第22話「吟遊詩人の恋煩いと、迷える相談役」
路地裏にあるバー「黒猫の尻尾」は、まだ開店準備の最中だった。
重たい木の扉を開けると、カランと乾いたベルの音が鳴る。店内は薄暗く、カウンターの隅でオイルランプが揺れていた。安酒特有のツンとした匂いと、染み付いたタバコの煙の匂いが鼻をくすぐる。
客はまだいない。
ただ一人、ステージ代わりの高いスツールに腰掛け、リュートを爪弾く男を除いては。
「……よう、エルか」
バルドは顔も上げずに言った。
その指先から紡がれる音色は、いつもの陽気な酒場の曲ではなく、どこか物憂げで、切ないバラードだった。
「珍しいわね、開店前から練習なんて」
「練習じゃねえよ。……黄昏れてんだ」
バルドは深いため息をつき、リュートを膝に置いた。
その表情は深刻そのものだ。無精髭の生えた顎をさすり、琥珀色の瞳が虚空を彷徨っている。
私は近くの椅子を引き、腰を下ろした。
「何かあったの? 借金取り?」
「違げえよ。……なあ、エル」
バルドが急に身を乗り出してきた。
「ちょっと聞きてえことがあるんだが。……女ってのは、どういう時に運命を感じるのかな?」
私は瞬きをした。
今、なんて?
「……は? 運命って、恋愛的な?」
「それ以外に何がある」
「あんたが? 誰に?」
「……ルネだよ」
バルドはバツが悪そうに視線を逸らした。
ルネ。私の親友であり、研究一筋の錬金術師。
確かに、最近の二人はよく一緒にいる。バルドの火炎魔法をルネが研究し、ルネの実験にバルドが付き合う。傍から見ればいいコンビだが、まさかバルドの方が本気だったとは。
「へえ……意外。あんた、もっとこう、来るもの拒まず去るもの追わずなタイプかと思ってた」
「俺だって男だぞ。惚れた女くらい落としたい。……だがな」
バルドは頭を抱えた。
「あいつ、ガードが堅すぎるんだよ」
「ガード? ルネが?」
「物理的な意味じゃねえぞ。……鈍感なんだよ! 俺がムード作って口説いても、『心拍数が上がってるわ! 興奮状態のデータが取れる!』とか言って、脈拍測り出すんだぞ!? 俺は実験動物か!」
想像してしまい、吹き出しそうになるのを堪える。
確かに、ルネならやりかねない。
「で、どうすりゃいい? お前、女だろ? なんかいい手ねえのかよ」
すがるような目で見つめられ、私は思わず苦笑した。
「……それ、私に聞きますか?」
私は自分の胸に手を当てた。
色気なし、彼氏なし(偽装夫あり)、仕事一筋の仕立て屋。
「人選ミスもいいとこよ。私だって恋愛なんてさっぱりなんだから。……セドとのことも、未だによく分かってないし」
「いや、だからこそ聞いてんだよ」
バルドは真顔で言った。
「お前とルネは似てる」
「……はあ?」
「職人気質で、仕事のことになると周りが見えなくなる。色恋沙汰には疎くて、自分の感情にも鈍感だ。……だが、一度信頼した相手には、とことん誠実だろ?」
私は言葉に詰まった。
似ている、と言われたことはなかった。ルネは天才肌の研究者で、私は地味な職人だと思っていたから。
でも、言われてみればそうかもしれない。私たちにとって、仕事は人生そのものだ。恋愛という不確定な要素が入る隙間がないほどに。
「……よく見てるのね」
「伊達に吟遊詩人やってねえからな。……で? お前みたいな『仕事人間』を落とすには、どうすりゃいい?」
バルドの目は真剣だった。
ただの遊びじゃない。彼は本気で、ルネという一人の人間を理解しようとしている。
私は少し考えて、正直な気持ちを口にした。
「……そうね。私だったら……口説き文句よりも、仕事を認められた時の方が嬉しいかな」
「仕事を?」
