モニカ
この25年間でいったい私は何者になったのだろう。
友達がいても、いつも心は1人ぼっち。上っ面な笑顔をいつも心が蔑んでいる。
もし、鏡の中の自分が、今隣にいるのなら、少しは上手に歩けただろうか。
そんな、どうにもならなくて、どうでもいいようなことを考えながら、椅子にかけたジャケットを手に取り玄関へ急ぐ。
今では、すっかり踵が潰れたスニーカーは、サイズが数センチ程大きいため、外でタバコを吸う時以外は履かない。
靴紐を緩めて、つま先をねじ込むと、それはやっぱりブカブカで、宙ぶらりんのテルテル坊主を揺らしているみたいだ。ぎゅっと固く縛って立ち上がる。
ドアを開けると、目の前には外廊下と、奥に鉄柵、螺旋階段があり、真ん中は吹き抜けになっていて、上から見るとドーナツの形をしている。私の部屋はここの最上階、6階だ。
今、私が小学生なら、この永遠とも思える隙間に指を入れて、喜んでぶつけながら歩いたりしただろう。そんな、もう忘れかけた思い出に蓋をして、私は柵にもたれかかる。
数秒もすれば用を思い出して、ポケットに入ったタバコを取り出し火をつける。満月がいつもより眩しく見える。
ーーーー
母乳の最後の一滴まで飲み干さんとする子牛のように、フィルターのギリギリまで吸ってみる。普段ならよほど金欠でもない限り、こうはしない。
「ふぅ…最後の一本、もっと大事に吸えばよかった…」
「次は私が母乳だね」「はは…」
「あの世は禁煙かな…」「そもそもタバコは持っていけ…」
「…これで終わり。何もかも。」
目を閉じて、深く深く呼吸をすると、身体中の血液が、酸素を一生懸命運ぶ。蛍光灯に無鉄砲な羽虫がぶつけたりよろけたりする音が聴こえる。
私は鉄柵の隙間に足を入れると、カーンと高い音がなって、あの頃の無邪気に色がつく。怖くない。明日にならずに済むのだから。
反対側に足をつけ、さながらタイタニックの名シーンの様に、両手を鉄柵にかける。
意味もなく足を浮かしてみる。空を見上げると月が心配そうに覗いてる。
…
私はいつも本番に弱い。ピアノの発表会、面接、出欠確認ですら息が急く。
大丈夫。明日は来ない。
意を決して、少し手の力を緩めるが、滝の様に流れた手汗が仇となり、あっけなくつるりと滑る。
その瞬間、世界が沈む。重力に従って、上から下まで一直線に落ちる。5、、、、、、、、、、4、、、、、、、、、、3、、、、、、、、、、ぱらぱら漫画の様に、フロアを数える時間がゆっくりと、しかし、駆け足で進む。それは風前の灯で、今まさに、私の身体は無機質な地面に打ちのめされるのだ。2、、、、、、、1、、、、、じっとりと嫌な汗が鼻先をくすぐり、冷たい地面に雫が染みる。
ーーーーー
気がつくと、不思議と身体は痛くない。ベッドに寝転んだ時の様な、妙な快適さまでついてくる。
「天国かな」
周りを見渡しても、景色は変わらない。そう、いつもと変わらない。見慣れた内観。ドーナツの中。
「失敗した、の…?」
悲しみの波が押し寄せては、少しばかりの安堵感が押し返す。
「あ、あぁ…あ」
手押し相撲の様に、ぐちゃぐちゃに掻き乱されたこの感情に、きっと名前はないのだろう。
カラカラ、カラカラ、と音がして、
振り返ると、背広姿の骸骨が立っていた。
ーーーーー
「…!」
骸骨、骸骨がスーツを着て立っている。なぜ動けるのかわからない。
背広に、首からかけた古そうなカメラ。
差し詰め地獄の入園式。その記念写真でも撮るつもりなのか?もしや、飛び降りたのも全て夢なのか?
