表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雪花

作者: 眞基子

 朝目覚めると、窓の外は東京で珍しい雪景色に彩られ、空からは白い花びらのような雪が舞っている。昨夜の厳しい冷え込みが演出した舞台。まだ薄暗い早朝、マンション五階の寝室で私はベッドから手繰り寄せた毛布で身体を包み込み、窓際のカーテンを少し開けて、その舞台を見つめていた。

 三年前のあの日、その舞台に相応しい雪国で私はその娘に出会った。それは神の采配としか思えない出会いだ。朝から抜けるような青空が雪山を被い、絶好の登山日和だった。東北にあるその山は夏なら気軽にハイキングができるような低い山で、登山を趣味としている私にとって、山とも言えない丘に毛が生えたようなところ。私はその週末に登る予定の八甲田山を前に足慣らしのつもりだった。だが、登り始めて三十分もしないうち、薄黒い雪雲が頭上で青空を蹴散らし、雪山が牙をむいて私に襲い掛かってきた。ちょっと行ってきますの感覚で低い山を舐めていた私は、重装備どころか街着のようなセーターにダウンジャケットと手袋、ナップザックにはタオルとミネラルウォーターとテイシュ、食料といえば飴くらい。そんな私に雪が重く伸し掛かり、吹雪が渦を巻いて私の足元を掬う。ピッケルさえ持ってこなかった私は、雪に抗えず谷に向かって落ちていった。どれぐらいの時間が経ったのだろうか。気が付くと私は小さな山小屋の床に寝かされていた。薄暗い小屋の中で薪が燃えるパチパチという音が、生きている証のように聞こえた。身体を起こそうとした瞬間、全身に痛みが走る。

 「動かないで」

 若い女の声が私を制した。

 「そうだがや。動かんほうがいいしょ」

 嗄びる声を出したのは老人のようだ。私は顔を慎重に動かし、声のしたほうに向けた。心許ないランプの灯りに、年老いた男の顔が浮かんだ。その横には若い娘の顔が揺れている。

 「ここはどこですか?」

 私は全身の力を振り絞って男に聞いた。

 「ここはワシの山小屋じゃ。あんたは、この下の木に引っかかっていたのを雪子が見つけたんじゃ。幸運だがや。そんじゃなけりゃ沢の下までまっしぐらに落ちとったろうから、まんず助からねがった」

 男が薪をくべると火の粉が一瞬あたりを赤く染め、娘の白い顔を浮かびあがらせた。くっきりとした顔立ちを、色の白さが際立たせている。娘が横に置いてあった鍋の蓋を取ると、狭い小屋に味噌の香りが漂った。

 「なんも無いけど、きのこ汁でも少し食べてみて。身体があったまるから」

 娘は小ぶりな丼に注ぐと私のそばに座り、匙で少しずつ私の口に入れた。それは身体の芯を貫き、凍えていた私の内を暖めるような感じだった。しかし、その感覚も下半身には伝わらない。私の足はどうなったんだろうかと不安が過った時、外から微かな機械音が聞こえてきた。

 「ああ、やっと来たが」

 男は小屋の扉を開けて出て行った。その瞬間、眩い光が飛び込んできた。

 「吹雪が止んだのね」

 娘は声を上げて外に出て行くと、窓を被っていた板をはずしていった。すると小屋の中は、真昼の明かりを取り戻していった。まるで、あの吹雪が虚実ではなかったのかと思わせるような光。その内、音がだんだん大きくなってきた。ヘリコプターが空中でホバリングしている音だ。男が救助を要請してくれたらしい。それから救助隊の人達が小屋に入ってくるなり私の下半身を固定し、運び入れたオレンジ色の担架に乗せ、すばやくヘリコプターに吊り上げていく。私は動かされるたびに痛みが走り、呻き声を上げた。男と娘に礼の言葉すら発する余裕は無かった。

