
「ああ、そうだよ」
他の種目なら全部勝ってるさ。そんな言葉を後に続けたそうだった。
「俺がわざと負けたとして、それはお前にとってボクシングなのか?」
松田は答えない。ただ、顔色がみるみる赤く変色し、少し息が荒くなっていた。
何が松田の余裕をここまで失わせているのか、玉城にはいまいちピンと来ない。
「ちゃんとしたところに就職したくないのか?ほら、給料だって結構もらえるはずだ。お母さんにも楽させてあげられるぞ?」
松田の、必死に感情を抑えてこちらを諭すような言葉。
玉城に父はいない。小さい頃に女を作って出て行ったっきりだ。
それ以来母子二人で必死に生きてきた。生にしがみついてきた。
大企業に入れば母には安心してもらえるだろう。
今まで苦労してきた分、余生を好きに楽しんでもらうことだって可能かもしれない。
だが。
「俺はボクシングをするためにここにいる」
ここではそれも関係なかった。
「ああ、分かった。よく分かったよ。今後の順風満帆な人生をドブに捨てたのはお前だ。お前の選択だからな、好きにするといいさ」
松田は両手を開いて玉城に言い放った。それはまるで、どうしても懐かない犬を叱るような態度に見える。
「お前はいつもそうだ。何故羨まない?何故そこまで堂々としていられる?お前は何も、何も持ってないってのに」
松田は大声でまくしたてる。
「持ってるお前が堂々としてから言ってくれ」
その言葉は、松田にとって冷然としたものに響いたかもしれない。
玉城からすれば、松田の言葉は矛盾の塊だった。
持つ者と持たない者をそれだけ区別したいなら、せめて持つ者らしく振舞ってほしい。
万事余裕を持って生きてきたと言わんばかりの松田の姿に、ある種の敬意を払っていた玉城としては困惑せざるをえない。
「さあ、スパーするんだろ」
玉城は磨き終わったグローブをはめると言った。
松田はわなわなと震えながらその言葉を聞く。
「絶対に俺が勝つぞ、松田。お前をぶっ倒して証明する」
「何を?」
「俺は誰も羨んでなんかいないってことをだ」
玉城は何も言い返さなかった。
◇◇◇◇◇
目に映るのは、白い天井。
リングに横たわっているのだからそれも当然だった。
「どういうことだ」
松田は勝ったというのに、怒りに顔をゆがませている。
念願の勝利だ、もっと誇ればいいのに。
「本気を出せよ。ここまで必死になった俺が哀れになったのか。なあ、玉城」
「本気だったよ」
クラクラする頭で玉城は答える。
「ただな、アレが効いたんだ」
「アレ?」
思い当たるものがないのだろう。松田はポカンとしていた。
「黒井さんが俺を好きとは思わなかった」
玉城の言葉に思考が追いつかないようで、松田は目を白黒させた。
「え、え、え? それ? よりにもよってそれかよ?」
「ボクシングに関係ないことは分かってたけど、どうしても頭から追い払えない」
あの長い黒髪が脳内にちらつくと、松田の大振りのパンチすら避けられない。
今回玉城が学んだことだ。
「言った時は無反応だったよな」
「硬まってただけだ」
前から悪くないなと思っていた女の子が自分に気がある、という人生初の体験に、脳の処理が追いつかなかった結果だった。
「何お前、黒井さん好きなの?」
今までと一転し、松田はニヤニヤしている。
「……ああいうちょっと冷たい感じの子、タイプなんだよ」
多少の照れが混じった玉城の言葉に、松田は笑い声を上げた。
鬱屈したところの無い、あっけらかんとした笑いだった。
今までの松田の、どこか作ったような笑い方ではない。
「そうかそうか。お前もやっぱり人間なんだな。ほら、いつまで倒れてるんだよ」
松田が手を差し伸べる。
玉城はその手をしっかりと掴み、身体を起こした。
「思ったより弱いんだな、俺は」
己の信条に、心が追いつききっていない。
その弱さが松田に内心を吐露させた。
「お互いに、だな」
松田に気負ったところは無い。
握った松田の手の平の温度は熱くも冷たくも無く、自分と同じぐらいだった。
そんなどうでもいいことが、何故か玉城の印象に強く残る。
「さ、後片付けだ。それが終わったらファミレスにでも行こうぜ」
松田は玉城の返事を聞かず、掃除道具を出し始めている。
特に反対するつもりも無い玉城は、無言でリングから降りた。
胸に残る、形容しづらい充実感を持て余しながら。