欲求
「よぉ。学生の一人暮らしの割に良いところに住んでるじゃねぇか?」
玄関のドアを後ろ手に閉じながら、作弥は驚いている僕に対して話しかけた。固まってしまった僕だけれど、コップに注いでいたお茶が溢れたことでハッと意識を取り戻した。台所の床にこぼれたお茶を拭き取っている間、初めて僕の家にやって来たはずの作弥はまるで自分の家かのように冷蔵庫を物色し始めた。
「何だよ。酒もつまみも入ってねぇのかよ。コンビニでなんか買ってくるんだったな。お? 冷凍チャーハンがあんじゃん。これもらうぞ。良いよな?」
「別にそれは構いませんけど、どうしてアナタがここにいるんですか?」
「どうしてって、一昨日約束しただろ? 家に泊まらせるって。忘れたとは言わせねぇぞ」
「忘れてなんかいませんよ。むしろ僕からアナタに連絡したかったところですから。僕が聞きたいのは、どうして僕の家の住所をアナタが知っているのかということです」
僕はお茶を拭き取ったキッチンペーパーをゴミ袋に捨てると、お茶の入ったコップを手にリビングへ向かう。台所に残った作弥は食器棚から適当な皿を取り出し、冷凍食品を開封して皿に移しながら僕の問いに答えた。
「お前が自分で教えてくれたんだろ? 俺がしのぶを口説きにトイレから出ていく前。忘れたのか?」
「そうでしたっけ? あの時の僕はアナタが本当に彼女を口説くことが出来るのか気になっていて、どんな話をしたのかあまりハッキリとは思い出せないんですよね。僕が自分で言ったと言われれば、確かに言ったような気もしますし……」
「言ったんだよ。本当にお前、おかしなヤツだな。ところでどうよ? 俺のテクは? ものの数秒で落としてやったぜ。有言実行とはこのことよ」
作弥は勝ち誇るような笑顔を見せながらリビングへと入ってきた。台所の方からは電子レンジが稼働している音が聞こえる。ソファに座っている僕のそばまでやってくると、僕の手からコップを奪い取ってお茶を飲み干すとコップを僕に返し、ベッドで横になり始めた。しょうがないので、僕はまた台所へと向かいお茶を汲んだ。
「確かにすごかったです。でも、どうやってあの人を口説いたんですか? 少し目を離した瞬間に肩を抱きながら隣りに座ってましたけど」
「うぉぉい⁉ まじかよ⁉ 肝心な所を見落としたのか⁉ 俺がしのぶのビンタを受け止めたり、強引にキスした所を⁉ 全く、勘弁してくれよ。お前が見てるからわざと大仰にやって見せたんだぜ? それじゃあお前からしたら知らんうちに抱いて、知らんうちにベロキスして、知らんうちにお持ち帰りしたってことかよ」
「なるほど。攻撃を受け止めて、強引に迫ったっていうことですね。漫画でいうところの俺様系ですか。確かに、優男系と共に俺様系も人気があると聞いたことがあります。初対面の相手やナンパをするには俺様系で行った方が良いってことですね?」
「はぁ……。なんだよ。お前って的外れな分析ばっかりだな」
「的外れ? どこがですか? アナタが今言った言葉を端的に表せば俺様系で間違いないでしょう?」
ちょうど電子レンジが鳴ったので、僕はコップを持った手とは反対の手で温まったチャーハンの入った皿にスプーンを添えて、リビングへと運んだ。作弥は上半身を起こして皿を受け取り、ベッドに座ったまま五目チャーハンを食べ始めた。寝る前にベッドに食べこぼしがないかチェックしよう。そもそも、あのベッドを僕が使用出来ればの話だけれど。チャーハンを食べながら、作弥は僕の間違いを指摘し始めた。
「しのぶを口説く姿が俺様系とか言うよく分からんタイプだってお前が言うならそうなんだろうよ。俺が的外れだって言ってるのは、何でもかんでもカテゴライズしてテンプレ行動すれば良いって考えのこと。しのぶもお前に言ってただろ? お前が相手にしようとしているのは生きた女だって。皆がみな同じ対応で喜ぶなんてありえないんだよ」
「でも、雑誌とかでは〇〇系男子がモテるってよく言われてるじゃないですか? SNSでもモテる男性の特徴を挙げてバズっている投稿者が結構いますよ?」
