完全平和の世界
小型端末のディスプレイに映し出された情報は、明日から始まる現場訓練の予定表だった。
午前9時までに訓練施設B館に出所。午前9時30分からプログラム言語の基礎知識講習が始まり、続いて次世代C言語の実習。
昼休憩を挟んで、午後1時から遺伝子工学の基礎知識講習。
午後3時から世界史の講義、午後5時30分にすべての訓練科目が終了し、帰宅。
夕飯のサラダを食べながら、きっちりと定められたタイムスケジュールに目を通し、その内容を頭に叩き込んだ僕は明日の起床時間を何時にするか考えていた。 程度の満腹感を感じながら、小型端末をポケットにしまい、台所に立つ母親へ目を向けた。
ごちそうさま、と母親に声をかけ、食器を台所に運んだ僕に母親はコクリと頷き、家族が食し終わった食器を洗い続けた。 ちらりと僕の顔を見て「明日寝坊したらダメだよ?今日は早く寝なさいね。」と釘を刺す様に母親はつぶやいた。体を自分の部屋に向けた僕は「わかってるよ。今日は明日の用意して寝る!」とだけ返事をした。
深々とソファに座っているのは父親で、無言でテレビの画面に見入っている。走査線に映っている映像は、派手な服装で綺麗な容姿をした女性2人が激しく踊って流行りの歌を歌っている。父親にそんな流行りのモノに興味があったのか、と意外に思いながら僕は自分の部屋に戻った。
僕の名前はエミリオ先月で18歳になる。生後調査された遺伝子情報から、「遺伝子研究とその実用化を進める役目」を与えられている。その将来の為に今はその専門訓練を受ける毎日を送っている。
明日から始まる、研究所での訓練に僕は期待と興奮を隠しきれなかった。何回も何回も明日のスケジュールを確認し、研究所に務める先輩達に聞くつもりの質問を確認していた。
僕に与えられた使命。この国の完全な平和を未来永劫に維持する為に与えられた素晴らしい天命だと、僕は自覚している。
とても素晴らしいじゃないか。国民すべてが安全に平和に豊かに暮らせる様に僕は努力する。生まれたその時から、神様は僕をそんな風に作ったのだから。
充実している。何も不満なんて無い。みんなそうだ。この世に生まれた瞬間に、自分の役割が決まっている。そしてそれが「運命」や「使命」という言葉になりみんながそれらを「誇り」としている。
将来の不安、他人との能力差からの嫉妬、主張の相違…この世界にはそんなモノはない。効率良く進む社会の流れは、全ての人々に幸せを、永久の平和を約束しているだ。
午前7時ちょうどにアラームの高い音が部屋を満たした。
かなりの眠気を感じながら、僕は布団から抜け出し朝の支度を始めた。母親に早く寝ろと釘を刺されていたのだが、結局遺伝子工学の教本を読み漁ってしまい予定より3時間も睡眠時間がなくなってしまった。リビングに行くと、すでに父親は作業着に着替え出発の準備をしている。父親の仕事は物流経済の管理者で、システム化された物の流れを管理し、イレギュラーがあれば用意されたパターンから的確な指示を与え、物流の流れを常に効率良く動かしていくのが仕事だ。
父親も出生した時の遺伝子解析により、幼少から物流経済の訓練を受け20年間職務を務めている。母親とはその訓練施設で知り合ったらしいが、詳しい事は知らない。
ただ、僕が生まれて遺伝子解析から技術者の天命を与えられた時は大喜びしていたらしい。
「世界平和の継続に直接携わる大事な天命」だと。
身支度を済ませた僕は、母親が毎日焼いてくれるこんがり焼いた食パンとホットコーヒーが置かれたテーブルについた。
「いってきます!」
支度が出来た父親はいつもの時間に玄関を出た。一言だけ僕に、頑張ってこい。と言ってくれた。
今日から本格的な訓練が始まる。実際に技術研究所に出所し、現場の仕事を見ながら学ぶ訓練。僕が生まれた時に決まっていた運命の役目だ。 すこし気合を入れる為に、苦いコーヒーを一気に飲み干した僕は、父親の後を追う様に玄関を飛び出した。
希望と期待を体全体で感じながら、僕は研究所に向かうバスに飛び乗った。
研究施設に向かうバスの中で、聞きなれた声が聞こえてきた。
「エミリオおはよう!」
僕と同じぐらいの背丈で型まで伸びたサラサラの黒い髪、細いラインでスタイルの良い体は同年代の異
性なら目を向けてしまうだろう。
「おはようレイチェル。今日も素敵な営業スマイルだね。」
彼女の顔も見ず返答した僕を見て、レイチェルは不機嫌そうに「相変わらず無愛想ね」と返した。
横で同じスピードで並走しているトラックを見ながら
「今日から現場訓練が始まるのか?」と場繋ぎ的に質問した。
「そうよ。今日から!女性衣料品の接客販売訓練なの。ほんとに楽しみだわ!私の天命だもの!」と嬉し
そうにはしゃぐレイチェルを見て、少し口角を上げてしまった。
「カズマって車の整備実習終わったのか?あいつこないだの訓練でミスやったらしくて、ひどく落ち込んでたぞ」
僕が珍しく話題を振ったのが嬉しかったらしく、狭い車内で体ごと近づいてきたレイチェルは「大丈夫でしょ!1回の失敗ぐらいでヘコたれるヤツじゃないわよ!」と活発な声を発した。
それもそうだ。と声も出さずに思った僕は再び窓の外を見た。さっきまで並走していたトラックは左折し、目的地に向かっていった。その後ろを走っていた乗用車が僕の乗っているバスを追い越していった。
世界は非常に安定している。なんの無駄もなく、動く世界。街を歩く人も車も、すでに決められてる運命を全うするために動き続けている。
次の信号を過ぎれば、僕がこれから通う事になる研究所がある。白くて立派な15階建てのビルだ。ビルが見えてきたのを確認して僕はくっついていたレイチェルを押す様に引き離した。
少し寂しそうにしていたレイチェルを見て「まぁ頑張れよ」と一声かけ、うん!と嬉しそうに返事をしたレイチェルを見て僕は乗降口に向かった。 ゆっくりと減速したバスは停車位置に向かった。