運転手の男
停車地点を示すバス停が視界に入り、降りる用意を始める。同じバス停で降りる他の人も少なからずいるみたいだ。レイチェルには何も言わず、僕は目線だけで挨拶して乗降口に向かった。
バスは左方向の指示器を点滅させながらバス停に寄り始める。だが、バスは減速ではなく、延びの良い加速を始めた。僕を降ろすはずだったバスは、停車場所であるはずの研究所前をバスは何事も無かったかの様に過ぎ去った。
僕はえ?っとなり、どんどん遠くなっていく研究所の白い建物を目で追いかけた。
僕を含めて、ざわっとするバスの乗客。レイチェルもキョトンとした顔で僕を見つめていた。無意識にレイチェルの顔を見てしまった僕はハッとなり、一体何が起きているのかわからず、僕はすぐ後ろで運転しているバスの運転手を見た。
バスの運転手は右手でハンドルを握り、左手は通信無線であろう機械をすでに叩き潰している。潰された無線を見た僕の目線が再び運転手に戻った時、運転手も僕の顔を目線だけで見ていた。
「ハローエミリオ君」
ニヤっと笑った運転手の一言を聞いた瞬間、バスが物凄い高い音を立てながら急停止をした。前のサスペンションが沈みきり、大きなバスの車体は数秒ほど前のめりになり、ガダン!と大きな音を立てて後輪を地面に叩きつけた。満席の乗客は体制を崩し、悲鳴を上げながら倒れこんだ。僕は無意識に乗降口にあった支えにしがみついて、転倒を防いでいた。
恐らくバスの運行を管理している会社が異変に気づき、バスを強制的に停車させたのだろう。後続車両も急にバスが止まったので、急ブレーキをしていた。今まで順調に進んでいたのに、1台のバスが予定外の停車をして静まり返る主要幹線。
若干の腕の痛みを覚えた僕は、ちらっと自分の腕を見て再び運転席に目線を変えた。 するとさっきまで運転席に座っていた男はいつの間にか僕の目の前に立っていた。長身の男は制服の帽子の影から見える鋭い眼光を僕の顔に向けていた。
「あんたは…!?」
眼光の威圧に押されたのか、思わず口走った僕は男の制服の襟を掴んで立ち上がった。ニヤっと笑った男の顔を見て若干の怒りを覚えた僕は「この…!」と声を発し痛めた右腕を振り上げ様とした。
だが、その時すでに男は僕の右腕を掴んでいた。男はゆっくりと口を開き「ハッピーハッピーバースディ」と一文字一文字を丁寧に発音する様に僕に囁く。その言葉の意味を考えようとした瞬間に、右腕に痛みが走った。
さっき転倒した時の打撲の痛みとは違う別種の痛覚。体の中に何かが侵入する、そう細い何かで刺された様な痛みだ。ビックリした僕は「うわあ!」と叫び、掴まれていた右腕を振り払い、乗降口のギリギリまで飛び下がった。
なにかの液体が入っていたらしい注射器の様な物を男は左手に持っていた。恐らくそれで右腕を刺されたのだろう。そしてその注射器に入っていた液体が僕の右腕の血管に注入された。
(一体何の薬だ?もしかして毒か?何が目的なんだ?)
