第2話「王都への旅立ちと、最初の試練」
翌日の店内は、まるで嵐が過ぎ去った後のようだった。
いや、正確にはこれから嵐に向かう船の中と言うべきか。私はダンボールに布や道具を詰め込みながら、深いため息をついた。
使い慣れたミシン、色とりどりの糸、そして父の代から使っている裁ち鋏。それらを一つ一つ丁寧に梱包していくたびに、胸の奥に重たい鉛が溜まっていくような感覚に襲われる。
勢いで「結婚する」なんて言ってしまったけれど、本当にこれでよかったのだろうか。
大家からは逃げられた。でも、その代償として、もっと大きな嘘をつくことになってしまった。王都で、セドと、夫婦のフリをするなんて。
私は自分の左手を見た。薬指には、セドが「とりあえずの証拠だ」と言って渡してきた、安物の真鍮の指輪が嵌まっている。サイズが少し大きくて、気を抜くと抜け落ちそうだ。
バンッ! と勢いよくドアが開いた。
飛び込んできたのは、春風のような少女だった。
「エルお姉ちゃん! おめでとうー!!」
「うわっ、リア!?」
セドの妹、リアだ。
兄と同じ黒髪だが、彼女の髪色はもっと明るく、陽の光を浴びてキラキラと輝いている。今日はそれを高い位置でツインテールにし、ピンクのリボンで結んでいた。フリルのついた可愛らしいワンピースは、以前セドが試作品として作ったものだ。
リアは私の腰に抱きつくと、くりっとした大きな瞳で見上げてきた。
「エルお姉ちゃん! 久しぶりー!!」
そして、そのまま店の奥にいるセドに向かって叫んだ。
「ねぇねぇ兄貴ー! 王都行くためのお嫁さん決まったぁ? ……って、え? エルさん!?」
リアは私と、後ろから入ってきたセドを交互に見て、目を丸くした。
「意外! だって兄貴、『あいつだけはない』って言ってたじゃん! 『色気もねえし、口うるさいし、ただの腐れ縁だ』って!」
その言葉に、私のこめかみがピクリと反応する。
セドの方を見ると、彼は明らかに動揺していた。整った顔を引きつらせ、視線を泳がせている。
「お、おいリア! 余計なこと言うな! それは……その、昔の話だ!」
「へえ……。『あいつだけはない』ねぇ」
私はジト目で彼を睨んだ。緑色の瞳が冷たく光る。
「色気がなくて悪かったわね」
「……今は違う」
セドは咳払いを一つすると、急に澄ました顔を作った。襟元を正し、まるで舞台俳優のような仕草で私に向き直る。
「彼女は、俺の夢を叶えるための……最高のビジネスパートナーです。なぁ、エル様!」
そう言って、私の手を取り、恭しくお辞儀をした。彼の手のひらは少し汗ばんでいて、それが余計に私の神経を逆撫でした。
背筋にゾワリと鳥肌が立つ。
「……うわ、何そのキャラ。気持ち悪いからやめて」
「あはは! お兄ちゃん、尻に敷かれてるー!」
リアはひとしきり笑った後、急に声を潜めて、ニヤリと笑った。小悪魔のような表情だ。
「……で? 本当は『王都に行くための数合わせ』ってとこでしょ?」
私はドキリとした。心臓が跳ねる。
しかし、セドは動じることなく、ふん、と鼻を鳴らした。
「バレたか。さすがリアだ」
「当たり前じゃん! 兄貴が急に恋愛結婚なんてするわけないし。……ま、利害の一致ってやつ?」
リアは私の顔を覗き込み、ウィンクしてみせた。
「でもまあ、あんな偏屈な人の奥さん役なんて、エルお姉ちゃんしか務まらないもんね! 偽装でもなんでも、エルお姉ちゃんが家族になるのは嬉しいよ」
リアは私の手を握り直した。その手は温かく、そして頼もしかった。
「王都に行っても、お兄ちゃんのことよろしくね。あの人、服のことになると周りが見えなくなるから」
「……うん。任せて」
私は安堵のため息をついた。
リアは全部お見通しだったのだ。純粋な子供だと思っていたけれど、この兄妹には敵わない。私は苦笑いしながら、彼女の頭を撫でた。
* * *
数日後、私たちは王都へ向かう馬車に揺られていた。
荷台には二人の商売道具が満載だ。客席には私とセドが向かい合って座っている。
窓の外を流れる景色は、見慣れた田園風景から、徐々に石畳の街道へと変わっていく。馬車の車輪が石畳を叩く音が、規則正しく響いていた。
