第5話 治さないで
「だって」と香月は険しい表情で、疑るようにねめつけてきて、「陸太、逃げるでしょ」
「に……逃げねぇよ!」
「でも、この前だって、隣にも座ってくれなかった」
「この前って……」
聞くまでもなく、先週のアレ、だよな。
香月の部屋で二人きりになったとき、俺は香月との距離感がつかめずに隣にすんなりと座ることができなかった。それで香月に余計な心配かけて、不安にさせて――そういえば、そのときだ。こんなふうに俺との距離を詰めて、触って欲しい、て香月が迫ってきたのも。
「私……知らない人でも、もっと近くに座れる」
「えっ……」
嫌味っぽくぼそっと言った香月の言葉が胸に突き刺さる。
まじか。いや……確かに、そうかもしれない。俺も、知らないおっさんとでも、もっと近くに座れている気がする。――それくらい、不自然な距離を開け、俺は香月と並んで座って映画を観た。凄まじく気まずくなって、香月が喋らなくなったのもそれからで……。
もしかして、怒らせたのって……そのせいなのか? 俺がちゃんと隣に座れなかったから? でも、そのことはちゃんと香月に説明したはずなんだが……。
「あれは……だから、お前の部屋、初めてで、慣れてなかったから。どこに座ればいいか分からなかっただけだ……て、あのときも言わなかったか?」
「じゃあ、樹兄ちゃんの部屋だったら近くに座れたの?」
「いや……それは――」
すかさず切り返されて、答えに詰まった。
どうだったんだろう。まだ、いつもの樹さんの部屋だったら、緊張は少なかっただろうとは思う。でも、結局、同じだったよな。香月に、隣に座って、て言われたら、どれくらい近くに――てきっと俺は悩み出して、素直に傍に座ることなんてできなかった。
黙り込む俺に、「違うよね?」て、香月は責めるような、縋るような、そんな声で訊いてきた。
「部屋じゃないんだ。陸太が慣れてないのは『私』。だから、慣れて欲しい。ちゃんと慣れようとして欲しかった」
そこまで言うと、「それなのに――」と急に香月は声を落とした。
ぐっと堪えるようなその表情は、今にも泣き出しそうな子供みたいで。苛立ちを滲ませながらも、あくまで冷静に――そうやって、まるで仮面でも被るように気丈に振る舞っていたのが嘘のようだった。
さっきまでの威勢なんて煙となってその体から抜けていってしまったみたいに……。力無く肩を落とすと、おもむろに壁から手を離し――香月は俺から離れた。
ギラつくような眼光を放っていた瞳もすっかり翳り、もう俺を見てもいなかった。
「こんなことなら……私、男のままでいい」とひとりごちるように言って、香月は俯いた。「もう治さないで」
「治さないでって……」
威勢よく壁ドンしてきたかと思えば、いきなり沈み込んで……その感情の起伏についていけなかった。そうやって投げかけてくる言葉も、俺にはさっぱり意味が分からなくて……。
いや、だって。おかしいだろ。
俺はただ、香月と前みたいな関係に早く戻りたくて……香月との気まずい空気をなんとかしたくて、それで女性恐怖症を治そうと思って合コンに来たんだ。
なのに、男のままでいいから治さないでって――そんなこと香月に言われたら、どうすりゃいいんだよ。
呆然としていると、香月は「ごめんね」と諦めたようにため息ついて、顔を上げた。
どこからか、聞き覚えのある懐かしいアニソンが漏れ聞こえてきて、気が抜けるようなメロディーが辺りに流れていた。そんな中、じっと俺を見つめる香月の瞳は、あまりにもキラキラと輝いていて。うっかり、見惚れそうになる。それが涙だって分かっていても――。
「勝手なこと言ってるのは分かってる。でも……これ以上、遠ざけないで」
ごまかすように浮かべたその笑みは、あまりにもぎこちなくて。今にも崩れてしまいそうなほど、ひどく脆く見えた。




