そして沈黙が流れる
「絶対に許さん!」
これ以上話を聞く気はないと、話を遮る怒声が部屋に響き渡る。怒声の主、伊佐美 謙三は血の気の引いた顔で拳を固く握り、肩を震わせていた。
「……父さん」
絶望的な表情を浮かべ、息子である伊佐美 隆俊は唇を噛んだ。
謙三には五つ年の離れた兄がいた。名を修一といい、謙三は幼い頃からいつもその後をついて歩いた。修一はその奔放な性格でいつも周囲を振り回していたが、何とも言えぬ愛嬌があり、不思議と他人から恨まれることがなかった。どんなことも器用にこなし、困難もひょうひょうと飛び越えていく修一とは対照的に、謙三は不器用で、努力を重ねて堅実に物事をこなしていく男だった。
「人間は自由だ。自由に、好きなことをすればいいのさ」
屈託なく笑う兄の姿に、謙三は漠然とした憧れを抱いて育った。
修一は十八になると、一通の置手紙を残して姿を消した。置手紙には一言、歌手になるとあり、具体的な行き先は何も書かれていない。家族は修一の行方を必死に探したが、結局、居場所を見つけることはできなかった。
誰にも何も告げずに消えた兄に、十三歳だった謙三は強くショックを受けた。兄にとって自分は、家族は、一体何だったのだろう。何のためらいもなく捨て去ることができるような、その程度のものだったのだろうか。兄のその行動は謙三の目に手ひどい裏切りと映り、そのわだかまりはやがて、憧れであったはずの兄への感情を嫌悪へと変質させていった。そして、月日は流れる。
兄の失踪から十年が経ち、謙三は社会人として地元の小さな会社で働いていた。決して器用ではない謙三は日々の仕事に追われ、兄のことなどもはや頭の片隅にさえ思い起こすことのない生活を送っていた。会社の同僚であった一歳年下の女性を妻に迎え、小さなアパートを借りて、贅沢はできなくても、ささやかな幸せを積み重ね、派手なことは何も起きなくても、小さな喜びを分かち合って生きた。そんなある日、謙三は思いもよらぬ報せを受け取ることになる。それは兄の、伊佐美修一の死を告げる、警察からの電話だった。
霊安室に横たわる修一の姿を謙三はぼんやりと見つめる。修一は上京し、ずっと東京で歌手活動をしていたようだ。もっとも生計を立てるには程遠い、ギターを片手に駅前で歌うだけの、趣味となんら変わらない『歌手活動』だった。アルバイトに明け暮れ、愚にもつかぬ夢を追って、その挙句に修一は死んだ。アルバイト先の居酒屋で客同士のケンカを仲裁しようとして殴られ、打ち所が悪くそのまま、という死に様。自由だと、好きなことをするのだと、そう言って家を出た男が迎えた結末は、そんなものだった。
「……満足か?」
謙三は記憶よりも老けた修一の顔に向かって、つぶやくように呼び掛ける。遺体はきれいに整えられており、血の気がない以外は眠っているようにも見えた。修一の顔は苦悶に歪むでも、後悔に苛まれるでもなく、わずかに微笑んでいる。「満足だ」と、そう言われた気がして、謙三は苛立たしげに叫んだ。
「勝手に出て行って、好きなように生きて、今度は死にましただと!? ふざけるな! あんたは逃げたんだよ! 日常から、生きることから夢に逃げたんだ! それで結局、何も成し遂げることもできずに死んだ! 自分の人生の責任を取らずに死んだんだ!」
お前に満足する資格はないと謙三の瞳が主張する。何より謙三を怒らしめたのは、修一にまだ幼い子供がいたことだった。もうすぐ二歳になる男の子。母親の所在は知れず、修一は父子の二人暮らしだったようだ。守るべき家族を持ちながら己の夢にこだわり、不安定な生活を続けていた修一の選択は、謙三にとって、もはや唾棄すべき責任放棄だった。しかしどれほどの怒りを込めてにらみつけようとも、死者は穏やかな微笑みのまま横たわるのみだ。謙三はやりきれない感情を飲み込むように奥歯を噛み締め、強く目を閉じだ。
謙三は周囲の反対を押し切り、修一の息子――隆俊を養子に迎え、育てることにした。それは謙三にとって復讐であり、己の正しさを確認するために必要な儀礼でもあった。夢だ自由だと、浮ついた幻を追う人生よりも、現実を見据え日々を誠実に生きることの方がはるかに価値がある。修一が成し遂げられなかった『隆俊の幸せ』を自分が成し遂げることで初めて、謙三は自らの生を肯定できるのだ。
