雌伏の愛
「クリス、前借りだ」
ボサボサの髪、散らかったアトリエ、伸び切った髭は手入れもされずに不揃いなまま。
長身痩躯にして、眼の下には大きな隈が陰をつくり、痩けた頬が落ち窪んで毛むくじゃらな骸骨のようだ。
年代物の厚ぼったいツィードのジャケットは方々に綻びがあり、肘にあてられた鞣し革は草臥れて、煮出したように鈍色だ。
安いスコッチを煽ってキセルを燻らせ、片手で適当にチェンバロを弾いてサイドテーブルに置いた燻製肉をつまみに、またスコッチを呑んでは蒸気機関になっている。
「聞こえなかったか、クリス。前借り」
煙を吐き出して、またこちらには一瞥もくれずに言う。かつては稀代の天才と謳われたとは思えない程に見窄らしい男だが、最近じゃ才能は枯れたと言われて久しい。
アマルヒィ・ノーデンベルク。
オペラ脚本、作曲、絵画にいたるまで、多岐にわたって名声を欲しいままにした男は、郊外のアトリエで腐っていた。
「貸すのはいいんだけど、返済されたことは無いんだけど兄さん」
伯爵家の三男坊として、継ぐべき爵位もない私は事業投資で財を築いたあと、商会と王侯貴族との取引の仲介や、美術品投資、劇場運営で実家を超える資産家となった。
クリストファー・サルタン、私はめっきり作品をつくらなくなり、かつての栄光が齎す僅かな収入だけで食いつないでいるアマルヒィを何故か見捨てられずにいる。
そういう名分で支援し続けている。
作品をつくらなくなったのではない。作ることが出来なくなったのだ。家督を継ぐべき長男が家を出て、芸術家となったのも、成功を手にした途端、全ての作品を世に出せなくなったのも、兄のせいではない。
ノーデンベルグを名乗り、伯爵家とは無縁の無頼漢を演じ続ける兄に、資産家である弟が陰ながら生活を助けている、そんな構図でしか、兄を助けられないことを父は嘆いていた。
「すこしでいいんだ。一発あてたら、全部まとめて返すさ」
かつては社交界で羨望の的だった兄は、酒に溺れ、博打に打ち込み、自堕落に暮らしている。
こんな姿をしていても、髪と髭を整えれば、今だって流麗な非の打ち所の無い美男だ。
出入りする女も多く、浮名を流した数は枚挙に暇がない。でも、それは全て、人生に絶望した兄には慰めにもならない児戯のようなものだろうと思えば、遣る瀬無い怒りと悲しみに襲われる。
「100万クローネ、振り込んどく、好きに使っていいよ」
私の言葉に驚いたのか、兄は暫し言葉を失って。
「……い、いいのか、そんなに」
狼狽えたように答えている。自棄になって自ら腐っていくことを自覚しつつ嘆いている兄は、あればあるだけ金を使う。見限られて放り出され、惨めに死ぬ事を望んでいる兄に、そんな結末は許されないと昂る心を隠し、さも何事もないように言う。
「今度の週末、一緒にサロンへ行こう。カジノとバーが併設された新しいクラブがあるんだ。メイドを何人か寄越すから、しっかり磨かれてくれよ。兄さんはかっこいいから、横にいるだけで見栄えがいい」
いきなりの提案に兄はさらに困惑していたが。
「あぁ、わかった」
確かに了承した。
〜〜〜〜
私が産まれた時、長兄のアマルヒィと、次兄のサシャルティの間の確執は確定的なものになっていたらしい。兄たちのせいではなく、義母のせいでだけれど。
サルタン伯爵たる父カイエンには長兄アマルヒィと三男である私、クリストファーの母である正妻、元ムーストン士爵家の息女であったミルヴァがいるのだが、既に結婚し、産まれて間もない嫡男もいる父に懸想した第三王女リスティナが父である国王陛下に頼み、父に嫁ぐことになったのだ。
