第6話「お姫様の危険な遊戯」
店が軌道に乗り始めた頃、一通の招待状が届いた。
差出人はイリシアーナ姫。場所は王宮の庭園。名目は「今後のビジネスについての商談」となっていたが、封蝋には王家の紋章が押されており、拒否権がないことは明白だった。
「……気が重い」
「シャキッとしろ。俺たちの最大のパトロンだぞ」
セドは鏡の前で入念にネクタイを直している。今日も完璧な着こなしだ。私はと言えば、夜会用に作ったドレスを引っ張り出し、慣れない化粧に悪戦苦闘していた。
* * *
王宮の庭園は、この世の楽園のようだった。
色とりどりの花が咲き乱れ、噴水が涼しげな音を立てている。その中央にあるガゼボ(東屋)で、イリシアーナ姫は優雅に紅茶を飲んでいた。
「よく来てくれたわね。座って」
姫は従者を下がらせ、私たち二人だけを席に着かせた。
テーブルには見たこともないような高級なお菓子が並んでいるが、喉を通りそうにない。
「まずは、開店おめでとう。評判は聞いているわ。庶民の間でも人気だそうね」
「ありがとうございます。姫のおかげです」
セドが模範的な回答をする。
姫は赤い瞳で私たちをじっと見つめた。
「仕事ぶりは完璧よ。でも……私が気になっているのは、もう一つの条件の方」
「もう一つの……?」
「夫婦仲よ」
姫はカップを置き、身を乗り出した。
「あなたたち、ビジネスパートナーとしては優秀だけど、夫婦としてはどうなのかしら? 夜会では踊っていたけれど、それ以来、浮いた話の一つも聞こえてこないわ」
ギクリとした。
私たちは顔を見合わせた。
「そ、それは……仕事が忙しくて……」
「あら、言い訳? 新婚さんなのに?」
姫は意地悪く微笑んだ。
「証明してごらんなさい。今ここで、誓いのキスを」
時が止まった。
噴水の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……えっ?」
「聞こえなかった? キスよ。夫婦なら当然でしょ? 挨拶みたいなものじゃない」
姫は楽しそうに頬杖をついている。
私は顔から火が出そうだった。セドも固まっている。
ここでキス? セドと? 無理無理無理!
「あ、あの、姫……! そ、そんな人前で……!」
「……」
セドも言葉を失っている。
私たちの動揺を見て、姫は「ぷっ」と吹き出した。
「へぇ、可愛い。エルさん、キスしたことないんだ?」
図星だった。
私は言葉に詰まり、さらに赤くなった。
「なっ……!」
「ふふ、冗談よ。無理しなくていいわ」
姫はクスクスと笑い、そして片目を閉じてウィンクしてみせた。
「でもね、キスぐらいは偽装でもしないとね! バレちゃうわよ?」
心臓が止まるかと思った。
バレてる? いや、カマをかけているだけ?
姫は急に真面目な顔になった。
「私がなぜ『夫婦』で来るように言ったか分かる?」
「……信用問題、ですよね?」
セドが慎重に答える。
姫は首を横に振った。
「それもあるけど、もっと切実な理由よ。継ぐ者がいないと困るから」
「……はい?」
「私はね、あなたたちの才能を愛しているの。だからこそ、それが一代限りで終わるのが耐えられない。あなたたちの血と才能を引いた子供が、次の世代の王家を飾る……素敵だと思わない?」
姫はうっとりとした表情で語った。
「だから、仲良くしてね? 期待してるわよ、次世代を」
私は思わず裏返った声を出してしまった。
「じ、次世代ぃ!?」
「そうよ! 分かるでしょ! だから!」
姫はまたクスクスと笑った。
「だから(頑張ってね)」という無言の圧力が、笑顔の裏に見え隠れしている。
* * *
解放された私たちは、帰りの馬車の中で死んだようにぐったりしていた。
「……聞いたか。『次世代』だとさ」
セドが疲れた声で呟く。
「……気が早すぎるのよ! ていうか、あの人どこまで本気なの……」
「全部だろ。あの姫は、欲しいものは絶対に手に入れるタイプだ」
私たちは深いため息をついた。
偽装結婚のハードルが、また一つ上がってしまった気がする。
「キスぐらいはしないと」。姫の言葉が、呪いのように頭の中でリフレインしていた。
* * *
その夜の食卓は、妙に静かだった。
リアが作ってくれたシチューは美味しいのに、私とセドは黙々とスプーンを動かすだけだ。姫の言葉がまだ尾を引いている。
そんな空気を察したのか、リアが心配そうに私を見つめてきた。
「……ねぇ」
「ん? どうしたの、リア」
「あのさ……」
リアはスプーンを置き、上目遣いで言った。
「エルお姉ちゃんは、お兄ちゃんのこと嫌いなのかなぁ?」
ブッ!
セドがシチューを吹き出しそうになり、私はスプーンを取り落とした。カチャン、と陶器の音が響く。
「な、何言ってるのリア! 嫌いなわけないでしょ!?」
「本当? だって、お家でも全然イチャイチャしないし……。お兄ちゃんのこと、男の人として見てないのかなって」
リアの瞳は純粋無垢そのものだ。だからこそ、言葉の刃が鋭く刺さる。
私は狼狽えた。
「そ、それは……その……」
「俺たちはな、精神的な繋がりを重視してるんだよ! ベタベタするのが愛じゃない!」
セドが必死にフォロー(?)を入れるが、リアはため息をついた。
「はぁ……。あのさぁ」
リアは呆れたようにスプーンを置いた。
「偽装なのは分かるよ? 私だって協力してるし」
「えっ」
「でもさ、お兄ちゃんもエルお姉ちゃんも、それじゃあ誰でも偽装って見抜かれちゃうよ?」
リアはビシッと指を立てた。
「距離感がおかしいの! 目が合ったらすぐ逸らすし、隣に座っても微妙に隙間空いてるし! そんなんじゃ、姫様どころか近所のおばちゃんにもバレバレだよ!」
私とセドは言葉を失った。正論すぎて反論できない。
「もっとこう、自然に! スキンシップ! はい、手繋いで!」
「はあ!?」
「練習あるのみ! ほら!」
リアに急かされ、私たちは食卓の下で恐る恐る手を繋いだ。
セドの手は熱くて、私の手は冷たかった。
リアは満足げに頷き、またシチューを食べ始めた。
「……頑張ってね、二人とも。私のために」
その言葉は、応援なのか脅しなのか。
姫様といい、リアといい、周りの女性陣が強すぎる。私は繋がれた手から伝わる熱にドキドキしながら、ガックリと項垂れた。




