第6話 衝動
ぞくりと背筋に悪寒が走り、
「遠ざけてなんか……」
咄嗟にそう言いかけ、俺は言葉に詰まった。
思わず、香月に伸ばしかけたその手に、まだ感触が残ってる気がした。怯えるように震える肩。その頼りなく華奢な感触が……。
ずんと胸の奥で何か重たいものが沈んでいくようだった。
そっか、とようやく気づけた気がした。なんで、香月が怒っていたのか。なんで目の前で、香月が今にも泣きそうになりながら佇んでいるのか。それも、男の格好なんかして……。
俺が隣に座るのを躊躇ったとき……あのとき、香月は近づこうとしてくれたんだ。「触ってほしい」なんて言って体を張って、怯えながらも……俺たちの間に開いてしまった距離を縮めようとしてくれた。
それなのに。
それを……その震える肩を、俺は遠ざけてしまった。そういうのはもういい、て……自分でなんとかするから、なんて強がり言って。
慣れようとして欲しかった――その言葉が今になって重みをもって伸し掛かってくるようだった。胸が押しつぶされるような息苦しさに襲われて、思わず、「ごめん」と掠れた声が口から漏れ出ていた。
「そんなふうに思わせて……気づけなくてごめん」
ぐっと拳を握りしめ、俺はまっすぐに香月を見つめた。
「俺は別に、香月を遠ざけようとしてたわけじゃない。ただ、俺はもうお前に無理はさせたくなくて……だから、自分でなんとかしようと思ったんだ。こうして、合コンに来たのも、女性恐怖症さえ克服できたら、香月と気まずくなることもなくなるんじゃないか、て思って……女子と話す機会を作って慣れていこうと思ったからで……」
「へ」と香月はきょとんとして、惚けた声を漏らした。「つまり……」
「ああ、うん。つまり……今日の合コンは――」
そのとき、ちらりと脳裏をよぎったのは、またあの小憎たらしいしたり顔で……つい、苦笑してしまった。
「カ……カウンセリング……みたいな」
まさか、遊佐の言葉を引用する羽目になるとは。認めたくなかったが……改めて考えてみると、正鵠を得ていたというか。悪魔に魂でも差し出すような気分で答えると、香月は「でも」と疑るように俺の顔を覗き込んできた。
「絢瀬さんは……?」
「絢瀬? なんで、絢瀬……?」
「だって」と香月は居心地悪そうに視線を逸らし、「倉田くんに誘われたとき……『あのモデルの絢瀬セナも来るらしい』て聞いて、絶対、そういうことだと思ったから……」
「そういうこと……?」
なんだ? なんで急に絢瀬が出てくる?
ぽかんとしていると、香月は躊躇いがちに俺を見てきて、
「絢瀬さん狙いの合コンなのかな、て……」
「は……!?」
狙い、て……!?
って、そうだった、とそのときになって思い出す。そういえば、香月って、絢瀬のことを俺の初恋の相手だと思っているんだったっけ!?
「ち……違うぞ!?」ぐわっと一気に熱がこみ上げてきて、俺は慌てて声を上げていた。「だから……初恋とかじゃないからな!? スケーターとして尊敬してたんだ、て! てか、そもそも、絢瀬に合コンを持ちかけたのは遊佐だからな!?」
「じゃあ……」と香月は小首を傾げ、少しいじけたように唇を尖らせた。「なんで、絢瀬さんと同じ学校なのも隠してたの?」
「それは……この前、言おうとしたのに、お前が『初恋の相手だ』とか言い出すからだろ!? なんか……照れ臭くなって、言い出しづらくなったんだよ」
思わず、視線が泳ぐ。
いや……別に、何もやましいことなんてない。隠さず、言えばいいんだろうけど。つい、『ラブリデイ』の話題は避けてしまった。そういう趣味に香月は寛容だし、今さら引かれることもないのは分かっているんだが……やっぱ、言いづらい。さすがに俺でも、初恋相手(と思われている後輩)と恋愛シミュレーションゲームをやっているなんて、情けないというか恥ずかしいというか。
「じゃあ……」何やら考えるように黙り込んでから、香月はゆっくりと口を開いた。「本当に、合コンは女性恐怖症の克服のため?」
「ああ、そうだよ」
「私に……無理させないため?」
呟くようにそう言うと、香月は呆れたような、ホッとしたような、そんな憫笑を浮かべた。
「無理なんてしてないのに。全部、私が勝手にやってるだけだ、て……いつもちゃんとそう伝えてきたつもりだったんだけどな」
「え……?」
いつもって……。
何か言いたげな香月の眼差しに促されるように記憶を辿り、ハッとする。
ああ、そういえば――確かに、聞き覚えがある。
さらりと長めの前髪の下から覗く慈愛に満ちた眼差し。恥ずかしげもなく、優しげに笑むその唇。そうやって、なんの他意も感じさせない笑みを浮かべて、香月はいつも言っていた。小さい頃から、ずっとそうだ。俺が謝るたび、『陸太が謝ることじゃ無いよ。俺が勝手にやっただけだから』――て。
「私のためにがんばろうとしてくれたのは嬉しい。でも……そこまで思ってくれるなら――もう少し、私の話も聞いて?」
決して責めるわけでもなく、まるで甘えるような、そんな言い方だった。
涙がうっすらと残る瞳は不安げで、それでいて、その眼差しは熱っぽく。わずかに唇に浮かぶ笑みはぎこちなく寂しそうで。そうして微笑む彼女は、やけに儚く見えた。そして、怖くなるほど無防備に思えて……。
ぐっとこみ上げてくるものがあった。
なんなんだろう、これは。
明らかに、何かが違う。『親友』だったときには無かった何か……欲――みたいなものが胸の奥に蠢いているのを感じていた。
この前、一緒に出かけたとき……落ち着かないのは、香月の姿に見慣れていないからだ、て思った。髪を結って、ワンピースを着て、何やらふわふわとした香月の姿に見慣れてないから、落ち着かないんだと思った。いつか見慣れていけば、それもなくなるだろう、て思ってた。
でも、もうダメだ。たとえ、男の姿の――『親友』のときのままの『カヅキ』を前にしても、全然落ち着かない。それどころか、胸が苦しくなって息が詰まって……この前以上に心臓が激しく騒ぎ立てて鬱陶しいほどで。いても立ってもいられなくなる。
衝動、とでも呼べばいいのか。全身が熱くなって、今にも身体が動き出しそうになる。一歩、踏み出して、手を伸ばしたくなった。そうして、彼女に近づいて――抱きしめたい、と思ってしまった。
「香月――」
何かに突き動かされるように、ふらりと香月に近寄ろうとしたとき、
「そういえば」と、香月は思い出したようにハッとして、いたずらっぽく笑った。「さっき、腕、触れたね」