この国は制度として定められてはいないが、一夫一妻を基本として重婚する者は殆どいない。まして、血を尊び、無用な争いを忌避する貴族王族であれば、嫡男もいて、夫婦ともに健在な家に嫁ぐなど、常識外れなことであったが、末娘を溺愛する国王は、その我儘を押し通してしまった。
その結果が今だ。
幼い頃から優秀だった二人の兄たちだが、次兄の母は後から来て正妻におさまり、本来の正妻を第二夫人とした義母リスティナで、自身の子供を贔屓し、嫡男にと願う義母のために、長兄アマルヒィは自ら継承権を放棄した。
大兄も小兄も仲は良かった。小兄は兄を支えるため、領地へと行き、代官とともに領政に精を出すと言っていたのだ。
それがいけなかった。王都のタウンハウスで社交にあけくれる義母は田舎の領に行く気などなかった。
王都で要職につく父の跡を継がせて、自分は王都で父と暮らすのだと騒ぎ出す。
大兄は未だに義母を溺愛する国王を警戒して、放蕩息子を演じはじめ、芸術や美術に耽って、政治に関心をもたず、野心のない男として振舞うようになった。
それで安心した義母は大兄を放置していたんだけれど、兄が家を出ると宣言し、ノーデンベルグ、母方の縁故の中ですでに途絶した旧い家名を名乗り、芸術家となったのは大兄がまだ18の頃だった。
大兄が自ら家を出た事で、私もゆくゆくは家から出て、家督に関わらない立場となることを決意する。
父は大兄にも私にも家に残るよう言ったが、義母の執着とそれを許す国王に信は置けなかった。
父は小兄が産まれた段階で、ほぼ義母との交流を絶った、表向きは妻として扱っているが、家庭間の二人は酷いものだ。義母は外に愛人をつくり、だというのに、父を手放す気はなく、伯爵家に居座っている。
芸術家として成功をおさめ、名声を高めた大兄を義母は疎ましく思ったようだ。
家を出て、家名まで捨てたことで、大兄は安堵してしまったのだと思う。人々の称賛を浴びる大兄を脅威と見なした義母は国王を使い、アマルヒィに関わる全ての作品の上映、出版、閲覧を禁止したのだ。
兄は芸術家として、死んだ。
お触れは王都の劇場や大手画商など関係者のみに内密に流布されたが、破れば、重罰を科されるとなれば、誰も大兄の作品を扱うことはなくなった。王都の関係者に向けたお触れであり、地方に波及するものでは無かったが、王都や王都に関係の深い地域ではこのお触れは守られた。
やがて、地方にも徐々に波及する中で、兄の手掛けたものは余程の地方でしか見ることはなくなる。
市井の者や、事情を知らない者、知っていても口外出来ない者たちが口を揃えて、アマルヒィは才能が枯れたと言うのに時間はかからなかった。それすら、義母が裏で手を回していた。
〜〜〜〜
約束の日、私の前に現れた大兄はこの前とは別人だった。
長い髪は後に撫で付けられ、髭は剃り落とされて眉も整えられている。家に籠もっていることで、色素の薄い大兄の肌や瞳は、もう40も近いというのに透明感があり、若々しい。
濃紺の薄手の絹地を使った絞りのあるダブルのスーツに、フリルがあしらわれたノーカラーのカッターシャツ、首元に銀糸で刺繍されたスカーフが巻かれ、細身で長身の大兄からは色気すら漂ってくる。
「やっぱり兄さんはかっこいいな」
苦笑いを浮かべる兄は、私の額を指で小突いてから。
「何を企んでいるか知らんが、散財して無一文になったら、また集るからな」
そう笑っている。
幼少から叩き込まれた所作は一朝一夕で失われるものでもない。身形を整えた兄は、誰が見ても高位貴族の貴公子そのものだ。
クラブに足を踏み入れる。私と兄を知る者だろう、侮蔑の視線を向ける者もいるが、年若い令嬢はうっとりと見惚れ、若い貴族家子息や紳士階級の男たちは息を呑み、視線が自然と集まる。
第三王女だった義母が、たった一度、夜会で目を奪われて、国家権力を利用してまで欲しがった父に、最も似ているのが大兄なのだ。
