第12話「前夜の特訓と、進まない距離」
婚約式の前夜。
ドレスの問題は解決した。セドが作った最高傑作がある。
しかし、私たちにはまだ、最大にして最難関の課題が残されていた。
――誓いのキス。
姫の言葉が脳裏をよぎる。「キスぐらいは偽装でもしないとね!」。
もし本番で失敗して、ぎこちない動きを見せれば、鋭い姫や貴族たちに「偽装だ」と見抜かれてしまうかもしれない。そうなれば、王都追放だ。
夜の帳が下りたリビングで、私とセドは深刻な顔で向かい合っていた。
「……やるしかないな」
セドが重々しく口を開いた。
「……何を?」
「練習だ。キスの」
私は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
「はあ!? 何言ってんの!?」
「本番で失敗したら終わりだぞ。……ビジネスだ。割り切れ」
セドは真顔だ。耳が少し赤いことを除けば、仕事の話をしている時と同じ顔だ。
ビジネス。そう、これは仕事。服を作るのと同じ。
私は深呼吸をして、覚悟を決めた。
「……分かったわよ。やればいいんでしょ」
* * *
私たちはソファに向かい合って座った。
距離は30センチ。お互いの呼吸が聞こえる距離だ。
「行くぞ」
「う、うん……」
セドがゆっくりと顔を近づけてくる。
整った顔立ち。長い睫毛。青い瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。
心臓が早鐘を打つ。ドクン、ドクンと、うるさいくらいに鳴り響く。
目を閉じるべきか? それとも開けておくべきか? 息は止めるの?
あと10センチ。
セドの吐息がかかる。
あと5センチ。
彼の唇の形がはっきりと見える。
あと3センチ。
……そこで、止まった。
「……」
「……」
動けない。
これ以上近づくと、何かが決定的に変わってしまう気がして、体が動かないのだ。
セドも同じなのだろうか。彼の瞳が揺れている。
沈黙が落ちる。時計の秒針の音だけがチクタクと響く。
一分経過。
汗が流れる。
三分経過。
瞬きをするのも忘れて見つめ合う。
五分経過。
足が痺れてきた。
十分経過。
私たちは石像のように固まっていた。
「……無理」
私が絞り出すように言った。
「……だな」
セドがパッと離れた。
二人同時に大きなため息をつく。
「な、なによこれ! 全然ビジネスじゃないじゃない!」
「うるせえ! お前が変な顔するからだろ!」
「してないわよ! あんたこそ、目が泳いでたじゃない!」
私たちが顔を真っ赤にして言い争っていると、
コンコン。
ドアがノックされ、返事も待たずに開いた。
「お兄ちゃん、エルお姉ちゃん、ハーブティー淹れたよー! リラックスして……」
リアが入ってきた。
そして、顔を真っ赤にして荒い息をしている私たちを見て、ピタリと止まった。
「……あ」
リアは状況を察したようだ。
ニヤリと笑い、そっとドアを閉めようとした。
「……ごめん。お邪魔しました。続けて?」
「ち、違うーー!!」
私とセドの声が重なった。
* * *
「もー、じれったいなぁ!」
事情(キスの練習をしていたこと)を話すと、リアは呆れたように言った。
「十分も見つめ合って何もしないとか、逆にすごくない? 修行僧なの?」
「うっ……」
「目を閉じて、勢いで行けばいいんだよ! チュッて! 簡単じゃん!」
リアは自分の手の甲にチュッとしてみせた。
「ほら、もう一回! 私が監督してあげるから!」
「ええっ!?」
「ほらお兄ちゃん、男ならビシッと決めて!」
リアに背中を押され、セドが再び私の前に座る。
今度はリアの視線がある。余計に緊張する。
「……くそっ、見てろよ」
セドが私の肩を掴んだ。
今度は早い。勢いよく顔を近づけてくる。
私はギュッと目を閉じた。
来る……! 唇が触れる……!
ガバッ!
衝撃と共に、視界が暗くなった。
……あれ? 唇じゃない?
温かい。そして、苦しい。
セドが私を力いっぱい抱きしめていた。
「……」
「……」
私は目を閉じたまま、彼の心臓の音を聞いていた。ドクン、ドクンと、私と同じくらい速いリズムで打っている。
こんなに激しく抱きしめられるなんて。もしかして、このまま……?
私は覚悟を決めて、じっと待った。
一秒。
五秒。
十秒。
……何も起こらない。
ただ抱きしめられているだけだ。
「……あの、セド?」
私が彼を引き剥がそうとした時、リアが慌てた声を出した。
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん! 私がいるんだよ!?」
リアは顔を真っ赤にして、手で目を覆っている(指の隙間から見ているが)。
「いきなり押し倒すとかナシだからね! 教育に悪いよ!」
「ち、違うわよリア! こいつが固まってるだけ!」
私が叫んでセドを突き飛ばすと、彼は茹でダコのように真っ赤な顔でよろめいた。
「う、うるせえ! 今日はこれが限界だ!」
「限界って何よ! ハグで終わってどうすんの!」
「段階ってものがあるんだよ!」
セドは逃げるように自分の部屋へ行ってしまった。
残された私は、呆然としていた。
抱きしめられた感触と、彼の匂いが残っている。
……心臓が持たないのは、こっちも同じよ、バカ。
「……はぁ。なんだ、ハグだけかぁ」
リアが指の隙間から手を下ろし、つまらなそうに言った。
「前途多難だね、エルお姉ちゃん」
* * *
そして翌日。婚約式本番。
私たちはガチガチに緊張して王宮へ向かった。
セドは特製の礼服、私はあの「最高傑作」のドレスを着ている。
失敗したら追放。国民の前で恥をかく。
覚悟を決めて、案内された扉を開けた。
「……え?」
そこは、大広間ではなかった。
こじんまりとした、日当たりの良いサロン。
いるのはイリシアーナ姫と、数人の侍女、そして記録係の画家だけ。
「あら、いらっしゃい。素敵なドレスね」
姫は優雅に紅茶を飲んでいた。
「あ、あの……貴族の方々は? 国民への発表は?」
私が恐る恐る聞くと、姫はキョトンとした。
「呼んでないわよ? だってこれ、私とあなたたちの契約の儀式だもの」
「はあ!?」
「大勢の前でやるなんて、準備が大変じゃない。そんな予算ないわよ」
姫は悪戯っぽく笑った。
「国民も盛り上がる」とか言ってたのは、全部私たちを追い込むためのハッタリだったのだ。
「さあ、始めましょうか。誓いの言葉と、指輪の交換。そして……誓いのキスを」
観衆はいなかった。
でも、姫の爛々とした瞳に見守られながら(監視されながら)、私たちは誓いを立てた。
指輪を交換し、そして……。
セドが私の肩を抱いた。昨夜の練習のように、ガチガチに震えている。
私も目を閉じた。
……チュッ。
触れたのは、唇の端っこ。
不器用で、震えていて、でも温かいキスだった。
「はい、よくできました! これであなたたちは、正式に私の仕立て屋よ」
姫が満足げに拍手をする。
私たちはへなへなと座り込んだ。
あんなに練習したのに。あんなに悩んだのに。
「さあ、次は後継者ね」
姫がニッコリと笑った。
「割り切りでいいから、早く子供見せてよね? 次世代、次世代!」
「……は?」
「期待してるわよ、お二人さん!」
姫はウィンクをしてサロンを出て行った。
残された私たちは、顔を見合わせて絶句した。
左手の薬指に光る指輪と、唇に残る感触。そして、姫の無茶振り。
私たちの「偽装結婚」は、まだまだ前途多難なようだ。
(第1章 完)




