散歩
何故だか、その河原には引き付けられるものがあって谷間の川だからに違いないのだけど、そのエメラルドに輝く水面に何時か立ち寄りたいと思っていた。暇はあれど、そんな事をするにはそれなりの何かが必要で、もう若者の終わりに近づきつつある年齢の自分には、何の理由もない散歩を知らない土地の自然しかないような地で、するには億劫だった。散歩のしがいはありそうな、興味を引くものはあれど、そんな若さを出すのも結果が知れていると思った。嫌、何より若くないから散歩をしなくなって、老いてもないから散歩をしないのだろう。散歩ごときに、何かを期待して、その期待が外れるのを恐れていたし、その期待が馬鹿馬鹿しく、足かせだった。
その若さとは、どうでも良いことをどうでも良く感じることだろう。其れを感じた処で、だから何なの?と他人に問われる、その程度の見返りの事、いや、何のあてにもならない事をして、自己満足に浸ることがアホらしいと思うだけだと思っていたし、思うのだろう。
女性に疎い自分は、そんな期待をも抱くだろうし、その事も馬鹿らしく、または端からしたら気持ち悪く思われるだろうという、詰まらない自意識を持ち続けているという事に目を向けるのも嫌であったし、そんな思いもなくはなかっただろう。
例えば、偶然すれ違う女性が心引かれるような人であったなど。
分かりやすい期待を、田舎の見知らぬ土地の田んぼや林やぽつぽつと林立する趣ある民家なんかの佇まいをよそ者らしく不躾に眺め歩いていたりした時に、年頃な女性と出会したりしたら、無駄に意識をしてしまう。其れが田舎故に、その希少性が、存在の強度をましてしまう。
其処まで大袈裟に気に病んでいた訳ではないが、良い歳した大人が、一応、目的もなくふらふらとふらついて、キョロキョロと辺りを眺め、草むらをつついたり、木の棒を振り回したり、空き缶を蹴って遊んでいる。しゃがみこんで側溝の中を覗いたりしている。
人が前から来るとそわそわしたり、意識しているのが丸わかりなのにチラ見するだけで、目を合わそうとしない。
まぁ、其れは自己卑下的に今述べているだけで、要するにそんな気持ちを事後的に思うだろうことも、経験則的に詰まらなく体感してきていて、ふわふわとした曖昧な感覚の感慨とまではいかない風景に対する意識の上っ面、表面的な無意味な蓄積のない表層を感じる行為、
そういったことを此れから期待して出掛けるのだなと自分は思ってしまって、嫌になるのだろう。
たかが散歩に何をそんなとお思いかもしれない、そう、だけど要するにたかが散歩に期待している、見返りを求めている自分がいる事を感じてしまうのが嫌になるし、理由なく反動的に、或いは衝動的に、或いは本能的に、何かをするほど恐れ知らずでは失くなってしまった
のである。
都会なら話しは別だと思う。あらゆる誘惑が自分を誘うし、未知の歓びに溢れている。何の糧になりはしないとしても、新しい物を目にするのは、刺激的である。
車が通行する鉄橋が川に掛かっており、時間を持て余した私は、思いきって自宅へ続く坂を上らずに橋を渡った先の川沿いの道へ行ってみることにした。その橋ともう1つの橋を使って、私は移り住んだこの地で、もう何度もその川が敷いた境界線を往復した。山を越えた、降りたというには良い過ぎなそれなりの坂道の下にある車で数十分で着くくらいの距離の電車の通る駅のある街と、その市内の山あいの町、説明能力を乏しさを無視して説明すると、此の街は、遠方に聳える山々に四方を囲まれた私の育った街と比べると、街そのものが山だった。其れほど、坂の多い街で、その坂の多さが区切り区切りで1つの小さな町並みを民家が数件並んだだけの一画でさえ、異なった特色を小さな町並み毎に携えているように思え、又家々が古かった。只、古いだけでなく、古く生き生きとしていた。おんぼろという意味の古さではない。勿論、ガタは来ているのであろし、不便ではあろうが、生活を携え、ちゃんと今に生きており、置き忘れられた家々でもなかった。
その橋の下には、水平に横たわったなだらかな川が続いていた。