「そんなの子供がアニメを見て友達とどのキャラが最強なのか言い合うレベルの話だろ。リアルとフィクションは違うし、そういう話題で盛り上がるヤツに限って実際は現実味のある行動を取るし、そういう話題に興味ないヤツに限って実際は妄想じみた行動を取るんだよ」
「そんな。それじゃあ、今までそれを信じて彼女を作ろうとしてきた僕はこれから何を信じて行動すれば良いんですか?」
僕の悲痛な訴えを無視して作弥は皿に残ったご飯をかきこむ。お腹いっぱい食べて満足したのか、空になった皿を床に置くとまたベッドで横になった。僕はめげずに話しかける。
「作弥さん。お願いしますよ。僕はどうすれば彼女が出来るんですか? 教えて下さい」
「うるせぇなぁ。気持ちよく寝ようとしてるのに話しかけてくるな」
「そんな事言わないでください。アナタが言ったんじゃないですか? 見本を見せてやるからナンパのテクニックを学べって」
「だからあのバーで見せただろう? 後は勝手にやれ。俺は知らん」
「そうはいきませんよ。僕はまだ何も学べていない訳ですから。むしろ今までの知識が無駄と言われて土台がなくなってしまったんです。アナタには僕が彼女を手に入れるまで講師をする義務がある」
「はぁ⁉ ふざけたこと言ってんなよ! ぶっ飛ばすぞ‼」
作弥がベッドから起き上がってこちらを睨みつけている。だが、満腹で眠いのかあまり迫力は感じられない。
「ふざけていません。僕は至って真面目です。アナタと交渉した時、あの場限りとは言いませんでしたよね? それならこれからもアナタは僕にナンパのテクニックを見せる必要があると考えます」
「なんでそうなるんだよ! ……いや、待てよ。ということは、今後もこの家を使って良いってことか?」
「僕は別に構いませんよ。アナタが僕の指導をしてくれるならいつでもこの家を利用してくれて結構です。友達や彼女を連れ込んでも良いですよ?」
「ほぉ。それは中々魅力的ではあるなぁ。毎日女どもの家に転がり込む訳にもいかないしな……。それに、近くにいれば雑用もこなしてくれそうだし……。良いだろう。その話、乗った。お前に彼女出来るまで俺が面倒を見てやるよ。ただし、俺のやり方に文句は言うな。疑問があっても俺の言うことに従え。そうすれば、いつかは彼女が出来るはずだ。分かったな?」
「わかりました。それではこれからも宜しくおねがいします。とりあえず、布団を出すのでベッドから降りてもらえますか? そこは僕が寝る場所なので」
「レッスンその一。客人は丁重に扱え。ベッドを使うのは客人である俺。布団を使うのは家主のお前。ちゃんと覚えておけよ?」
作弥はそう言うとベッドに横になり、すぐにいびきが聞こえてきた。僕はレッスンの通り、テーブルや家具を脇に寄せると布団を敷いてそこで眠りについた。
「夜にあのバーに行け」
そう書き残して作弥は次の日の朝には姿を消していた。せめて連絡先位は書いておいてほしかったのだけれど、無いものはしょうがない。僕はカバンに教科書やノートを放り込むと家を出て駅まで向かった。満員電車に乗り込み、五駅ほど先の大学最寄りの駅まで揺られていく。サラリーマンや学生に背中や腹を押されつつ、二分遅れているという謝罪の車内放送を聞きながら、僕は昨日の夜に作弥に言われたことを考えていた。
同じ対応をしてあげればだれでも喜んでくれる訳ではない。本当なのだろうか? 誰だって同じように優しくすれば喜んでくれる物じゃないのか? 例えば、僕が向かっている大学でも、沢山の学生に同じ教科書を使って同じような知識を与えようとしている。社会に出てからだって、周りと同じようなスーツを着て、周りと同じような時間に会社へ向かい、周りと同じような仕事をしている。出る杭は打たれるという言葉もある通り、人間は他人と同じ対応をされることが当たり前だと刷り込まれているし、それを望んで生活しているんじゃないのか?