「うん。『好きだ』って言われるより、『お前の作った服は最高だ』って言われる方が、心に響く。……自分の核になる部分を理解して、尊重してくれる人。そういう人が相手なら、背中を預けてもいいかなって思う」
バルドは黙って聞いていた。
やがて、ニヤリと口角を上げた。
「なるほどな。……花束より、リスペクトか」
バルドは納得したように頷きかけ――そして、急に顔をしかめた。
「……って、おい。それじゃあ『仕事仲間』止まりじゃねえか?」
「え?」
「俺はな、男として意識されたいんだよ! 『頼りになる相棒』じゃなくて、『抱かれたい男』になりてえの!」
「……あんたねぇ。高望みしすぎ」
私は呆れてため息をついた。
「まずは『相棒』として最高ランクにならなきゃ、その先もないでしょ? ルネみたいなタイプは特に」
「……うぐっ。正論すぎて腹が立つ」
バルドは渋々といった様子で頭を掻いたが、すぐに探るような目で私を見た。
「……じゃあ聞くがよ、お前はセドを『男』として見たことねえのか?」
「えっ?」
痛いところを突かれた。私は視線を泳がせた。
「な、ないわよそんなの。あいつはただの幼なじみで、商売敵で……」
「嘘つけ。一回くらいあんだろ? ドキッとしたことが」
バルドの追求に、私は観念した。
「……まあ、なくは、ないけど」
「ほう? どんな時だ?」
「……あいつ、最初のウェディングドレスを私に頼んだ時、私のサイズで作ったのよ。『お前なら着れるだろ』って」
「うわ、デリカシーねえな」
「でしょ? 腹が立ったわ。でも……」
私は無意識に、自分の指先を見つめた。
「私の体のこと、一番知ってるんだなって思ったら……その、ちょっとだけ。意識は、したかもね。男として」
言ってから、顔が熱くなるのを感じた。
バルドはニヤリと笑った。
「なるほどな。『お前しかいない』っていう特別感、あるいは強引さ……か。参考になるぜ」
バルドは笑い、リュートを構え直した。その音色は、先ほどよりも力強く、明るいものに変わっていた。
「……で? お前がここに来たってことは、なんか用があるんだろ?」
「あ、そうだった」
私は本来の目的を思い出した。
「王宮で仕事があるの。……火を吹いてほしいんだけど」
「王宮で火遊びか? 物騒だな」
「私たちの作ったドレスの性能を、アーロン王子に見せつけるためのショーよ。……ルネが作った『燃えない布』の凄さを、証明してほしいの」
バルドの手が止まった。
彼は少しの間、目を閉じ――そして、ギラリと光る瞳を開けた。
「……ルネの作った布、か」
「ええ。彼女の最高傑作よ」
「そいつはいい。……最高の舞台じゃねえか」
バルドは立ち上がり、帽子を被り直した。
「引き受けるぜ。俺の炎と歌で、そのドレスを世界一輝かせてやる。……ルネの偉業を、王宮の連中に見せつけてやるよ」
それは、彼なりの求愛だった。
言葉ではなく、行動で。彼女の仕事を、誰よりも輝かせることで示す愛。
私は思わず笑みがこぼれた。
「……かっこいいじゃない」
「へっ、惚れるなよ? 俺の心はルネ一筋だからな」
「はいはい。……じゃあ、行きましょうか。セドが待ってるわ」
私が歩き出そうとすると、バルドが呼び止めた。
「……なあ、エル」
「ん?」
「ルネも、誘っていいよな? ……あいつの作った布の晴れ舞台だ。見せてやりてえ」
その言葉の裏にある、「俺のかっこいい姿を見てほしい」という本音。
私はクスリと笑った。
「もちろん。彼女がいなきゃ始まらないわ」
「へへっ、サンキュ」
私たちは店を出た。
路地裏の風は冷たかったが、バルドの横顔は熱を帯びていた。
明日の王宮は、きっと騒がしくなる。
恋する吟遊詩人の炎は、誰にも止められないだろうから。