カラカラ
骸骨はおもむろに被っていたハットを手に取り、その中から便箋をだして、私に受け取らせた。後ろを見ると、605号室宛。それは、私に割り当てられた部屋の数字だった。
カラカラ
骸骨は、月明りで照らされた螺旋階段を指差す。よく掃除された真っ白な階段は、ある種の芸術作品とすら思えるほどだ。
「階段を登ればいいの?この宛先はうちの家よ?」
不気味だが、少し興味がある。新しい入居者への手紙なのか、それとも私宛なのか。
ともあれ、私の決意は変わらない。届けたあとにまた飛び降りて、もう全てを終わらせよう。最後に誰かの役にたとう。
カラカラ
骸骨は、勇者の後ろにいる仲間のようにぴったりついてくる。
「あなたもついていくの?」
カラカラ
「そう…」
どちらかと言えば、彼は魔物側だが、なぜか懐かしさや、安心感があって怖くはない。
「疲れちゃいそう。いつもはエレベーターだからさ。」
あたりに人はいないのだろうが、私の声がリバーブして、自然と声を小さくする。
階段を一段、二段と登る。一体何段あるのだろう。上を見ると、満月がこちらを手招きしているみたいだ。
ーーーー
2F
足音がピッタリとこだまして、アナログ時計の秒針の音を連想させる。それがなんだかむず痒くて、なんでもいいから話したくなる。
「ねえ?」
カラカラ
「あなたはどうやって動いているの?誰かが操って動いているの?それとも、、」
こんなこと聴くのは失礼かな?と、今更ハッとする。
「ま、まぁ、いっか。」
「でもね、私思うの。」
カラカラ
「生きている意味ってあるのかな?って」
…
「なにかしなくちゃならない、何物かにならなくちゃならない。」
「初めは馬鹿らしいなんて思ってたけど、ある日気づいたの。」
「その通りなんだって。」
「家族がいるから頑張れる。趣味があるから頑張れる。」
「もちろん生きていくために頑張るっていうのが結論なんだけど。」
「でも私にはなにもないの。空っぽなの。」
「昨日までは、頑張りたいから頑張ってきたんだけど…」
「ごめんなさい。頑張るがゲシュタルト崩壊し始めたわ。」
「人には役割がないと生きていけないのかもね。」
「でも私は生きているのに、死んでいるのと同じなの。」
私には、夢もなければ目標もない。家族のために仕事をしてきたが、それももう意味をなさない。
思えば、祖父母が亡くなった後の私は、糸がほつれ、全てを吐き出してしまった、スカスカのぬいぐるみだ。
カラカラ
トントンと肩を叩かれた。
骸骨はカメラをこちらに向けている。
「カメラ?写真を撮るの?」
ポーズを決める間もなく、カシャリと、骸骨は、まるで私の魂を記録するかの様に、カメラのボタンを押した。
月明かりがシャッターの変わりだ。
ーーーー
3F
肺の中で太鼓を鳴らされてるみたいに、ゼエゼエと音を立てる。
「…はーぁ、ちょっと上がってもこれなの。なんでタバコなんて吸い始めたんだっけ。」
物心ついたときには母はいなかった。私にとって、写真の中で笑う母と、色褪せたエプロンが唯一の思い出だ。
「おとうさんおなかすいたよー」
「ごめんなー、お風呂洗ったらすぐに作るからー」
お風呂場のこもった父の声が今でも忘れられない。
「よし、すぐ作るから待ってろー」
父の体格には少し小さいエプロンをつける。ちょっと馬鹿っぽくて、似合わないコスプレみたいだ。
「わかった」
ごま油の臭いが部屋を充満する。
「おとうさん換気扇ー」
「あ、ごめんなー」
父はすぐに謝る。きっと、私に対して申し訳ない気持ちが山の様にあるのだろう。
普段は祖母が夕飯を作ってくれるのだが、朝から猛吹雪がやってきて、怖い風が止んだと思えば、また怒り狂った様に壁を打ちつける。そう天気は、今晩のシェフを父に決めたのだ。
父の料理は好きだ。不器用だけど、愛情いっぱいのご飯は、私を寂しさまでも満たしてくれる気がした。
「よし!チャーハンだ」