給仕の男に言伝をし、勝手知ったるようにカジノスペースへと足を運んだ兄は現金をカジノ用のチップに換えると、ルーレット卓に滑らかに座った。
給仕の持ってきたスコッチを呑みながら、私と談笑してルーレットの進行を見ていた兄は4ゲーム程はノーベットで見を終えると、まずはルージュにベットした。
「おおー、当たったなー」
嬉しそうに私に言う兄は、コーナーベット、スリーベット、ダウンベット、ダブルラインベットと、配当が低く、当てやすいベットを多用して当てたり外したりを繰り返しながら、5分の勝負を続ける。
「26にオールイン」
ディーラーがボールを投げ入れる直前、兄は突然に一点賭けでチップを全てベットした。
「大丈夫なのか、兄さん」
思わず不安になり、そう訊いた私に。
「文無しになっても失うものはもう無いしな」
そう笑う兄が。
「まぁ、勝ったら今夜は愉しむとしよう」
呑気に言っている。
卓に座る皆が注目し、卓の周りもざわつきに目を向けている。無表情のディーラーの顔が僅かに強張って見える。兄はすっと背凭れに深く体を埋め、両手を腿の上で組んだ。
ルーレットの回転が止まり、ボールだけが盤面を回っている。
何処に落ちる?
衆目の注目が集まる中で、ふと兄を見れば、やや俯いて静かに微笑んだまま、目を閉じている。その表情に吸い込まれるままに見ていると、歓声が上がる。
「26のノワール」
微かに震えた声でディーラーが当たり目を宣言し、卓の内外が盛り上がる。
「大勝利だ」「一点賭けのオールインを当てたぞ」「凄い勝負師だ」と言った賛辞やら羨望やらの声が大小様々に聴こえる中で。
「そこのチップで皆様に何か一杯お願いするよ」
そう声をかけた兄は立ち上がり、私を見て。
「次に行こうか」
そう笑いかけていた。
〜〜〜〜
「よく見つけてきたな、あんなディーラー」
サロンの個室へと移動し、スコッチを傾けて愛用のキセルを燻らせた兄はそう言った。
「なんのことだい、兄さん」
惚けてみたが、バレているらしい。いや、バレることは前提のようなものだったが、それでも、あそこまで見事に勝つと思っていなかった。
「完全に狙ったところに投げられる女だった。ルーレットにもイカサマが仕込んであったな。私が負けないように調整していた。それでも投げ入れる目を完全に予測した上で全張りすれば、ルーレットの方の仕掛けを動かすかと思ったが、音がしなかった」
宣言した目に落ちることがわかっていたディーラーが、敢えてイカサマでそれを外さなかった。だから、私の息のかかった者だと言うことだろう。このサロンの出資者が私と言う事ももうわかっているのだろう。
「あまり、露骨なことをすれば、悪評が立つぞ」
そう嗜める兄に、私は苦笑いして、返すことが出来ない。
「まぁいいさ。お望みどおりに、悪評ついでにショーガールの何人かでも持ち帰るとしよう。クリス、お前もまだ独り身であるし、美女を侍らせディナーを楽しめばいい。その後は各々、好きにしようじゃないか」
享楽的に生きる兄の姿に、何処か憧れてしまう。それが兄の望む生き方で無いことは知っているが、それでも、私が生きて欲しいと願う想いを、兄は汲み取ってくれるのだ。
〜〜〜〜
クラブでの一件から半月程のこと、国王陛下が崩御なされた。
王太子殿下への王位の継承は速やかに行われ、義母は後ろ盾を失った。
国王陛下御崩御から3日後、伯爵家のタウンハウスには一家の全員が、家長である父の命で集められていた。
「陛下の御崩御に喪に服すると共に、臣下であった私は家督をサシャルティに譲ろうと思う」
突然の宣言ではあったが、家族一同に動揺は無かった。ただ一人、義母リスティナだけが燥いでいたが。