私が普段目にしてきた川は、川幅の広い痩せた川であり、白い砂利が川を貧相に、寂しげに見せていた。台風や雨の日の次の日に、淀んで満たされる川、都会とは比べものにならないが、地方都市の中にある川は、親しみと癒しと憧れを湛え、薄汚れて下品でもあった。人の垢が付いていた。
道を曲がると大きなダンプ何台か停まった駐車場がある採石業者か何かの敷地が右手にあり、左手に駄菓子屋のような横っぴろく伸びたように見える民家があり、その裏手を斜面が反っていて、古い民家が数件並んでいた。その手前の駄菓子屋のような民家(赤い庇があったような気がする。)の手前に、赤い小さなポストがあった。丁度何処かで出す予定だった郵便物を出すために、車を路肩に停めて投函した。そそくさと車に戻り、辺りを見回す。民家と低いブロック塀の間に人が通れるだけの小道が斜面に延びていて、一本の木のように道が枝分かれしている。その細い転がるような路地を見ながら、最近見たあの映画のように一本取りの映画のシーンを撮っている自分を想像する。ちょうど、こんなような風景のある町並みだったと思い、あぁ其れはその映画の事がひどく心に残って観た、その監督のデビュー作だったと思い出す。
途中からノーカットに切り替わるその映画を見たその日に見た夢がどうしてもその映画を印象づけてしまった。むしろ、その映画が印象的だったからその夢を見たのだけど、その夢を見たからその映画が特別な印象を心に刻んだんだと思う。何せ、夢はその映画を見て感じたものその物で、その夢はその映画の丸パクリだったから。
私は、丸パクリの夢を、その映画を見たすぐその夜に見させられた事に驚いた。何せ、映画の世界そのもの、監督の意識を表現した形としての映画の意識そのものを、私の夢に転写させられたと思ったからだ。実際に映画を観ている時は、前のめりに見ていた訳でもなく、ちょっぴりこっぱずかしささえ、感じながらも、誰かの意識の中を見させられている、そんな気分になって、小説で良いんじゃないかなんて思ったりもしていた。不思議な気分、いや、その映画の雰囲気を何処か抱えたまま鑑賞を終えたはしたが、まさか夢で彼処までひっぱられるとは思いもしなかった。
私は、駄菓子屋を過ぎて、二股に、足を全開に開脚しているような 分かれ道に差し掛かり、取り合えず目の先に見える車一台だけ通れそうな崖と斜面に挟まれたガードレールの白いペンキが木の枝葉に掛かり所々見えなくなった道を突き進んだ。
車から身を乗り出すように窓を開けて白いじゃり浜の向こうのエメラルドと透き通った水色の水面をゆっくりとしたスピードで車を走らせながら逃げないように眼で追っていた。
途中道幅が膨らんだ道の脇に車が停まっており、男が一人背中を横向きに少し傾けて何かをしていた。
何をしているかわからず仕舞いで男が此方を振り返ったので視線を戻して、途中で道が膨らむ緩やかな傾斜道を少しずつ上り続けると、道が河原へと下る車1台分の幅で、土が露になって続いており、途中で倒木が道にアーチのように掛かっていた。その道の差し掛かりに、看板が立っており、xxダム湖放水の際に水が放出される場所で在ることと、サイレンが鳴ること等が書かれていた。
其れを確認し、慎重に停めた車から降りて川原へと足を踏み出した。降りる際、来た道からK自動車が道を上がってきて、向かい合わせに宅急便の車が降りてきた。私は、ドアを開けて足を地に着けて背中越しに其れが道の先の車寄せを使い、すれ違うの確認してからいよいよ川原へと向かった。
途中斜面から水がチョロチョロと湧き水のように流れているのを認めながら、胸の辺りに掛かる倒木の木の下を潜り、砂浜に出た。
砂浜は、川から一番遠くにあり、その次にでかい石が並び、小さい石が並んだ。
