第5話「歌うダメ男と、出世払いのコート」
夜会の翌朝。
私はガンガンする頭を抱えて起きた。昨夜、緊張の糸が切れて、セドと二人で祝い酒を飲みすぎたせいだ。窓から差し込む朝日が、網膜に突き刺さるように痛い。
「うぅ……気持ち悪い……」
「だらしないわねぇ、新婚さん?」
リアが呆れた顔で水を差し出してくれる。彼女は早起きして、すでに朝食の準備を終えていた。エプロン姿が板についている。
「ほら、シャキッとして! 今日からお店オープンだよ!」
「……はい」
私は水を一気に飲み干し、重い体を起こした。
隣の部屋からは、セドの「うおぉ……頭割れる……」という呻き声が聞こえてくる。前途多難だ。
* * *
店を開けたものの、客足は鈍かった。
夜会での評判は良かったはずだが、貴族たちは「様子見」をしているらしい。ボロ屋敷だった場所がいきなり店になったのだから、警戒するのも無理はない。
店内には、セドが作った一点物のドレスと、私が作った実用的なシャツが並んでいるが、誰も手に取る人はいない。
「チッ……。俺のデザインが理解できないのか、王都の連中は」
セドはカウンターで頬杖をつき、不機嫌そうに通りを眺めている。二日酔いのせいか、いつもより顔色が悪い。
「焦らないの。まだ初日よ」
「初日が大事なんだよ! スタートダッシュで躓いたら……ん?」
セドが眉をひそめた。
店の前に、薄汚れた男が座り込んでいる。ボサボサの金髪に無精髭、着ているコートはボロボロで、背中には古びたリュートを背負っている。まるで大きなゴミ袋が落ちているようだ。
「なんだあの汚い男は。店の前で寝るな! 営業妨害だ!」
セドが追い払おうとドアを勢いよく開けた。
すると男は、パチリと目を開け、セドを見上げてニカっと笑った。琥珀色の瞳が、妙に人懐っこい。
「おっ、イケメン店主のお出ましだ。……へへっ、腹減ったなぁ」
「は? 知るか。他を当たれ」
セドが冷たく言い放つと、男はいきなりリュートを構え、ジャラ〜ン♪ と弦を鳴らした。
「♪〜 はじめましての イケメン兄ちゃん
眉間のシワが もったいないぜ
腹が減っては 笑顔も出ない
パンをくれれば 世界は平和〜 ♪」
朗々とした、無駄にいい声だった。朝の商店街に響き渡るバリトンボイス。
セドは顔を引きつらせた。
「……なんだこのナルシスト男は。俺以上の逸材か?」
「褒めてないからね」
私は呆れて店から出た。
そして、男の顔を見て驚いた。
「……バルド?」
男――バルドは、私を見て目を丸くした。
「おっ! エルちゃんじゃん! 王都に来たって噂、マジだったのか!」
「知り合いか?」
セドが嫌そうな顔で聞く。まるで汚物を見るような目だ。
「……ええ。田舎の店での常連よ。つけ払い常習犯の」
「最悪じゃねえか。塩撒けリア」
「はーい!」
リアが塩の瓶を持って走ってくる。
バルドは慌てて手を合わせた。
「待って待って! 今日は客として来たんだよ! ほら、これ!」
バルドは着ているコートの裾を見せた。大きく裂けて、中の綿が飛び出している。あちこちに継ぎ接ぎがあり、もはや元の色がわからないほどだ。
「昨日、野宿してたら野良犬に噛まれてさぁ。直してくんない? エルちゃんの腕なら一発だろ?」
「……お代は?」
「もちろん、出世払いで!」
バルドは親指を立ててウィンクした。
セドがこめかみを押さえる。
「帰れ。二度と来るな」
「まあまあ、そう言わずに! 俺がビッグになったら、倍にして払うからさ!」
私はため息をついた。
この男、どうしようもないダメ人間だけど、悪い人じゃないのだ。それに……。
「……はぁ。貸して。どうせまた、寒くて震えてるんでしょ」
「へへっ、さすがエルちゃん! 女神様!」
私はバルドからコートを受け取った。ずっしりと重く、埃とタバコの匂いがした。
セドが不満げに私を見る。
「甘やかすなよ。そんな金にならない仕事……」
「服がないと困るでしょ。それに、この人の歌は本物だから」
* * *
私はミシンを走らせた。
ただ裂け目を縫うだけじゃない。野宿が多い彼のために、裏地に保温性の高い端切れを足し、ポケットには小銭が落ちないようフラップ(蓋)を付けた。楽器を背負う肩の部分には、クッション材も入れておく。
私の手は、ドレスを作る時よりも生き生きと動いていたかもしれない。こういう「生活のための工夫」こそが、私の得意分野なのだ。
「はい、できたわよ」
「うおー! すげえ! 新品よりあったけえ!」
コートを羽織ったバルドは、子供のようにはしゃいだ。
「やっぱエルちゃんの服は最高だぜ! 守られてるって感じがする!」
「おだてても何も出ないわよ。……ほら、パン。これ食べてどっか行きなさい」
「ありがてぇ!」
バルドはパンを齧りながら、店の前の通りへ出た。
そして、深呼吸を一つすると、リュートを掻き鳴らした。
「♪〜 冷たい風も 怖くはないさ
魔法のコートが 俺を守る
王都の片隅 小さな店に
愛と奇跡の 仕立て屋がいる〜 ♪」
先ほどのふざけた歌とは違う。
魂を揺さぶるような、力強く、優しい歌声。
道行く人々が、一人、また一人と足を止める。買い物かごを持った主婦も、急ぎ足の商人も、その歌声に引き寄せられるように立ち止まった。
「なんだ? すごい歌声だぞ」
「あの店のこと歌ってるのか?」
あっという間に人だかりができた。
歌い終えたバルドは、集まった人々にニカっと笑いかけた。
「へへっ、どうだい? このコート、最高だろ? そこの『セド&エル』って店で作ってもらったんだぜ! 腕は確かだ、俺が保証する!」
拍手が起こる。
その時、リアが店から飛び出してきた。
「すごーい! お兄さん、歌うまいね!」
リアは目をキラキラさせてバルドを見上げている。
「いいなー、綺麗な声! 私にも教えて!」
「おっ、お嬢ちゃん、見る目あるねぇ!」
バルドはしゃがみ込み、リアの目線に合わせた。
「いいかい? 歌っていうのは、喉で歌うんじゃない。ここ、ハートで歌うんだ」
「ハート?」
「そう。誰かに届けたいって気持ちがあれば、声は自然と響くのさ。……ほら、やってみな」
バルドがリュートをポロンと鳴らす。
リアがおっかなびっくり声を出すと、バルドは優しくハモってくれた。短い即興のデュエット。
周囲から「可愛いわねぇ」と歓声が上がる。
「へへっ、筋がいいぜ! 将来は歌姫になれるかもな!」
「えへへ、やったぁ!」
その流れで、数人の客が店に入ってきた。
「あの、ちょっとズボンの裾直しをお願いしたいんだけど……」
「子供の服が破れちゃって……」
セドは呆然としていたが、すぐに「いらっしゃいませ」と(少し引きつった笑顔で)対応を始めた。
バルドは私に向かって手を振った。
「へへっ、これでチャラな! ビッグになったら、約束通り倍にして払いに来るからよ!」
そう言って、彼は風のように去っていった。
「……まあ、宣伝費と考えれば安いもんか」
セドがボソッと言った。
私は苦笑いしながら、最初のお客さんの採寸を始めた。
王都で私たちはこうして一歩ずつ経営を進めていった。
庶民の普段着の修繕をもして。