 あの日から半年が過ぎ。全身打撲と大腿骨骨折という大怪我での入院、手術、リハビリに時間を費やした。その後、私はやっと会社に戻ることができた。あの事故は、私の山に対峙する甘さを思い知らされた出来事だった。迷惑を掛けた会社の人達に報いるために仕事に邁進することで、さらに時間が進んでいった。仕事が一段落してから礼を言わなければとの思いを抱えていた私は、あの山の麓にある村に行った。しかし、あの男、山元源治は風邪をこじらせ肺炎を併発し、あっという間に七十八歳で亡くなったという。またぎを生業にしながら、交通事故で亡くなった娘夫婦の娘、まだ幼かった孫の雪子を育てていたという。せめて雪子に礼の一言でもと消息を尋ねたが、個人情報保護法とのことで教えてもらえなかった。命を救ってもらった二人に一言の礼も伝えられずに、三年の月日が過ぎていった。

 「森野君、ちょっと来てくれ」

 島田課長が手招きをして私を呼んだ。私はパソコンでの入力を止めて、急いで島田の前に立った。私の勤める東高物産は大手の鉄鋼メーカーを中心に扱う中堅商社だ。国内はもとより海外へも進出している。入社して五年。同期連中の間でも移動の話がちらほら囁かれている。私が在籍している鋼管部特殊管課はおもに国内のメーカーを相手にしている。特殊管と言うように特別仕様の鋼管で、空港などの建設に使われることがほとんどだ。

 「確か君は大学のとき、フィンランドに留学してたよね。フィンランド語は元より、英語にも通じているし、海外事業部で君を欲しがってたんだ。しかし、人事の都合でいずれ行くことにはなっていたが、一先ず特殊管のノウハウをということでここに配属されたということだ。実は四月に海外事業部へ移動の辞令が出ることになっている。GSFが立ち上げたフィンランドのプラントのことは君も聞いていると思うが、その現場に我社からも応援の人員をと頼まれていたんだ。それには海外事業部の岡君が行くことに決まっていたんだが、急病になって入院してしまった。かなり長期になるらしい。辞令には二ヶ月早いが、代わりに行ってくれないか?なに、プラントが落ち着くまで一年位だろうから。まあ、手続きなど準備もあるだろうから、行くのは来週末ということで。独り身だから楽だろう。細かいことは、海外事業部のほうで聞いてくれ。よろしく頼むな」

 GSFは大手の鉄鋼会社で我社の親会社みたいなものであり、この件は我社にとっても大きなプロジェクトである。

 忙しい日々を過ごして成田空港から出発の日、出発ロビーで一人の女性と再会した、三年振りに。私は唐突に現れた女性を前に言葉を窮した。

 「私を覚えていますか?」

 一瞬とも言える短い時間。しかも、あれから三年の月日が流れている。しかし、女性は私を見つめて頷いた。

 「もちろんです。でも、あの時は偶然だったんですよ。窓を板で覆うために外へ出た時、吹雪の中から微かな声が聞こえたの。ここにいるよって。今でも不思議なんですけど」

 女性は三年の月日で、娘から眩しい大人の女性に変わっていた。私は今、伝えなければと少し焦って早口になった。

 「あの時は命を救っていただいてありがとうございました。まずは、自己紹介をしなければ。私は森野京太郎です。それから、おじいさんの事、ご愁傷様でした。あれから村の方へ行った時は間に合わず、お礼の言葉を伝えられませんでした。あなたの行方も分からずお礼も言えずにいました。でも、ここで会えて本当に良かった」

 「私は西村雪子です。おじいちゃんは、あっという間でした。でも、育ててくれてありがとうって伝えられたんです。うんうんって頷いてくれて」

 雪子は湿った声を出した。

 それから一時間後、私達はヘルシンキに向かう飛行機の中にいた。雪子はフィンランドの大学に留学するとのことだ。私は奇跡にも近い再会に感謝し、あったかい気持ちを抱えて雪花舞う成田空港を後にした。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