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第4話 微熱

 カラオケボックスを出ると、外はもうすっかり日が傾いて、狭い路地はどっぷりと濃い影に浸かっていた。

 空は赤みがかって物寂しく、哀愁を漂わせ、言い知れぬ焦燥感を煽る。

 そんな中、部屋を出てからずっと無言で前を進んでいた香月が歩道に出るなり、ぴたりと立ち止まり、


「ダメだ、我慢できない」


 苦しげにため息吐くと、ばっと勢いよく振り返った。


「誰にどこをどう触られたの?」

「は……!?」


 いきなり、何を訊くんだ!?

 ぎょっとして身を引く俺に、香月は大真面目な顔で詰め寄ってきて、


「合コンで、誰か女の子に……身体、触られたんだよね?」

「ちょ……!」


 歩道の端っことはいえ、公道でとんでもない詰問をされ、俺は思わずあたりを見回してしまった。

 大通りから外れた狭い路地で、カラオケボックスの周りにはスナックやら飲み屋やらが連なり、まだ賑わう時間帯ではない。たまに車が通り過ぎるくらいで、幸い、通行人も見当たらない。

 ひとまずホッとする俺をよそに、


「ごめん」と香月は声を落として続けた。「さっき……皆の前でも聞いちゃって。誰かに触られたのかな、て思ったら、気になって……我慢できなかった」


 視線を戻せば、赤く照らす夕陽のせいなのか、俯く香月の表情はひどく憂いに満ちているように見えた。

 さっきまで、カラオケボックスの通路をズカズカと足早に突き進んでいたのが嘘みたいだ。どことなく乱暴な足取りは苛立ちさえ滲ませているようだったのに。そんな勢いはどこへやら。目の前の香月はしゅんと沈み込んでしまって、今にも消えてしまいそうな儚さがあった。

 たちまち、抑え込んでいた罪悪感が一気にこみ上げてきて、喉が詰まるような息苦しさを覚えた。

 最低だ――て、自分の浅はかさに心底辟易した。


 これまで、何度もあったことだった。

 『カヅキ』と一緒にいれば、どうしても女性の注目を浴びてしまうから。逆ナンなんかもよくあって、思いがけず、『カヅキ』目当てのオネーサンに「ねえ、君」なんて軽いノリで肩とか腕とか触れられたりして。その途端、動悸に目眩、貧血、吐き気が一緒くたに襲いかかってきて、ひどいときには蕁麻疹が出て腫れるほど掻きむしった。

 そのたびに、『カヅキ』は俺の腕を引っ張って、人気のないところへ連れ出してくれた。

 中一のときから、ずっとそういう関係だった。

 だから、『カヅキ』も慣れたもんで、まるで運動会の借り物競争のごとく、ちょっと楽しげに俺を引っ張っていくその背中は、恨めしくも頼もしくもあった。


 でも……そんな香月だからこそ――だったんだ。

 俺の()()をよく知る香月だからこそ、俺の体調が悪い、と聞けば、きっと人一倍心配になるんだよな。だからこそ、あのとき、真っ先に俺のもとに駆け寄って来て……一緒に帰ろう、とまで言ってくれたんだ。今だって、こうして真剣に詳しく事情を聞こうとしてくれて。 

 それを、俺は――。

 別にどこも体調が悪いわけでもないのに。俺は遊佐の芝居に乗っかって、香月を合コンから連れ出して、護と引き離したんだ。ただ、自分が厭だからって……そんな子供じみた理由で。俺を心配してくれた香月の優しさに付け入るような真似をした。


「香月、ごめん」迷いも躊躇いも断ち切るようにはっきりとそう言って、俺は香月を見つめた。「誰かに触られたとか……そういうんじゃないんだ」


 すると、香月はきょとんとしてから、小首を傾げた。


「じゃあ……誰にも触られてないの?」

「触られてないし……そもそも、体調も――」


 言いかけた言葉を、香月は「良かった」とほっと安堵のため息吐いて遮った――かと思えば、


「って……良くない!」ノリツッコミのごとく切れよく言って、香月は俺のほうにぐっと詰め寄ってきた。「触られたんじゃないなら……なんで体調悪いの!?」

「だから、体調が悪いっていうのも誤解で――」

「もしかして、熱でもある!?」


 いや、聞けって――そう言う隙もなかった。

 気づけば、するりと滑らかなものが前髪の下に入り込んできて、額にひんやりと冷たいものが当たっていた。

 あ……と、息が止まった。


「んー……」


 目の前で、悩ましげな表情で目を伏せながら、香月が自分の額を押さえていた。そのもう一方の手はこちらに伸ばされていて……。

 心臓が激しく鼓動を打ち鳴らし始めていた。全身を巡る血がどんどん熱くなっていくようで、頭がぼうっとして今にもぶっ倒れるんじゃないかと思った。

 だからこそ、余計に。額に感じる、香月の冷たい手の感触が心地よくて――。

 それだけで、罪悪感も吹き飛んでしまうようだった。仮病だろうがなんでもいい。もう少し、こうしていたい、てそんな欲だけが頭の中を埋め尽くしていくようで……。


「どうなんだろ……ちょっと熱い、かな。ごめん、私、平熱低くてよく分からな……」


 ふいに香月は視線を上げると、俺の顔をちらりと見やり、「あ」と目を丸くした。


「陸太。その顔――」


 警戒心なんてまるで無い惚けた顔で香月がぽつりと何かを言いかけ、俺はぎくりとして、「熱なんてないから!」と思わず、香月の手を払いのけていた。

 あ、しまった……と思ったときには、香月はさっきまで俺の額に当てていた手を胸に置き、驚いたように目を丸くしていた。


「ごめん。つい、夢中で……触っちゃった。無理がない程度に試していこう、て話したばっかりだったのに。嫌だった……よね」


 いや、違う――て、言いたくても言葉が出てこなかった。

 嫌……どころか。

 身体中が熱い中、額だけがまだひんやりとしている気がして。そっと触れた柔らかな手の平の感触が、もう恋しいくらいで。

 こんなこと、初めてで。どうしたらいいのか分からなかった。もっと触って欲しい、なんて……。言えるわけがないだろ。


「陸太、大丈夫?」


 おずおずと訊ねられ、とっさに顔を逸らしていた。


「大丈夫……」と答える声は不自然に上擦る。

「でも、つらそうだよ。やっぱり、熱ある?」

「熱とか、ないから。てか、体調も……悪く無くて」

「んー? でも……」

「全部、遊佐の悪ふざけ……か、嫌がらせか。よく分かんねぇけど。とにかく、全部、勘違いで、俺はなんともなくて……」


 って、何をもごもごと言っているんだ、俺は!? 遊佐がどうのとかじゃないだろ。もういい加減、はっきり、仮病だ、て伝えねぇと。

 ぐっと拳を握りしめ、「あのな、香月――」と振り返った瞬間、


「じゃあ」と不思議そうにじっと俺を見つめる香月の顔がそこにあった。「その顔、なに?」

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