第三話 【その日、外に出ていなければ】
――――水――水――
地面は真っ黒にすすけて、何もかも黒く染まっていた。
お願い――水――
手は空を握る。
ひとつかみする時には次のひとつかみを繰り返す。
そのひとつかみは、何かを掴もうとはせずに、
ただ、誰かに握ってほしかった。
心をゆだねるべき人に。
「水――水――お願いします――みず――みず――みず――みず――みず――」
たれるつばも、大きく開いたままの口からはあふれ出すこともなく。
ただ、つらかった。じっと我慢しかできなかった。
だって、指先すら感覚がなくなるほど身体がうまく動かないから。
ただ、つかむ。
指を曲げる。
力を抜く
指を曲げる。
「――――――――――たすけてぇ」
熱で乾いた口からは何も出ないくせに、
燃えるような涙だけが、あふれ出た。
それからチルは、自ら村から這い出していつも遊んでいた水源へと向かった。
どのくらい経っていたかわからない。
涙は、水にたどり着いても、止まるはずがなかった。
「ん――」
ソファで目を覚ました。
眠い目をこすりながら血行をよくした。
起きる前に夢心地で何かをつぶやいていた気がしたけど、まぁいっか。
顔を上げると、メリーとジルがこちらを見ていた。
二人とも何かを相談しているように、こちらを見ながら話し合っていた。
どうやって起こすか、悪巧みでもしていたのだろう。
残念だったな、こちとら起きてしまった。
「おはよ」
まだ眠い目を片手でこすりながら、何事もなかったかのように身体を起こした。
「あ、あぁ――おはよう」
「なに?」
「いや、なんでもない!なんでも!」
ジルはそそくさと上の階に上ろうとしたが、メリーが腕を組んだまま残ったので、足を止めた。
「チル、あんた」
メリーはつり目を少し緩ませて言う。
「大丈夫?泣いてたよ」
「え、まじ?」
「うん、けっこうガチ目に」
メリーでさえ無視できないほど号泣していたようだ。
恥ずかしい――
「寝言も――なんかいろいろ言ってたよ」
とても恥ずかしい。
「まじ――?」
無意識とは恐ろしいものだ。
「気にせんで、変な夢みてたから」
思いもしないことを口走った。
もしこれでメリーが好きとか寝言で口走っていたらえらいことになった。そんなことじゃないのに。
雨に降られてびしょびしょにコートが肌に張り付く。
その後、なんやかんやで酒場に行き、陰キャの二人と気が強すぎる一人によってパーティの誘いをしたが、無視されるわ、女子二人に関してはナンパすら返ってこなかった。
つまり、相手にされない、視野にすら入っていない。
どう頑張ったところで、結局は酒を買って金をはたいて家に戻り、丸一日無駄にしたという無念さと、これだったら一日フリーにしてみんなでお酒を乾杯した方がよっぽどよかったという後悔。
しかし、もうお金は戻ってこない、言い逃れできぬ、後悔。
いつもは姿勢が貴族のように良いメリーでさえ、ブーツを蹴り上げるように、底を擦らせながら猫背でオラついている。
「なんでかしら、しごく腹が立つんですけど」
「。。。ね」
俺ら二人は誰にも相手にされなかった苦痛と、「何してるんだろう俺って…」という情けない感情で心がいっぱいになり、視界さえも曇って歩くのがやっとだった。
結局、誰も捕まらないためゴブリン退治はひとまずやめて、ちょうどよくドアを開けて勝手に入ってきたドンも巻き添えに、育ちすぎたボアロース(でっけー豚)の退治を進めることにみんなで決めた。
今日は雨がパラパラ降っているのだが、それはあまり気にせず進んできたので、ぬかるみで靴がドロドロになってしまった。森深くに進んでゆき、ジルの導魔法がなければ、とてもじゃないが街に帰ることはできないだろう。
メリーは気にせず地面を踏み抜く勢いで先頭を切っている。ジルは先ほど水たまりに足を突っ込んでしまったので、余計に顔色がげっそりしている。ドンはいつも通り(前の時から機嫌が治ってよかった)ボーッとただ歩き続ける。
歩いて3時間が経過しているが、今のうちに生活費を稼いでおかないと、食事が満足にとれなくなる。
食事が足りないと身体が弱る。
身体が弱ると戦闘でぼろが出る。
だから、元気な身体の状態で討伐の任務を終わらせておかないと、蟻地獄のように持ち金がなくなっていく。
だからこそ、こんな雨の日でも任務にわざわざ出かけているのだ。
先頭を切っていたメリーは、チラチラと横目でこちらの様子をうかがっていて少しうざかったが、自分自身も気を遣って疲れたようで、「さすがに休憩しない?」と声をかけた。
俺らは三人そろって「賛成」と口から漏れるように二返事をした。
「座る?乾かすよ」
ジルは苔だらけの岩をきれいに苔だけ剥ぎ取って、お尻が触れる箇所に灼熱魔法で水を蒸発させていた。
