解放
…もう何日が経過したのだろう。消毒液の慣れない匂いと、狭く無機質な白い部屋に閉じ込められ、もう僕が誰で何のために生きているのかすら解らなくなってきた。
両親は心配しているのだろう、レイチェルの怪我は大丈夫だったのか、遺伝子工学の現場研修はどうなったのか…。そんな事すら考える事も無くなった。
栄養剤が入った袋からポタポタと水滴が落ちていく。その水滴が管を通って僕の右腕から血液に混ざっていく。
(生きている?生かされている?それとも…)
生きる価値すらも無くなった僕をこの世界が見放してしまった。そう思える程僕の精神は不安定になっていた。僕を助けると宣言したエドワードはあれから顔すら出していない。この部屋のどこかに存在しているカメラで、僕の事を哀れに思っているに違いない。
(もう誰を信用していいのかもわからない…)
バンッ
意識の外で何かが弾ける音がした。どうやら部屋の外からの衝撃音だ。何かがぶつかった音の様だった。
(なんだろう…騒がしな。ああ、もしかしたら、解放されるのかも知れない)
僕はずっと待っていた。この部屋のドアを開けてくれる誰かを。
生きている実感を感じさせて欲しい。もうこんな所に居るのは嫌だった。
(そうだ。きっとそうだ!きっと治療法がわかったんだ!これで外に出れる!!)
ぼやけていた視界が段々とハッキリしてきた。誰かの影が僕を見つめいる気がする。僕は助けを求める様に、その影に言葉を放とうとした。
「僕は…やっと…」
「どうなりたいんだ?」
意識がハッキリした瞬間に、僕が認識したのは、あのバスの運転手の男だった。 鋭い眼孔に、狂気地味た笑みを浮かべる口元。低く、腹の底にズシリとくる声色。
(知っている。忘れるものか。バスの運転手だった男だ。)
期待を裏切られ、絶望の象徴になりつつあった存在に僕は声にならない声を出していた。
「あ…んた…!」
男はベッドで寝たきりになった僕を覗き込む様に前のめりになり、ベッドのフレームに体重を乗せた両手をかけていた。
「お前はどうなりたかったんだ?」
男は何か嬉しそうに目を細めた。
「これがお前が望んだ人生だったか?絶望に満ちたこの白い部屋に閉じ籠もる事がお前の運命だったのか?」
言葉が放たれる度にベッドのフレームに体重がかかり、ギシ。ギシ。と音を出す。
「違…う!」
頭の中が真っ赤に染まり、腹の底から熱い何かが這い出そうとする。心臓の鼓動音がドンドン大きくなり、鼓動と同時に体内を巡り回る血液が沸騰する様に感じた。
「じゃあ何を望んだ!?お前が欲しているのは何なんだ!?」
ベッドに乗せた体重を一気に解き放ち今まで聞いた事の無い声量で男は吠えた。
僕はきっと解放されたかった。
理解すら出来ない異常な状況から。暖かくて安らぐ家族に会いたかった。この冷たい部屋で、何も出来ず、思考さえ停止させられ、時の流れも感じる事も出来ない牢獄。この牢獄から一刻も早く解放されたかったのだ。この時、どん底に突き落とされた僕はすべてを解放した。
「自由だ!!僕は自由なりたいんだ!!」
ブワッと世界が広がり、真っ赤に染まった頭の中は霧が晴れる様に鮮明になった。
「僕はこんな所にいたくない!!外に出してくれ!家族の、レイチェルの声を聞かせてくれ!僕を自由にしてくれー!!!」
自由。
誰かがいつの間にか用意した、運命という言葉よりも僕が望んだ言葉だった。