「またチャーハン?おとうさん前もチャーハンだったじゃんー」
「ごめんなー」
くちゃくちゃと私の頭を撫でる。大きくてタバコ臭いそんな父の手が好きだった。
そんな父も、私の制服姿を見る前に、母の元に行ってしまった。
あぁ、そうだ、私がタバコを吸い始めたのは、父の影響だったんだ。
カシャリ、と骸骨はカメラで記録する。
「また?」
なんの意味があるのだろうか、しかし骸骨は喋れない。
私たちは階段を登る。母の様な月が眩しい。
ーーーー
4F
きつく締めた靴のせいで、小指が痛い。あぁ、地獄行きのエスカレーターがあれば、骸骨様御一行が飛び乗るというのに。閻魔大王には集客力がないみたいだ。
「ねえ、さっきの手紙さ、どんな内容なの?」
「宛先は家族?それとも友達?」
骸骨は少し考えた後、首を横に振る。
「そう。」
「無事に届くといいね。」
学生時代、よく友達に手紙を書いて渡していた。テストの答案用紙より綺麗に字を書いて、お気に入りのシールをたくさん貼った。みんなのやりたくないことを引き受けて、私は私を受け入れてくれる、「誰か」と友達になりたかった。そうして、いい子ちゃんのレッテルを貼りたくった私に、本音を言い合える、まさに親友と呼べる存在は1人もいない。
そんなことを考えてたら、また骸骨がカメラを手に取っていた。
慌てたせいで、私は不恰好なピースをしてしまった。
カシャリ
ーーーー
5F
酸欠と、小指の痛さで意識が遠のく。もし、また飛び降りが失敗したら、私は一体どうすればいいのか。
「ちょっと、休憩しましょう。」
しばらく階段に腰掛けて、深呼吸をしていると、明け方にカーテンを開けたみたいに、視界がパッと明転する。もっとも今は真夜中だろう。
「なぜ私は私の意識になったんだろうね。」
賢ぶって私は得意げに語り出す。
カラカラ?
「もしかしたら、私の身体に私以外の誰かの意識だった可能性があると思わない?」
「そもそも意識はどこからやってきたんだーって思わない?」
カラカラ
「ふふ、それはね、みんな私だと思うの。」
「犬や猫、魚に蛙、鳥や隣にいる人。」
「過去、現在、未来。全て私の意識。」
「何兆回、何京回も生きて死んで。やり直すの。」
「もしかしたら、また自分にも、あなたにも。」
カラカラ
「…」
「……なんて、家に引きこもっている時に考えてたんだけど、どうだろうっ、あっ、」
すぐに笑顔でピースする。今この空間が、世界で1番平和だろう。
カシャリ
「間に合ったね。」
「さ、休憩終わり!」
月は一段と光輝く。
ーーーー
6F
蛍光灯の羽虫たちも、どこかに飛んでいった様だ。
「あ、あそこだよ。」
605号室。扉がいつもより大きく見えるのはなぜだろう。
「とうとう私の部屋の前ね、この便箋をポストに入れればいいの?」
カラカラ
「え?」
ついさっきまで、ぎこちない動きだった骸骨が、全身の重りを外したみたいに、手際よく私が持っていた便箋から中身を取り出し、先ほど撮り溜めた写真を私に押し付ける。
「手紙?」
便箋には手紙が入っていた。綺麗な字で、下の方には王子様のシールが貼られていた。
カラカラ
「読んでいいの?本当に私宛だったってこと?」
お疲れ様でした。あなたは全ての生き物になりました。あなたの魂は集約されて、再び星になる資格を得ました。これで、また宇宙として生き続けることができますね。さあ、ポストに写真を入れて、還りましょう。
「待って待って、私の空想は現実だったの?」
戸惑いながらも考える。私の考えたちっぽけな空想が現実で、この写真を投函すれば、全ての苦しみから解放される。けど、完全に死なないわけじゃない。かと言って、今、飛び降りたとしてもどうなる?また、1から苦しみが始まるの?でも、宇宙になるってそもそもなに?星座にでもなるの?いや、そんなことはどうでもよくて、1から始めるとしたら、死ぬほど苦しいことが必ずどこかで待っているはず。でも、結局ここに戻るのかな?
