第7話 距離感
結局のところ。何が怖かったかって……暗がりの中、臨場感あふれるサラウンド音響と大スクリーンで、生々しい濡れ場を香月の隣で拝むはめになったことだった。
気まずいなんてもんじゃない。拷問だ。
初めて、女の子と出かけて、なんでエロいシーンを静かに並んで鑑賞しなきゃいけないんだ。確かに、R15だったけど。ホラーだし、グロいんだろうな、なんて決めつけてしまった。
女郎蜘蛛の妖怪だとか言う美女が、男を喰うのかと思いきや、いきなり脱ぎ出して……そっち!? と思わずつっこみそうになった。
逃げられないのはスクリーン上の男だけじゃなくて、こっちもだ。恐怖心より羞恥心との根比べだよ。
『カヅキ』とだったら……多少の気まずさはあっても、あとで茶化して終わりだったんだろうが――なんてどうしようもないことを心の中でぼやきながら、ちらりと香月を横目で伺ってしまった。
スクリーンから溢れる光に照らされ、色鮮やかな陰影が落ちるその横顔は落ち着いていて、動揺のかけらもない。まるで芸術作品でも眺めているようだ。キラキラ輝くその瞳が、まさか濡れ場を映し出しているとは到底思えない。
そうして涼しげな香月の横顔を眺めていると、不思議と落ち着いてきて、あたりに響く嬌声が遠ざかっていくようだった。
変わらないよな、とぼんやり思う。小さかったときの――初めて見かけたときの面影は、確かにそこに残っていて……。そういえばあのときも、綺麗な顔してるな、て子供ながらに思って見惚れたんだっけ、と思い出した。
――と、呑気に現実逃避のごとく思い出に浸っていた、そのとき。
ふいに、スクリーンを見つめていた瞳がついと動いて、あ……と思ったときには、ばっちり目が合っていた。
あたりに響き渡った、断末魔の叫びのような男の悲鳴が……一瞬、自分のものかと思った。
今更遅いと思いつつ、動けないこの状況では視線を逸らすしか逃げる方法はない。俺は慌ててスクリーンへと視線を戻した。しかし、脳みそは大パニックで映画どころじゃないらしい。視線だけ向けて視ていないような……焦点が合っていないような……そんな感じだった。確かに、スクリーンで何かが動いているのは分かったが、モザイクを見つめている気分。美女の姿をした女郎蜘蛛よりも、なんだかよく分からない濡れ場よりも、隣からひしひしと感じる視線のほうが恐ろしくて……。
ゴツゴツとした冷たい石にでも座っている心地だった。今にも立ち上がって逃げ出したい衝動を押さえ込んでじっとしていると、ぎしっと隣で身動きする気配があって、
「3Dじゃなくてよかったね」
ふわりと柔らかな風が耳元を掠めていった――気がした。
え……と振り返ると、暗がりの中に煌めく瞳がすぐそこにあって、息が止まった。悲鳴なんだか雄叫びなんだか、阿鼻叫喚が響き渡る仄暗いシアターの中、香月は肘掛から少し身を乗り出すようにして俺に身体を寄せ、すぐそこで――まさに目と鼻の先で、クスッといたずらっぽく微笑んだ。スクリーンの淡い光がまるで月明かりのようにその笑みを照らして――見ている映画の影響もあるのかもしれないが――いつもよりずっと大人びて見えた。
呆然としている間に、香月は自分の席に座り直し、スクリーンへと顔を向き直していた。まるで、何事もなかったかのように――相変わらず涼しげな表情で飲み物のカップを手に取り、ストローを咥えるその唇を見つめて、思い出したように背筋がぞくりとする。なぜか、後ろめたい気持ちになって、慌てて俺も居住まいを正して、顔を前に向き直した。
今のって――と、考えるだけで、掠れた声とともに感じた息遣いが耳元に蘇ってきて、かあっと胸の奥が熱くなっていく。
いや……近っ!
思わず、叫んでしまいそうになるのを、肘掛に頬杖つくふりして口を塞いで抑えた。
今更ながらに心臓が騒ぎ出し、顔がみるみるうちに赤くなっていくのが自分で分かった。
十年――。
『カヅキ』が決して越えようとしてこなかったラインのようなものがあって。まさに、『一線を引かれている』ような感覚がずっとあった。それは目に見えない隔たりのようなもので……『拒絶』とは違う、『遠慮』に近いものだった気がする。今思えば、それは女だとバレるのを恐れた香月が警戒して俺と取っていた距離だったんだろう。
それを、香月はあっさり越えてきた。いとも簡単にひょいっと。初めからやり直そう、て仕切り直し、『男女』として初めて二人で出かけたその日に……。
『カヅキ』は肘掛を越えてくるようなことなんて絶対になくて、肘が当たることさえなかった。それに、俺は慣れていたから……だからこそ、余計に。肘掛越えて耳打ち――それが……その距離感が未知すぎて、どうしたらいいかも分からなかった。女の子の距離感とはそういうものなのか。それとも、香月独特の距離感なのか。それすらも分からん。さっぱり分からねぇけど……女子とまともに目線を合わせることさえ四年もしてこなかった俺には、いくらなんでも刺激が強すぎた。