隆俊は物怖じのしない子供で、謙三にも妻にもすぐに懐いた。両親の精一杯の愛情を受けて、隆俊は父母が本当の両親でないことを知らないまま、すくすくと成長していった。冒険心が強く、どこかひょうひょうとして、何でも器用にこなす隆俊の姿は、謙三の心をわずかにかき乱したが、それでも謙三は常に隆俊の幸せを願った。謙三は事あるごとに隆俊に対して堅実、誠実の大切さを説き、夢を見るな、現実を見つめよと教えた。隆俊は謙三の言葉をよく聞き、勉学に励んだ。隆俊は県下トップクラスの進学校に進み、周囲からの人望も厚く、謙三にとって自慢の息子となった。
ただ一つ気掛かりなことは、隆俊がギターを始めたことだった。アルバイトをして貯めた金でギターを買い、毎日少しずつ練習をしているようだった。それを見とがめた謙三に、隆俊は笑って言った。
「ただの趣味だよ。夢なんて見ちゃいない」
モテたいだけだと茶化す隆俊を、謙三は戸惑いと共に見つめた。隆俊の言う通り、今は趣味に留まっているようだ。成績を落とすわけでもなく、本当に空いた時間に楽しんでいるだけの姿を否定するわけにもいかず、謙三はくれぐれものめり込むなと釘を刺すに止めた。しかし隆俊は日を追うごとにギターの腕を上げていく。謙三は漠然とした不安を抱えながら、しかし何も言うことができずにいた。
隆俊は高校三年生になり、大学受験を終えて無事志望校に合格した。法学部を卒業し、企業の法務部門への就職を目指すと語る隆俊に、謙三は胸をなでおろした。やはりギターは隆俊にとって趣味に過ぎなかったのだ。自らの不安が杞憂だと分かり、謙三は長く深い安堵のため息を吐いた。これでようやく一つの区切りがつくのだ。夢など追わなくても、人は人を幸せにすることができる。隆俊の人生に道筋がつくことによって、謙三はやっと自らの人生の意味を確信することができるのだ。そう思っていた矢先、大学の入学手続きを明日に控えた夜、隆俊は神妙な顔をして謙三に告げた。
「音楽の道に進みたい」
と。
「話を聞いてくれ、父さん!」
食い下がるように声を上げる我が子に、しかし謙三は、駄々をこねる子供のように激しく首を振った。それでも隆俊は自分の、音楽への想いを語る。謙三は隆俊の言葉を断ち切るように叫んだ。
「なぜだ! 法律を学んで大企業に勤めると、そう言っていたじゃないか! 音楽は趣味で続ければいい! 音楽で身を立てることがどれほど大変なことか、お前は分かっていない!」
隆俊は鋭い眼で謙三をにらんだ。優しく、いつも両親を気遣っていた隆俊の、それは初めて親に向けた反抗の眼だった。
「ずっと、ずっと僕は、父さんの言うとおりに生きてきた。父さんを悲しませたくなくて、喜ばせたくて、でも、気付いたんだ! 僕には何もないってことに!」
抑えて、抑えつけてきたものを吐き出すように隆俊は叫ぶ。謙三は大きく目を見開き、呆然と隆俊を見つめた。謙三の表情を見た隆俊が一瞬、言葉に詰まる。しかし隆俊は決意を示すように言葉を続けた。
「音楽は、僕が見つけて、僕が選んだ初めてのものだ! ずっと流されるまま生きてきた僕が、カラッポの僕が、初めて自分で手に入れたんだ!」
謙三は隆俊の言葉に激しく動揺していた。確かにずっと、堅実に生きろ、夢など見るなと教えてきたが、だからといってこうしろ、ああしろと強制してきたつもりはない。大学に行き、法律を学ぶことも、本人の意志で決めたことだと、納得したことだと、そう思っていた。だが違ったのだ。隆俊はただ、自分を殺していたのだ。謙三を悲しませたくないと、その一心で。
「僕は音楽に救われた。音楽の力を実感したんだ。今度は僕が音楽で誰かを救いたい。申し訳ないけれど、父さん。父さんに反対されても、僕は僕の夢を追います」
ずっと、隆俊の幸せを願って育ててきたつもりだった。しかし今、大切な我が子は、まるで実父の影を追うように音楽の魔に魅せられている。堅実な道を捨て、転落の霧の中に身を投げ出そうとしている。それは謙三にとって、自らの人生の敗北を意味していた。無意味だったのだ。どれほど心を砕き、願い、道を整えたところで、夢という魔物は彼の大切な人をことごとく連れ去ってしまうのだ。
「この……この……っ!」
うつむいて顔を背け、世の理不尽をなじるように、謙三は大きな声で吐き捨てた。
「この、親知らずが!」
「……え?」
隆俊が意味を捉えかねたように少しだけ首を傾げた。はっとした表情を浮かべ、謙三は顔を上げる。二人は驚愕と共に見つめ合い、そして――
――そして、沈黙が流れる。