第8話 絢瀬セナ
息が詰まる。身体中が熱くなって、背筋にだらっと嫌な汗が伝っていくのを感じた。
知らない――て顔を背けてしまえばいいのに。スマホの画面に向けた視線さえ動かせない。画面の中でこちらを見つめる彼女に呪いでもかけられたかのように、俺は凍りついてしまった。
なんで? なんで、今、ここで『妖精』の……絢瀬セナの名前が出てくるんだ?
「俺はここが地元じゃないからよく知らねぇんだけどさ。お前は、家、この辺なんだろ。昔、アイスホッケーやってた、て言ってたし……もしかして、セナちゃんと一緒に練習したことあったりしねぇのかな、て思って」
こちとら、氷上の格闘技。リンク全面を使って優雅に踊るフィギュアと、どうやって一緒に練習するんだよ。相撲取ってる土俵でバレエを踊るようなもんだ。お互い、邪魔で仕方ない。――そう言ってやりたいのに、口が貝のように閉じたままぴくりともしない。
そんな俺の様子に気づいてもいないのだろう、遊佐はどこかソワソワと浮ついた声で続ける。
「もし、知り合いならさ……紹介してもらえたりしねぇかな」
「――は!?」
ようやく出た声は、情けなく上擦っていた。その途端、やっと呪いが解けたかのように体に自由が戻って、ばっと俺は顔を上げた。
「紹介……!? なんで……」
「なんでって……」と遊佐はなんとも品のない、だらしない笑みを浮かべた。「可愛いじゃん。お近づきになりたいじゃん。カノジョほしいじゃん。モデル友達とか紹介してほしいじゃん」
「下心しかないな!?」って、そこじゃない。「なんで……いきなり、絢瀬セナなんだよ。つーか……別に、知り合いじゃねぇし……。フィギュアと一緒に練習なんてしねぇから」
「でも、この辺にスケート場なんて一個しかないだろ。練習してた場所は一緒なんじゃねぇの? 見かけたことくらいねぇの?」
うっ……と俺は言葉に詰まった。遊佐のドヤ顔が実に腹立たしい。無駄に利発そうな顔立ちをしているせいで、まるで犯人を追い詰めた探偵のそれだ。
「知り合いじゃないとしてもさ、話のきっかけにはなるんじゃね? あそこのスケート場の氷は良かったよね〜、みたいな」
「いや……まじ、ムリだから! 話のきっかけも何も……話せねぇよ!」
「あ」と、ふいに遊佐は思い出したように惚けた声を漏らし、顔色を曇らせた。「そっか、お前まだアレやってんのか。女の子苦手キャラ」
「キャラじゃねぇよ!」
「面倒クセェなー、もう。こじらせやがって。――分かった、分かった。お前は突っ立ってればいいからさ。俺がお前をダシにうまいこと話すきっかけを作るわ」
「だから……知り合いじゃねぇんだって。連絡先も知らないんだよ。そもそも、会えねぇの!」
会いたくもねぇけど――と、心の中で付け加えながら、はっきりとそう言い切ると、遊佐はぽかんと口を開けて固まってしまった。
ようやく……黙った、か。ほっと俺は胸を撫で下ろした。
納得いかないような表情をしてはいるが、一応、俺の話を理解はできたようだ。といっても、俺が『妖精』と知り合いじゃない、という……それだけの話だったんだが。
なんなんだよ、と呆れと疲れの混じったため息が漏れた。
なんで、いきなり『妖精』と知り合って、モデルの女の子を紹介してもらおう、なんて妄想をはじめたんだ? 遊佐にしても突拍子なさすぎる。春の陽気のせい? それとも、カノジョが欲しすぎて、煩悩に脳みそ乗っ取られたのか?
なんにせよ、『妖精』の話をするのはこれっきりにしてほしいもんだ――と苦笑する俺の傍らで、
「あ。もしかして……お前、知らねぇのか」
ふと、遊佐が呟いた。
「今朝、地元の奴が廊下で騒いでてさ……それで、俺も知ったんだよな。だから、この辺の学生なら、皆、知ってるのかと思ってたんだけど……」
「何の話だ?」
「絢瀬セナ、ウチの高校に入学したんだってよ。一年六組だって」
ガタン、と教室に響き渡る音を立てて、俺は立ち上がっていた。
もう少しでホームルームが始まろうというとき。新学期を迎えて沸き立ち、ガヤガヤと談笑していたクラスの連中が、何事か、と一斉に俺のほうを振り返った。遊佐もさすがに驚いた様子で目をぱちくりとさせて、こちらを見ている。
俺はごくりと生唾を飲み込み、必死に平静を装いながらゆっくりと口を開け、
「保健室に……行ってくる」
絞り出したような声でそう言った。