突然、ゴゴゴと世界が揺れる。
あの美しく輝かしい満月から、優しい女性の声がする。
ここは脆い。崩れれば、
あなたは永遠の無になってしまう。
月の方を見ると、まるで、クレーターに無数の目が散りばめられた様な、そんな真っ暗な恐ろしさが、全身の肌をこわばらせる。
「ねえ!お月様!宇宙になるってなに?なんなの?」
宇宙、それは、魂の宿らない全ての物になるのです。
火や天体、水に金属、電気に空気。あなたもかつては宇宙だった。けれどもあなたは望んで魂を造りあげた。
「意味がわからないわ!」
突然、空のコップから水が湧き出す様に徐々に記憶が溢れてくる。
そうだ。かつて私も宇宙だった。なんとなく、気まぐれで動く物を作って、そこに、私のかけらを少しずつ入れていった。その結果、生き物たちは私になり、私は生き物全てになった。喜怒哀楽、全てに私がいて、私同士で戦争をして、産み、産まれ、殺し、殺される。私が私を好きになって、嫌いになって。これは壮大な私の1人おままごとだ。
時間がないの早く決めなさい。
どうしよう。
いや、私の答えは、もう既に決まっていた。
「無になるわ」
そう…
そうなのね…
お月様は悲しそうに言う。きっと何兆回繰り返しても、私の答えは変わらないだろう。
激しく揺れる。
突然、骸骨が私の手を握った。
「今までよく頑張った。それと、ごめんな、今までなにも言えずに。」
それは優しくて、お風呂場じゃない、正真正銘父の声だった。
「父さん!」
「なんでさっきまで話してくれなかったの?」
「ごめんな、月が監視している間は何もできなかったんだ。」
「でも、これでいい。無になれば、もう何もない。」
「誰も泣かなくてすむさ。」
「もっとも、それは我々だけどな」
「そう、、なのね」
「無は怖いかい?」
「……いいえ、私はそもそも自殺しようとしてたんだもの。平気よ。」
「…手が震えているぞ。まぁ俺だって怖いさ。どうなるのか、こればっかりはわからない。おそらく、夢を見ない睡眠を永遠にし続ける様な物だろう。」
夢を見ない睡眠。なんとなくしっくりくる。でも、それはいい、今1番気になることがある。
「ねぇ、父さんはなんで死んじゃったの?母さんがいなくなったから?わたしに愛想をついたから?」
「プログラムなのさ。俺が死んだのも、母さんが死んだのも。未来は変えられないんだよ。月が仕組んだことさ。俺たちが生き物を完成させた後、月は未来を書き換えた。本当に1からやり直さなくて、本当に良かった。」
「そうなんだ。あっけないのね。私の自殺もプログラム?父さんの愛情もプログラム?」
「いいや、父さんは本当にお前を愛していたさ、それは母さんだって同じ。これだけは【嘘】じゃない。」
父さんはそう言って、昔みたいに、私の髪の毛をくしゃくしゃに撫でる。
「おとうさん、タバコ臭いよ。」
涙をいっぱい溜めて言う。
懐かしくて、優しくて、昔のまま父がタイムスリップしてきたみたいだった。
父が何か言いかけて、
そしてモニカたちは無になった。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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