主君の崩御に合わせて、家督を相続することは珍しい事ではない。むしろ、二君に仕えないという姿勢は忠臣の証として尊ばれてもいる。
無論、後継が幼すぎるなどで移譲が現実的で無ければ、その限りでは無いが、父は齢50をとうに超えている。そろそろ家督相続も視野に入れ、準備していた中のこと、不謹慎な言い方ではあるが、タイミングとしてはベストな選択である。
そもそも、父が先王陛下御崩御に伴って家督を譲ることは、義母と大兄を除けば、家族全員が知っていたことだ。
「これで、サシャルが家を継いで、私の生活も保障されたわね」
嬉しそうに言う義母だったが、水を差したのは小兄だった。
「そうはまいりませんよ」
えっ、という顔をした義母を尻目に、父が話を再開した。
「私とミルヴァは領に戻り、隠棲するが、お前はどうせ王都に残るのだろう」
父の淡々とした問い掛けに、当然よと答える義母に、父は深く溜息をつくと。
「そう言うと思って、王都内の賃貸住宅をひとつ買い上げた。集合住宅ではなく、一軒家ゆえに、好きに使いなさい。メイドも手配する。私の資産から月に50万クローネは生活費として振り込むゆえ、それで暮らしなさい」
父の言葉に義母は激昂した。
「ふざけないで、なんでたった50万なの、お父様から毎月支払われていた支度金があるでしょう。まさか着服するつもり」
「その先王陛下が御崩御されて、支度金は打ち切られた。そもそも、伯爵家に嫁いで何年たってると思ってるんだ。今までの支度金も全てお前が一人で使い切ったのだろう。新王陛下の裁可で返金を求められなかっただけ、温情があると思わないか」
父が呆れたように言ったが、立ち上がった義母はさらに過熱したようで。
「なんで、打ち切られるのよ。お兄様は私が可愛くないの。そもそも、そんな端金で社交はどうするのよ」
その一言に、父は声を上げて笑い出した。あまりに大きな声を上げ笑う様子は、今まで一度も見たことのない姿で、そのためにその場の一同は驚いて父を凝視した。
一頻り笑い落ち着くと、父は緩みきった顔で顔を上げることも苦しいように上目で義母を見上げてから、大きく息を吐いて顔を起こした。
「どの口が社交だと、今更お前に交わりたいと願う者がいると思っているのか? 先王陛下ご存命の折は、お前を通して陛下の覚え目出度くなろうと浅慮な者が侍ったようだが、王家にも我が家門に連なる者にも疎まれているお前と誰が仲良くしようとするか」
そう言われた義母は、怒りに震え、顔を赤く染め上げると。
「私を侮辱したこと、必ず後悔することになりますわ」
そう言って部屋を飛び出していった。
大方、愛人のところに転がり込むのだろう、門前払いされなければいいがと、父は捨て置けと吐き捨てた。
「今まですまなかった。これで先王陛下の影も払えた。あの女にはもう、夫に疎まれる前伯爵の妻という身分しかない。先王が出した、くだらないお触れも撤廃される。帰ってきなさい」
嵐のように去った義母の余韻が落ち着いた頃合いで、父は大兄にそう語り掛けた。
「嬉しい申し出ではありますが、一度家を棄てた者が軽々に出戻っては伯爵家の権威に泥を塗ります。私はノーデンベルグとして、生涯を閉じます」
大兄はそう言い、父は寂しそうに、そうかと頷いた。
「お兄様、それでも、これでやっと、自由に作品を作れますね」
殊更明るくそう言った私に、家族は口々にその通りだと、喜びを分かち合ったが、兄はどこか浮かない顔をしていた。
〜〜〜〜
伯爵邸を出て、馬車の中で大兄と向かい合う。この後はクラブへと行き、酒を酌み交わしての祝勝会だと意気込む私に、兄は滔々と語りだした。