帰り道、私はボウフラと小さい海老似た虫の幼虫のような生物を見付けただけで、透き通った手の先の川と奥に広がるエメラルドの水面と奥の切り立った崖やその斜面や川岸なんかに、バイオレンスやエロティックな想像を、味のしないガムを噛むようにし、名前の知らない実が成る木を手の届かぬ頭上に見咎め、孫悟空のように遠くに掛かる橋を通過する車の小さい流れを雲海のように見つめ、手足を使ってぬかるんだ大小さまざな石ころが並ぶ河原を猿のように歩き、案山子のように躍りながらバランスを取った。高い岩石が白壁となればよじ登り、川の先、太陽の日差しが斜めに掛かった金色の水面の行方を追った。岸と岸の間の岩の滑らかな肌艶、その陰部の水面に巣食う魚の群れ、頭上で鳴り響く彼岸の空のジェット機のように飛ぶ飛行機の翼を見送りながら、悪い想像を膨らませ、その悲惨さと劇的さに心を馳せた。何もせず、ただただ水面を見つめた。山間の木々の向こうから日が雲間を抜けて差し込む光が、暖かく、まるで生物の見当たらない処女のような川面の底できらびやかにつるりとした平たい大きな石に波の紋様を幾度も繰り返し作っていた。色の無い鮮やかなきらめきだった。
帰り道、川に沿って途中で無くなっていた砂浜の所まで戻ってくると、斜面との間の丸石に何か生物のような物が横たわっているのが目についた。それは、うつ伏せに身体を伸ばした鳥の姿であり、スズメ以上ハト未満の体長の其れは、どうやら死んでおり、尾の間から黄色い足が見え、羽は川の色と良く似たエメラルドの羽が混じっていた。
私は、最初はて来た時には気付かなかったのかと疑問に思い、もしや、まだ息絶えて間もないのかもしれないと思い、その木の枝か何かでつついて絶命を確認すると、体温を確かめてみた。
温もりは無かった。しかし、冷たさも感じはしなかった。
果たしてどうして死んだのか、気になった私はその鳥をずらして見た。見ると、小さく乾いた血の染みが頭の下に在った石の部分に着いており、足元の部分にも恥の乾いた点点とした染みがあるにはあった。木から落ちたのだろう。回りを見ると、すぐそばのおおきな石にもそのような染みが多めについており、そして良く分からない大きな染みか何かが瓜のような形で出来ていた。少なくとも最後の死ぬ間際の存在が其所にはあった。
僕は、供養した方が良いかもしれないと思い、又、仰向けにしてもっと状態を克明に見てみるべきかもしれないと思った。
もしかしたら、もっと実は悲惨な状態になっていたり、お腹が膨らんで赤ん坊がいるかもしれない、そしたらもっと現実を学べるし、心に来るものがあるかもしれないと。
そういう期待をうっすら抱いたかもしれない、その気持ちをそっと抑えてそのまま、その場所を後にした。
歩きながら、石の上で朽ちていく鳥の事を考えた。成仏ではないが、誰にも食われずに置き去りされて、死体という形でこの世に留まるかもしれない鳥の事を考え、そんな事は起こらずにどんな形であり、あの鳥は朽ちて何かの一部になるのだと。
あの倒木の前に差し掛かった時に、まじまじと倒木を見つめた。
なにせ丁度目の高さにある其れは、来るときは只の景観で障害物に過ぎなかった一つの象で、倒木というフィルムとネームを全身に張られた中身の無い抽象物だった。今目の前にある其れは、木の皮が剥がれ、焦げ茶色く土のようになった木の中身が丸々見える虫に食い荒らされて尚、朽ち果てる素振りなどない、白い髭のような苔を生やした、幼少期の虫取を懐かしませる木で、子供が喜びそうな木だった。
せの木を頭を潜らせて渡り、振り返り木の痛みのない太い枝の先などを見回して、私は車へと戻った。
車を手こずりながら反転させて、来た道を戻る道すがら、川面を木々の梢の間から何となく見つめていると、水面をVの字の線が緩やかに流れているのが見えた。何だろうと、目を凝らすと先程見つけた鳥のような羽をした鳥が確かに波を作り泳いでいた。
ふと、あの鳥の片割れかもしれない等と思ったりしながら見ていると間隔を開けて一羽二羽と続いていた。
その先の中洲では、白鷺のようなすらりとした首の長い全身白色の鳥が此れも間隔を開けて、四羽ほど、水面に近い処で此方に背を向けて並んでおり、丁度手前の岸に一羽、茶色い羽をした大きな鳥が飛び降りようとしていた。
足を大きく反対方向に向けて伸ばしてストレッチしているみたいな二股の道の川沿いの道の先で、橋より向こうの処で重機が川岸で、鈍い音を立てて動いていた。