自分が豊かになることよりも他人の足を引っ張ることを優先する人間性。他人との差がない社会。ナンバーワンでもオンリーワンでもなく、その他大勢でいることが求められる。だから簡単に恋人や友人はおろか、死がふたりを分かつまでと神に誓った相手さえもとっかえひっかえ出来るのだと思っていた。相手に求める外見や社会的地位なんて、結局は見栄や世間体を気にしているだけの話で、実際は代替可能なのだから相手のことなどどうでもいいのだと。
電車が大きく揺れる。前にいる女性の肘が僕のみぞおちに当たった。痛くて腹をさすりたかったが、満員電車で下手に手を動かして痴漢扱いされるのは御免だ。僕は痛みを紛らわせるため、歯を食いしばりながら周囲を見回した。ぶつかってきた女性も含めて全員が斜め下を向いてスマホをいじっている。ほら。やっぱり皆同じだ。他人にぶつかろうが気にせず、同じような格好でスマホに夢中になっている。これが社会の縮図だ。僕の考えは正しい。
だが、同時に分からなくなる。それならばなぜ僕には彼女が出来ないのだろう? 身だしなみや身につけている物には気をつけている。平均的な顔をしていると思うので、スペックで足切りされている訳でもないと思う。僕の何がいけないのだろう? 僕は皆の考えと同じで恋人になってくれればどんな相手でも構わないというのに。
「なんとなく予想はしてたが本当に来るとはな。そんなに彼女がほしいのか?」
大学での講義が終わって、一度家に帰った後、僕は作弥に言われた通りに数日前に行ったバーへと足を踏み入れた。時刻は十八時を過ぎたばかりだと言うのに、作弥は既に店の奥の席に一人で座っていた。僕が何も言わずに彼の向かいの席に座ると、作弥は呆れたような、そして少し関心しているような顔をした。
「当たり前じゃないですか。何のためにアナタを家に泊めたと思ってるんですか? もしこれで彼女が出来なかったら詐欺で訴えますからね」
「ハッキリと言い切ったな、おい。詐欺で訴えるったって、俺がお前に女を紹介するわけじゃないんだぞ? 俺のテクを吸収して女を口説けるかどうかはお前次第だ。そもそも、なんでそんなに彼女がほしいんだよ?」
「そりゃ、それが普通だからですよ。大学生なんだから恋人の一人や二人はいるのが当たり前です」
「なんだそれ。それじゃあなにか? セックスがしたいとか、恋愛がしたいとかじゃなくて、周りがカップルまみれだから自分も彼女がほしい。そういうことか?」
「はい。そうですがなにか問題で……、グッ⁉」
視界が右にズレ、歪む。頭に衝撃が走る。何が起きたのか一瞬理解出来なかったが、左頬から鈍い痛みが伝わってきたことで、僕は殴られたのだと気づいた。作弥は鬼のような形相でこちらを見ていた。
「やっぱりお前に俺のテクを教えるのはやめだ。こんなふざけた野郎に伝授するほど安くねぇ」
「どうしたんですか、急に? 何か気に入らないことでも言いましたか?」
「気に入らないもクソもあるか! 周りに合わせる為に彼女がほしいだと? ふざけるな! いいか? 女ってのは他人に見せる為の装飾品なんかじゃねぇ。てめぇの為の所有物なんだよ。だからこそ本気で手に入れたくなるし、本気で守りたくなるんだ! お遊び感覚で手を出して良いもんなんかじゃねぇんだよ!」
「別にお遊びで言っているわけじゃないですよ。彼女がほしいって言う気持ちは本気です」
「いいや。お前の本気は本気とは程遠いね。それじゃあ、なんでお前は前回ここで俺に詰められた時、口説くのを止めたんだ? 本気で女を口説くつもりなら俺に何を言われようが、何をされようが引き下がらないはずだろう?」
作弥の言葉に僕は返事に困ってしまった。彼が口説き方を教えると言ったから、あの時の僕は彼の言うことを聞くことにした。別に相手はあの女性ではなくても良かったからだ。だが、作弥の言っていることを踏まえると、誰でも良いという考えは駄目らしい。誰に邪魔されてもめげることなくアタックをしたくなる相手。初対面の人物にそんな感情を抱くだろうか?
「それではアナタは本気で手に入れたい相手しか口説かないってことですよね? どうやって判断しているんですか? 相手がどんな考えや性格をしているのかもわからないのに」
「そんなの簡単だろ? ヤりたいかヤりたくないか。相手を選ぶ基準なんてそれだけで充分だ」
「発情期の猿ですか? そんな下半身だけで判断するなんてそれこそふざけてますよ」
「どこがふざけてるんだ? オシドリのオスがなぜあんなに色鮮やかな姿をしているか知ってるか? オスのシカの角があんなに立派な理由は? 強いオスライオンに何匹ものメスが付き従うのは? オスは他のオスよりも優れていないとメスと交尾することは出来ないんだよ。だからこそ、繁殖をしたいオスは他のオスを出し抜くために進化を重ねてきた。性欲は生物の存在意義に関わる重要なファクターなんだ」
「それは動物の話じゃないですか? 性淘汰される心配のない人間は野生の生物とは違います。それに理性もありますし、感情もあります」
「分かっていないなぁ。理性や感情なんて原初の欲求を理解し、肯定し、否定する為だけに名付けられたただの言い訳だよ。否定したいなら、生理現象を抑えて生活してみな。性欲だって立派な生理現象だ。性欲を否定するなら、食欲や睡眠欲だって否定しないとおかしいだろ?」
それはあまりにも極論すぎるのではないかと僕は思った。社会的動物であり国やシステムに生命を保証されている人間は欠乏欲求よりも成長欲求を優先する傾向にあると聞いたことがある。人間が生理的欲求を隠そうとするのも、必要最低限の欲は満たされているので、より高次な、満たされることのない成長欲求を求めるからだと。だが、彼の言っていることをよくよく考えてみると、なんだか腑に落ちた部分もある。恋人なんて代替可能な存在だからこそ、より低次な、最低限しか満たされていない欠乏欲求を相手に求めるのではないだろうか?