「もう、何も作れないんだ。どうせ発表の場もないと何年も腐ってしまった。絵の描き方がわからない。脚本の段取りも、決まり事も忘れてしまった。物語を紡ごうにも筋が浮かばない。私の才能は本当に枯れてしまったらしい。水も陽の光もやらず、土ごと腐らせてしまったようだ」
そう項垂れる大兄を見ながら、私は反論した。
「兄さんが腐らせたのは、自尊心です。弟の贔屓目と言われても、何度でもいいますよ。兄さんは天才です。兄さんはかっこいいです。兄さんは私の理想です。兄さんは……」
まだまだ言い足りないというのに、嗚咽が混じり上手く言葉にならない。見兼ねたのか、兄が止めてくる。
「もういい、わかったよ。こんな優しい弟を泣かせるとは酷い兄だ。頑張るから、顔を上げてくれ。己自身を信じずとも、クリス、お前のことは信じよう」
「本……当です、か? 」
しゃくり上げながら言う、情けない私に微笑む兄は。
「あぁ、……ありがとう」
そう確かに言ったのだ。
〜〜〜〜〜
義母はその後、社交界では笑い者にされ、孤立したようだった。新王として即位した義母の兄君は即位後も喪に服し、即位の式典を喪が明けた1年後と定められ、先王陛下のために混乱した様々な事柄を片付けておられた。
当然に義母の起こした事柄も含まれており、父を始めとして伯爵家は非公式ではあるが謝罪を受けているし、我が家を除いても方々で後始末に腐心しているようで、専ら現王陛下は妹君を嫌っていると噂されている。
父の言ったように、王家、伯爵家ともに疎まれている上に、今までのように湯水のように金を使うことが叶わなくなれば、装いも貧しくなろうもの、すっかりと見窄らしく落ちぶれた義母は用意された家に籠もるようになったと聞く。
「可哀想な人だ」
精力的に作品つくりを再開し、すっかり人気を取り戻した兄。アトリエで作品製作をする兄の元に訪れる。
義母の噂や動向について話すと、兄はポツリといったのだ。
「可哀想って、自業自得じゃないか。いい気味だとは思わないの? 兄さんは一番恨んでると思ってたよ」
私の当然の疑問に、兄は力なく笑うと。
「まぁ、恨めしく思った瞬間も確かにある。だが、それ以上に可哀想だと思ってしまうのだ」
納得のいかない私は、家督相続の場での兄の表情を思い出す。新たに作品を作れるのかという不安ゆえのものと、そのあとの馬車での件で納得していたが、ややもすると、あの場でも義母に同情していたのか。
「可哀想なものか。義母の横槍で、我が家はどれだけ迷惑したか」
「しかし、サシャルティは義母上がいなければ、この世にいないのだぞ」
そう言われて、すこし気圧されてしまう。
「すまんな、こんな言い方は卑怯だ。ただ、義母上は幸せだったのだろうか。父上の愛を求めても、結局は先王陛下の押し付けに従っただけで、愛されることは無かった。母上はそもそも、いないものとして、お互いに避けていた。サシャルティは家族を愛してくれたが、それゆえに、ある歳を越えると実の母を疎んじるようになった」
「それは全て自業自得だろ」
兄の言葉に鸚鵡のように同じことを返してしまう。
「正論だが、正論だけで人の感情は出来ていないだろう。義母上は愛人もつくられ、社交の場で多くの人に囲まれはしたが、父上の言ったことを、理解していない訳ではなかったと思うぞ。誰も彼も、自分を見ずに王の影ばかり追いかける。愛した人を手中に収めれば慰めになるかと横紙破りをしてみても、なんの解決にもならないどころか、嫌悪を向けられるばかり、義母上が本当に欲しかった物は、手には入らなかったのでは無いか? 私を含めて迷惑を被った者には納得出来んのはわかるが、可哀想な人だったと思うのだ」
兄の言葉を聞いて、確かにと思ってしまった。それでも、兄にした仕打ちが許される訳ではない。