セドが懐から革表紙のメモ帳を取り出した。
「……おい。王都に着くまでに、設定を固めておくぞ」
「設定?」
「まず、付き合い始めた時期だが……三年前ってことにしよう。俺がコンテストで初めて入賞した時だ」
「なんでそんな具体的なのよ」
「リアリティが必要なんだよ。で、プロポーズの言葉は……『お前の作る服のように、俺の人生を支えてくれ』。どうだ?」
私は顔をしかめた。
「うわ、寒っ……。あんたのナルシストぶりがよく出てるけど」
「うるせえ。お前はただ『はい、喜んで』って言えばいいんだ。あと、人前では俺のことを『あなた』か『セド』と呼べ。『あんた』は禁止だ」
「はいはい、分かりましたよーだ」
私はふてくされて窓の外を見た。
でも、ふと気になって尋ねてみる。
「……ねえ、セド。本当にこれでいいの? リア、すごく喜んでた。あの子、期待しているよね?」
セドは少し表情を曇らせた。長い睫毛が伏せられ、憂いを帯びた表情になる。こういう顔をすると、悔しいけれど絵になる男だ。
しかし、彼はすぐにいつもの強気な顔に戻った。
「……今は仕方ない。俺たちが成功して、本当に立派な店を持てれば……。あいつも納得するさ」
「そうかしら? でも、私はあなたと恋はしていない……」
* * *
やがて馬車は王都の門をくぐった。
石造りの美しい街並み。行き交う人々も、洗練された服を着ている。私は思わず窓から身を乗り出した。
色とりどりのドレス、見たこともないデザインの帽子、そして何より、人々の活気。全てがキラキラと輝いて見えた。
「わあ……! すごい! みんな、綺麗な服着てる……!」
「だろ? これが王都だ。流行の最先端が集まる場所。俺たちが勝負する舞台だ」
セドは得意げだ。まるで自分の手柄のように胸を張っている。
馬車は賑やかな貴族街を抜け、少し落ち着いた職人街へ入っていく。そして、ある一軒の建物の前で止まった。
「着きましたぜ。ここです」
御者の声に、私たちは馬車を降りた。
しかし、目の前にある建物を見て、私は絶句した。
「……ここ?」
「……住所は合ってるはずだが」
そこにあったのは、立地こそ良いが、蔦が絡まり、窓ガラスが割れかけた古びた洋館だった。壁の塗装は剥げ落ち、屋根の一部は崩れかけている。「幽霊屋敷」という言葉がこれほど似合う建物もないだろう。
風が吹くと、ギギギ……と錆びついた蝶番が悲鳴のような音を立てた。
「ボロボロじゃない……。本当にここで店やるの?」
「姫のやつ……『歴史ある建物』とは言ってたが……」
そこへ、優雅な馬車が止まり、イリシアーナ姫が降りてきた。
プラチナブロンドの髪を縦ロールにし、宝石のような赤い瞳を輝かせている。着ているのは、レースとフリルをふんだんに使った、目の覚めるような深紅のドレスだ。
「あら、もう着いたのね。どう? 気に入ってくれたかしら?」
「姫……これは一体?」
「元は有名な宮廷仕立て屋の館よ。少し手入れが必要だけど、あなたたちの腕なら問題ないでしょ?」
少し手入れ、のレベルではない気がする。
姫は扇子で口元を隠し、悪戯っぽく目を細めた。
「さて、最初の課題よ。来週の夜会までに、この店を改装し、私の新しいドレスを用意すること」
「はあ!?」
私とセドの声が重なった。
「テーマは『再生』。この古びた館のように、忘れ去られた美しさを蘇らせなさい。……もし間に合わなければ、王都での支援は打ち切り。即刻、田舎へお帰りいただくわ」
「一週間で改装と新作ドレス!? 無茶苦茶だ!」
「あら、夫婦二人で力を合わせればできるでしょ? 期待してるわよ、私の『お抱え仕立て屋』さん」
姫は優雅に去っていった。馬車の車輪が巻き上げる砂埃さえも、どこか気品があるように見えた。
残された私たちは、呆然とボロ屋敷を見上げた。
屋根の上でカラスが「アホウ」と鳴いた気がした。
「……ねえ、セド。帰っていい?」
「……逃げるな。やるぞ、エル。俺たちの『新婚生活』の始まりだ」
セドは拳を握りしめている。その横顔には、絶望ではなく、微かな闘志が宿っていた。
私はがっくりと肩を落とした。
「最悪のハネムーンね……」