「アナタの言いたいことはなんとなくわかりました。僕の考えが甘かったです。その上で質問させてください。僕が女性のことを本気で好きになれると思いますか?」
「どうだろうな。あくまで俺から見たお前の感想になるが、昨晩家を見た限り、お前は中身が空っぽだ。服や装飾品、家具に本。全部がありきたりでお前の趣向や考えがあまりにも無い。話す内容もテレビや本の受け入りばかりで、お前自身が何を話したいのかが分からん。中身のないヤツに本気で人を愛することが出来るとは到底思えねぇな」
「そうですか……」
「だが、それはあくまで現時点での話だ。お前が色んな人間や様々な物事にぶつかって、芯のある人間になることが出来れば、人を愛することが出来るし、女も自然に出来るようになる。俺はそう思うぜ?」
「色んな人や物事を経験しろ、ってことですね。でも、そんな事言われても何からやれば良いのか……」
「分かったよ。ここまで話をして知らん顔をするのも気がひけるし、俺がお前に経験を積ませてやる。口説き方を教えるのはその後だ。とりあえず、最初の経験だ。今日はここで酔いつぶれるまで酒を飲むぞ」
作弥はそう言って、マスターにお酒を注文した。何の経験になるのかはわからないが、僕は目の前に出されたお酒を飲むことにしたのだった。
それからというもの、僕は暇さえあれば作弥と行動を共にした。暇と言っても毎日ではない。彼は僕に連絡先を教えてくれないので、彼がバーにいる時か、彼が僕の家にやってくる時しか会えない。僕の家にやってくるのは週に一回か二回だが、彼女を連れてきても良いという僕の言葉に従い、明らかに年上の女性と共に彼が家にやって来た事があった。性行為をするから二人だけにしてくれと言われ、僕は事が終わるまで玄関の外に座って待っていると、ドアが少し開いてなぜそんな所にいるのかと作弥に尋ねられた。家の鍵は一つしかないからだと僕が答えると、その回答が気に入ったのか彼は笑いながら家の中に入れてくれた。
タバコを吸いながら語ってくれた話では、普段は恋人たちの家で寝泊まりしているらしい。恋人たちという言葉が気になり何人いるのかと僕は尋ねたが、恋人の名前を呼びながら数える彼の指が三回ほど折り返した時点で僕は聞くのを止めた。
作弥は上機嫌だと饒舌になり大概のことは笑って許してくれたが、不機嫌だと露骨に口数が減りほんの些細なことでも殴ったり蹴ったりしてきた。それは僕に対してだけではなく他の人たちにも同様で、友人と僕に紹介してくれた男性たちや恋人と呼ばれた女性たちにも暴力を振るっていた。だというのに、なぜだか彼の周りからは人は減らず、むしろ友人や恋人がドンドン増えているようだった。一体彼の何が人を引き付けるのだろう? 一緒にいるのに僕にはさっぱり分からない。分からないが、彼に任せればなんでも上手くいきそうな気がした。その期待感は恐らく数日前にいつものバーで起きた揉め事から起因しているのだと思う。
その日は彼や彼の友人たちと一緒にお酒を飲んでいたのだが、大量にアルコールを摂取してしまったことから彼の友人の一人がトイレに行く途中にコケて、人相の悪い黒服の集団にぶつかってしまった。呂律の回らないその友人の言葉は相手方にはどうやら調子に乗っているように映ったらしい。友人の胸ぐらを掴んで外へと連れ出そうとする黒服たちの目の前に作弥が笑いながら現れた。悪気がないから許してくれないかと、まるで親しい友人に話しかけるかのように黒服の肩に手を置き話しかけた。ターゲットが友人から作弥へと変わった黒服たちは店内だというのにも関わらず、その場で作弥を殴り始めた。四人か五人くらいにリンチにされている作弥だったが、驚くべきことに彼は笑っていた。腹や顔を殴られ、蹴られ、苦痛の声をあげながら、血反吐を吐きながら、彼は笑って謝罪し続けた。いくら痛めつけても態度を変えない作弥に黒服たちは根負けしたのか、それとも気色悪がったのか、何かをわめきながら足早にバーから出ていった。友人たちが作弥に駆け寄ると、作弥は一言、店のマスターに清掃費用はツケにしておいてくれと言った。
お読み頂きありがとうございます
一応次の話で完結させる予定ではありますが、長くなってしまう場合は途中で分割するつもりです
サイコな方向性が今までとは異なる上に、キャラクターの思考や言動を表現するのが中々大変ですが、その分これまでとは違ったストーリーを展開出来ているのではないかと思っています
引き続き読んで頂ければ幸いです