「なぁ、義母上が私に苛烈だったのは、私が若き日の父上の生き写しのようだったからだと思わないか。愛を求めても得られなかった腹いせに、私を虐げて溜飲を下げたのだ。可愛らしい嫉妬だ。父上やお前が助けてくれることを知っているから、ほんのすこしの嫌がらせのつもりだったのだろう」
「なぜ、そこまで好意的に解釈するのです」
私はムキになって怒鳴ってしまった。
「何故だろうな。ただ、始めて伯爵家に来た時の義母上は、父に会って顔を紅くし、言葉を詰まらせて、私に微笑みかけて、仲良くしてねと、そう言ったんだよ。もう、私しか覚えていないし、勿論、お前もサシャルティも産まれる前の話だがな」
嘘のような話だった。まるで義母の印象とそぐわない。兄が記憶違いをしているのでは無いか、訝しむ私の様子に、兄は深く溜息をつく。
「この話は随分としていない。した所で、皆、その反応なんだ。でもな、私も歳がいって思うようになったが、我儘に育てられ、親の権力を使い押し入ったとはいえ、恋をした女性でしか無かったのだ。むしろ、権力の意味も意義も矜持も教えられることなく甘やかされ、自分の好きが通ると思い込んでいた被害者でもあるのだ。だからこそ、先王が頼みをきいて、用意してくれたのだから、きっと愛して貰えると疑わずに嫁いでしまったんだ。先王陛下も酷なことをされた。恨むべきは先王陛下であろう」
諭されて、私はやっと納得した。立場ある者を甘やかし、その身分に相応しい価値を与えなかったばかりか、横暴に振舞った挙句に、自ら価値を下げ、嫌われるために嫁いでいくことを是としたのだ。
「わかったか、先王陛下は娘を愛している振りをして、娘を虐待していたのだ。だから、可哀想な人だと言うのだ。私は家族に愛され、自らの手で成功も掴み、立場も得た。義母上のことは恨むほどに嫌うことはない。それだけの話だ」
何と言うか、水を差されたような心持ちになり、その日は帰ることした。
〜〜〜〜
大兄はその後、義母の元を訪れ、いつの間にか、共にオペラの脚本を書くようになった。
義母上と兄の半生を描いて、先王の「心の虐待」を描いた大作を作り上げた。
大兄はその脚本をまずは我が家に送り届け、その後に義母を通して国王陛下に奏上し、公演の許しを乞うたのだが、父も現当主である小兄も快く許諾し、国王陛下は兄に謁見の場を設けて呼び出すと、大兄曰く、涙を流して公演を王家が保障すると頭を下げたそうだ。
「横暴で我儘な妹のことを忌み嫌っていたが、貴殿の考えに触れ、如何に自分が家族を想い遣れぬ未熟者であるかを悟った。父に諫言するでもなく、ただ妹1人に責を負わせていたこと、余も加害者であったと思えば、これは不敬になどあたらん。是非とも公演し、妹の失地回復のために尽力してくれ。貴殿のような息子を持てたことは、妹にとっては望外の幸運であろう」
そう言われ、公演されたオペラは本当に王家公認のものとして大々的に発表されたのだ。
不遇を強いられた兄が、その中にあって義母の、一人の女性の苦悩に寄り添い、血の繋がりは無くとも、家族として絆を深める物語は美談として大いにウケた。
「兄さんはやっぱりすごいな」
公演を観た私は、1人感慨深く、そう呟くのだった。
〜〜〜〜
それから、随分と時がたった。
大兄は義母を引き取り、最後まで面倒を見ていた。後年は仲良く観劇したり、共に作品製作に励み、共同作品を多く生み出した。
兄は義母を看取る、その日まで寄り添い。そして、生涯独身を貫いたまま、亡くなってしまった。
アトリエに入り、遺品整理をしていると抽斗の中から、ひとつの手記が見つかった。
勝手に読むのは憚られたが、もしかすれば、遺構と共に、未発表の遺作があるかもしれない。好奇心に開いたそれには、大兄が1人暮らす義母の元を訪れた日のことが書かれていた。