声も出さずに顔だけ笑う不気味な男を見つめながら、僕は考えられるだけの可能性を必死に脳内に巡らせていた。
バスの中の乗客が必死にバスの外へ逃げようと騒ぎ出した。悲鳴をキッカケに我に返った僕はレイチェルをいたであろう位置に目を彼女の向けて名前を叫んだ。
レイチェルの返事がない。悲鳴に混ざって聞こえないのかも知れないと、僕は彼女の名前を何回も叫んだ。
「一体なんなんだ!あんたは!!!」
僕の父親と同じぐらいの中年の男性が、声を荒げて男に掴みかかった。その瞬間、乗降口のドアが開き、外の空気が車内に吹き込んだ。その空気を察した乗客は、雪崩の様に乗降口に向かう。流れに押されてしまい僕もバスの外に放り出された。 人の雪崩の中、僕は必死に降りてくる乗客の中にレイチェルの姿を探した。そして30人程の乗客がバスから出た瞬間、僕の知っている顔がバスの乗降口から出てきた。
どこか打ってしまったのか、苦痛の表情を浮かべバスを駆け降りたレイチェルを抱きしめ、「大丈夫か?どこか怪我したのか?」と彼女の体を見た。
「大丈夫、少しだけ腰を打っただけ」と返事をしたレイチェルを見て、ホッとした僕は運転手の男がいた運転席に目線をやった。
しかし、周囲に運転手の男の姿は無かった。赤いパトランプをクルクルと光らせ、自衛警察が次々にバスの周りを囲んだ。騒然とする主要幹線。先ほどまで順調に進んでいた人や車の経済の流れは完全に沈黙した。
この時、ノエルの完全平和の秩序が歴史上始めて乱されたのだった。
騒然とする片側2車線の見通しの良い道路に不作為にバスが停車し、その周囲を自衛警察の車と救急車が集まり始めた。一番先に到着した救急車から隊員が3人降り、その中の1人に大丈夫ですか?と声をかけられた僕はとっさに右腕を見た。
特に違和感の無いいつもの右腕注射を打たれたであろう箇所にも何も異常は無かった。
男が僕に打った謎の注射。彼が言った「ハッピーバースデイ」の意味。理解出来ない事が多すぎて、僕は考えるのを止めて救急隊員に事情を説明した。話を聞いた救急隊員は僕とレイチェルを救急車に案内し、近所の救急病院に移送した。
「エミリオ、あの人と何か話をしたの?」
レイチェルが不安そうな顔で僕の服の裾を掴んだ。
「意味が理解出来ない会話だったけどね」
僕は男の表情を思い出しながらレイチェルの不安を払拭しようと手を握り返した。
確実にターゲットは僕だったはずだ。あの謎の注射を僕に打つ為に、わざわざバスを乗っ取った。
あいつの目的はそれしか考えられない。
(なんで僕なんだ。僕に投与した薬品は何だったのか。)
僕の思考では結論に到達する事もできず、思わず拳を強く握っていた。それを見ていたレイチェルは少し不安そうになりながら、固く握った拳の上に優しく手を被せてくれた。
救急車が高い警音を響かせながら幹線道路を疾走する。無線では周囲の被害状況や搬送先の病院の状況などがやり取りされていた。
とにかく検査を受けよう。と僕は混乱した思考を一旦仕切り直す事にした。
本来の予定であった訓練はこれからどうなるんだろう、と不安を覚えながら救急車は近隣の緊急医療センターに向かった。
緊急車両と化した救急車は、硬直した主要幹線を我が物顔で疾走していく。前方の車が救急車が近づく度に中央線から離れ、堂々とその中央線の上を走り抜けていく。腰を強打したレイチェルは担架で横になり、僕はそのすぐ隣にあった座席に座っていた。
つい先ほど起きた有り得ない出来事の事を僕はひらすら考えていた。掌は汗で濡れ、目線の焦点すら合わない。遺伝子工学の問題でも、こんなに思考を巡らせた事はないだろう。
(運転手だった男が何故僕を襲ったのか、その理由ががわからない)
あの男は間違いなく僕をターゲットとしていた。わざわざバスを乗っ取り、訳の分からない注射を僕に使う為に。僕の体内に放たれた薬品はなんだ?何も解らないし、何も知らない僕を殺す必要があったのか?それとも無差別の犯行なのか?
だめだ理解が出来ない。一体何がどうなっているんだ!! 思考が限界を超え、喉の奥から何かが飛び出しそうになった。それと同時に、汗だくの拳に冷たい何かが包み込んだ。
レイチェルの手だった。
狂いそうになった僕の表情を怯えた顔で「エミリオ?大丈夫?」と弱々しく呟いた。
頭の中が一気に鮮明になり、僕は自分の脳が冷静に戻った事を理解した。
「大丈夫だよレイチェル、ごめんな」
いつもの顔に戻っていたのか、レイチェルは眉間を苦しそうに寄せながらも微笑してくれた。
そうだ。とりあえず生きている。
今から検査を受けて処置を施してもらえば良いんだ。遺伝子工学の発展で殆どの治療が可能になっている。何も心配する事はない。
僕はレイチェルの手を握り返し、自制心を取り戻す事に集中した。そして救急車両は医療センターの到着した。