第28話「眠れぬ朝と、火の谷の結婚式」
翌朝の食堂は、地獄のような空気だった。
私とセドは、死んだ魚のような目でコーヒーを啜っていた。
目の下にはくっきりとクマができ、肌はカサカサ。全身が鉛のように重い。
理由は明白だ。一睡もできなかったからだ。
隣の部屋からの「熱唱」と、それを意識しすぎてしまった緊張感のせいで、私たちは朝まで天井の木目を数え続けていた。
「……おはよう、二人とも!」
そこへ、太陽のように眩しい笑顔でルネが現れた。
肌はツヤツヤ、髪もサラサラ。生命力に満ち溢れている。
後ろから来たバルドも、気だるげだが満足そうな表情を浮かべている。
「よう。……随分とお疲れのようだな」
バルドがニヤリと笑い、無言で親指を立てた。
グッ。
そのサムズアップの意味を理解した瞬間、セドが持っていたフォークをへし折りそうになった。
「……誰のせいだと」
「まあまあ。お互い様だろ?」
お互い様じゃない。
私たちは被害者だ。
しかし、ルネは私の隣に座ると、またしても小声で囁いてきた。
「……ねえ、エル」
「……なによ」
「すごいね!」
「……何が?」
「だって、全く気配を感じなかったから」
ルネは目を輝かせている。
「あんなに疲れてるのに、音一つ立てないなんて……。やっぱり『無音の境地』なのね! プロの技だわ!」
……違う。
気配がなかったのは、何もしてないからだ。
音を立てなかったのは、息を殺して耐えていたからだ。
私は心の中で絶叫した。
もういい。誤解されたままでいい。これ以上説明する気力もない。
「……さっさと行こう。式に遅れる」
セドが逃げるように席を立った。
私たちは逃げるように宿を出て、馬車に乗り込んだ。
***
数時間後。
私たちは「火の谷」に到着した。
そこは、活火山の麓にある盆地だった。
あちこちから白い蒸気が吹き出し、地面からは熱気が立ち上っている。
街全体が巨大な工房のようだ。カンカンと鉄を打つ音、ガラスを吹く職人たちの掛け声。
バルドの故郷らしい、熱くて賑やかな場所だった。
「おかえり、バルド!」
「よく帰ったな、この放蕩息子!」
街の人々は、バルドを温かく、そして手荒く歓迎した。
彼が愛されていることがよく分かる。
そして、そのまま私たちは街の中央広場へと連れて行かれた。
そこには、巨大な祭壇が組まれていた。
「さあ、式の始まりだ!」
火の谷の結婚式は、特殊だった。
神父もいなければ、誓いのキスもない。
あるのは、炎だけだ。
祭壇の中央には、消えることのない「聖火」が燃えている。
新郎新婦は、それぞれの松明に火を移し、それを合わせて一つの大きな炎にする。
二つの人生が一つになり、より大きな熱を生むという象徴だ。
ルネとバルドが祭壇に立つ。
ルネは純白のドレス(もちろん耐火素材)を着て、バルドは正装のタキシードを着ている。
普段はふざけているバルドの表情が、今は真剣そのものだった。
「……ルネ」
バルドが松明を掲げる。
「俺は、お前の研究も、変な癖も、全部ひっくるめて愛してる。……俺の炎で、お前の人生を照らし続けると誓う」
「……バルド」
ルネの目から涙が溢れる。
「私も……あなたの歌も、炎も、全部大好き。……一生、あなたの隣で実験し続けるわ」
二人の松明が合わさる。
ボウッ! と炎が大きく燃え上がった。
広場中から歓声が上がる。
熱い。
炎の熱さだけじゃない。二人の想いの熱量が、ここまで伝わってくるようだ。
私はその光景を、眩しいものを見るように見つめていた。
本物の夫婦。本物の愛。
何の偽りもなく、堂々と愛を誓い合う姿。
ふと、隣を見た。
セドもまた、真剣な眼差しで二人を見つめていた。
その横顔を見て、胸がチクリと痛んだ。
私たちは、どうなんだろう。
偽装結婚。契約関係。
でも、昨日の夜、背中越しに感じた体温は、確かにそこにあった。
もし、私たちが本当の夫婦になったら。
あんな風に、堂々と誓い合える日が来るのだろうか。
「……綺麗だな」
セドがポツリと言った。
それが炎のことなのか、ルネたちのことなのか、それとも別の何かなのかは分からなかった。
私はただ、小さく頷いた。
「……うん。すごく、綺麗」
炎の向こうで、ルネとバルドが幸せそうに笑っていた。
その笑顔が、私には少しだけ遠く感じられた。