〜〜〜〜
あの日の事を忘れた事はない。仲良くしてねと、緊張した顔で不安そうに言ったレディは、どこまでも美しく、そして可憐だった。
だからだろう。恥ずかしかった私は、知らないと言って、母上の後に逃げてしまった。
あれがいけなかったのだ。
あの時、すこしでも私が彼女を受け入れてあげれば、きっと父上も母上も、あそこまで彼女を嫌うことは無かったのだ。
幼い息子を怖がらせた。先入観に拍車がかかった家中の者は、その一事をもって、彼女を敵と再認識してしまった。
その時のことを詫びる私に、彼女は大いに笑った。
恨むんではなく、そんな幼い記憶で罪悪感を引き摺っていたのかと、そして、大いに泣いた。
傷つけ、迷惑をかけたと、ただ一人、私を見てくれていたのは貴方だったのだと、心の底から謝罪してくれた。
私は愚かにも、もう一度、親子としてやり直そうと、産まれ直してみないかと、それが素晴らしい思い付きだと、彼女に提案してしまった。
後になれば、浅はかな事をと思うが、母上は喜んでそれを受け入れてくれた。
母上と今までの自分たちを供養しようと、半生を描いた作品を書き上げた。
といって、実家にも王家にも関わる話だ。そのまま公演する訳にはと、駄目で元々と打診すれば、許可が得られたばかりか、父上にも、国王陛下にも、感謝されて困惑するばかりだ。
だが、母上の不遇を父上も、兄君たる国王陛下も理解されたのは喜ばしい。
〜〜〜〜
やっぱり、兄は聖人では無かろうかと思いながら、読み進めてしまう。
義母との穏やかな毎日が、丁寧に綴られている。
〜〜〜〜
このところ、母上の容態が思わしくない。もう、長くは無いかも知れない。だからこそ、言わなければならない事がある。
きっと、気持ち悪がられるだろう。
〜〜〜〜〜
その一文を最後に手記は終わっていた。
兄の真実とは何だったのか、それは分かるような気はするものの、胸にしまうべきなのだろう。
手記は兄の墓に共に埋葬することとした。
〜〜〜〜〜
「母上、今さらこのような事を言っても、迷惑なだけと思います。ですが、私の我儘をお許しください」
聞かせるべきではない。良い息子を持ったと喜んでくれていた母上、弟たちに孫が出来れば、実母とともに喜んでいた母上、父とも関係が改善し、良好な付き合いが出来て喜んでいた母上。
私の想いは、それに泥水を浴びせるものだ。
「なんでしょう。貴方には本当に良くして貰ったわ。何だって聞きますわよ」
ベットの上で優しく微笑む母上に、声が上擦る感覚に襲われながら、吃りつつも話す。
「始めて母上にお会いして、妖精のようだと、見惚れてより、私の心は常に母上にありました。父に嫉妬したこともあります。数多の女性と褥を共にし、忘れようと藻掻いたこともあります。けれど、私は母上を愛しておりました。息子としてでなく、こんな不純で穢らわしい男を側におき、息子として愛してくださったこと、感謝しております。このようなことは語るべきでは無かったのだと、ですが……」
項垂れ、恥ずかしさと自身への嫌悪と忌まわしさから嗚咽する私を、母上は抱きしめてくださりました。
「嬉しいわ。こんなおばあちゃんになっても愛してくれるのね。確かに私には息子としか、今は思えないけれど、貴方の言葉に救われたわ。私はあの方とは関係を修復できたけれど、愛されはしなかったわ。貴方だけが、私を深く愛して慈しんでくれたのね。本当に嬉しいわ」
輝くような笑顔だった。
それから数日後、母上は旅立ってしまった。
「来世ではね」
最期の言葉を遺した母上は、あの日と同じ笑顔だった。
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