道の端に岩が集まっている場所があったので、そっちに逸れて休息を取る。
俺は座らず立ちながら目をつぶって精神の小休憩をした。
4秒吸って、8秒吐き出す。
薄目を開けると、立って目をつぶりながら変な呼吸をしている俺を見て、二人は本当に混乱している。俺の瞑想は、俺が気持ちいいからやっているんだ、そんなに変に見つめても俺はやりたいようにやる。
にしても蒸れる。
ここは本当に同じ場所なのか疑うほど、さっきまでの道とは比べものにならないくらいムシムシしている。
日本の夏を思い出すが、もっと言うとラーメン屋でバイトしていたときの排水と冷房とお湯が沸いて、全てひっくるめてできる暑苦しさを思い出す。こんなに湿気があるから苔がこんなにも生えるのだろうか。
そういえば、ドンは俺と同じく目を瞑っておとなしかったが、くっちゃべってうるさかった二人とも急に静かになっている。
少しずつ目をうすーく開けていく。どうせ俺の瞑想の真似をしてケタケタ笑っているのだろう。
薄く見えてくる森景色に、似合わぬ肌色が目の前にぽつりと見えた。
これは目を開けていいのか、と思いながら、目を開けているのがばれないように黒目を必死にそちらのほうに向けた。
それは、ジルでもメリーでも、ドンでも誰でもなかった。
ばったりとそこには、紛れもなく、完全に、全くの…
「エ――」
「は…? え?」
『エルフ』は図星のくせに、何でいまここに人間がいるの?とでも言うかのように戸惑いを隠せていなかった。
簡素な白いワンピースを着ただけで傘を差しているだけの格好で、道中は違う格好をしていないと、これほど服が乾いているのは説明できなかった。何か儀式でもしに来たのだろうか?
ぴんと立つ尖った耳に、俺は物珍しそうにジロジロ見てしまい、エルフさんはみるみるうちに顔が赤くなっていった。それも、俺だけではなく他の三人からも驚きと興味の熱い眼差しを向けられているのだ。
激しい吐息を漏らしながら、エルフさんはぴゅーっと逃げてしまった。
俺とジルは目を合わせ、呆然と雨に降られている。メリーはなぜか眉間にしわを寄せて何かにぶち切れている。
「なに?挨拶もなし?なんだったの?」
相変わらずメリーの切れポイントは理解できない。
「なぁ、あれってエルフ…」
ふと、身体の重心がぶれた。
足が地面にとられた。ぬかるみに足を滑らせたのかと思ったが、そもそも地面もろとうごめいている。
みんなも立ち上がろうとするが、足がとられて膝をついている。すると苔がみるみるうちに地面から盛り上がってきた。
「いつの間にこんなに苔が…」
まずい…。
と思った瞬間にはすでに時が遅く、突如として熱気が地上から湧き出るとともに足が地面に飲まれた。
俺たちは奈落の中にゆっくりと飲み込まれていった。
「しくったな。。。どうするか。。」
ただの洞窟ではない。壁にはちらほら肉塊が見えており、そこに埃や落ちてきたゴミがへばりついて洞窟に見えるだけ。
実際は数千キロも続く肉の洞窟だ。
この世界では有名な観光スポットになる「フレッシュピット」と呼ばれている。
世界で見つかっているものは、俺が知っている中で二カ所で、その一つは観光地として安全面を考慮した施設が完備されている。
俺も異世界になれて金の余裕ができて観光に行ったことがあるが、整った施設でも死傷者がざらに出ているほど自然の厳しい環境だ。
一番怖いのが、実際に生き物なのか、体の一部なのか、どのくらいの大きさなのか全くわからないことだ。
それと、出ることが難しいとともに、怖いことがいくつかある…。
「チル!」
ジルが後ろから呼び、ふと思い出して後ろを振り返る。
彼女はがくがくと震えるメリーを必死になだめようとそばに寄り添って安堵の言葉をかけていた。
じめっとした洞窟にメリーの貫くような叫び声が反響する。洞窟がざまぁみろとあざ笑うかのように響き渡る。
「メリーっ! 落ち着け!」
手足をすべて使い、メリーは俺たちには見えない何かを遠ざけようと自暴自棄に体をくねらせた。
ジルも俺も、メリーが岩に手を打って怪我をしないよう押さえつけるが、アドレナリンで無我夢中になっている彼女の爪で頬も股もひっかき傷でヒリヒリする。
「あまり押さえつけるな。落ち着くまで好きにさせろ」
ドンは俺たちに、尖った岩からメリーを守るように指示しながら、メリーを見守った。
「大丈夫だ、じきに収まる」
メリーの苦しみ様から涙が出てきた。曇った視界からボロボロと大粒の涙がこぼれる。
ジルはそれを見てふと視線を落とした。
冷や汗でべっちょべちょになりながら、メリーは洞窟の壁を見つめ続けている。
俺たちには見えない、またその先を見つめ通すように。
視界にジルの心配そうな顔が映るが、音も視界もどんどん遠のいていく。
やがて、彼女の意識は水の中に落ちるように遠のいて、すっと消えた。