第1話 〜「始まり」について〜
「暗い夜だな」
夜空は黒い雲に覆われて、いつもは道を照らしてくれるはずの二つの月の光は、今は完全にどこかへ行ってしまっている。
せめて街灯でもあれば幾分か孤独さも紛れるのだけど、今僕が歩いているのは街から遠く離れた山の麓、人の気配が途絶えた世界の真っ只中だ。街灯なんてものがあるはずがない。
見渡す限り暗闇が広がるこの場所において、頼りになるのは腰に掛けられた魔光石の放つ青い光だけだ。
それさえも僕の周囲に木が立っている程度のことを一応確認させる程度の仕事をしているだけで、正直心許ない。
むしろ、この鈍く光る石の不気味な青い光が獣どもをおびき寄せるかもしれない......そんな危険性の方が大きいのではないかとすら思えてくる。
獣ごときに怪我を負う心配などは一切ないが、夜の神聖な森の中で不用意に力を暴発させたくはない。どうか誰にも気づかれることのないようにと祈りながら、僕は慎重に道無き道を進んでいった。
しばらく進んだと思うと、僕は右手をローブの内ポケットに入れて、あるものを取り出した。
それは十字の形に削られた結晶で、上下左右の方向に伸びている四つの棒のうち、一つだけが長くなっていた。
本来は濁りのかけらもない透明な色をしているが、今は魔光石の放つ青い光を身に受けて、青い姿を僕に見せていた。
その青い十字を、長い棒が僕の方を向くようにして手のひらに乗せて静止させる。
そして、手のひらへと軽く魔素を集中させた。
すると十字が内から白い輝きを放ち始めたかと思うと、少しだけ浮き上がり、若干左回りに動いて再び手のひらに着地した。それと同時に白い光も十字の中に消えていった。
僕は手のひらをもう一度覗き込んだ。先ほど僕の方を向いていた長い棒は、今はわずかに僕の体をそれるように左斜め下を向いていた。
この十字の結晶は言うなればコンパス、この長い棒が指す方向こそが北だ。
僕は南に向かって歩いているので、先ほどの十字結晶が動かずに長い棒を僕に向けたままであれば正解の歩き方をしていたことになる。
しかし、結晶が動いたということは、僕の歩き方が間違っていることを示されたのに他ならない。
誰も聞くものがいない森の中で深くため息をつき、僕は十字に示された正しい方向へと体を向け直し、再び足取りを進めていった。
本当に静かな夜だ。
獣の咆哮は先ほどから全く届いてこないし、風一つ吹かないせいで葉と葉の擦れる音も聞こえない。
空を見上げてもあるのは黒い塊だけ。雲のせいで星の輝きの欠片も見当たらない。
まるでこの世の全てのものが活動を停止してしまったかのようだ。
この森を抜け出てみると、そこにはもはや街なんて存在しておらず、荒廃した大地に僕一人だけが立ちすくんでいるなんてこともあるんじゃないか。
周囲から迫る闇が心に働きかけているのか、取り留めのない不安がふと僕の内に生じた。
その不安に焦りを感じたのか、はたまたそれを振り払おうとしたのか、どちらか定かではないが、ともかく僕の歩みは急に勢いを強めた。
それは早歩きを超えて、ほとんど走っているのに近かった。
音の無かった森に土を蹴る音を響かせ、夜の闇を割くようにして進み続けた。
僕はしばらく足を動くままにさせ続けた。
汗がフードの内に滴り、呼吸が乱れを生じ、背中と腰に掛けられた荷物が体とぶつかる音が聞こえてきた。
そんなことにも構わず僕は足を動かせ続けた。
しかし僕の足は突然に動きを止めた。
前を見てみると、地面が白く光っている。
僕は目を上へと向けた。
すると、そこには雲の隙間から輝きを見せる白い月の姿が広がっていた。
黒き雲はその割れ目をどんどんと広げていき、月はやがて、その丸い完全な姿を僕の前に披露した。
それまで辺りを支配していた闇は一気に何処かへ押しやられ、今や森は純白な輝きに包まれた。
僕の進むべき道も、遠くまではっきりと映っている。
一体僕は何を不安に思っていたのだろう。
どんなに暗いように見えても、月は必ずすぐそばに浮かんでいる。そしてそれは決して消滅することはない。
造物主は我々人間に光を絶えさせることのないようにと、あの美しい月を作り給われた。
昔、僕はこんな神話を父親から聞いたことがある。
それが本当かどうかは僕には分からないが、その言葉を思い出して僕の心は一気に軽くなった。
あの月は、不滅だ。そう感じて。
ポトッ
顔を伝った汗が顎から離れ、地面に生えていた草に当たって葉を揺らした。。
少し急ぎすぎたようだ。
先ほど方角を確認してからここまで、結構な距離を進んできた。
噂の村に着くにはもうしばらくかかるだろうし、ここで少しを体を休ませることにしよう。
僕は背中に背負い込んでいた包みを外し、そっと地面に置いた。腰につけていた小物類も全て取り外して傍に置く。
ローブ以外は何も身につけていない状態にすると、体を縛っていた鉄鎖が外されたかのような解放感に包まれた。
大きく腕を伸ばしてくつろぎ、そのまま地面に腰を落ち着ける。背もたれの代わりにそこに立っている木を使った。ちょうどいいもたれ具合だ。
その状態で、僕はしばらく物思いに耽った。
今日歩いてきた道から見えた光景の数々、道中で出会った人にかけられた言葉の一つ一つ、何者にも邪魔されることないこの場所で、僕は今日に体験した出来事の全てを振り返ってみた。
僕は何か新しいことを目にしたか、これまで知らなかったことを知ることができたか、今まで感じることのなかった気持ちをなにか感じたか。
自然の神秘と人間の営みに触れ、そこから学ぶべきことを引き出すこと。これが僕が旅をする目的で、これが僕の生まれながらにして課せられた使命であった。
その使命を果たすべく、今日の出来事の全てを頭の中から探って何かを掴み取ろうとする僕だったが、残念ながら今日は取り立てて気にかける出来事はなかったようだ。いくら考えても記述すべき内容が浮かんでこない。
強いて言えば、先ほど暗闇の中で感じた不安の感情であろうか。
それに自分なりの解釈を与えて記すとすれば......孤独から抜け出すには、すぐそばにあるものに注意を向けてみれば良い…という感じだろうか。
少し陳腐な感じもするが、後で宿を得たらそこで吟味して記録を取りまとめることにしよう。まあ考えた結果何も記すことがないとしてもそれはそれで構わない、そんな日だってある。
むしろ毎日のように衝撃的な経験に出会う世界はそれはそれでどうだろうか。きっと戦乱や災害に溢れた世界であればそんな刺激的な日々を味わうことになるんだろうが、果たしてそんな世界を歩きたいと思うだろうか。おそらくそんな余裕すら生まれないだろう。
何もない日が続くっていうのは、それはある意味で平和な世界を歩いているということでもあるのだ。それを恥じるには及ばないはずだ。
それに、そんな世界だからこそ、僕はこうやって旅をすることができるのだ。そうでなければ、今頃僕の”力”はろくな使われ方をされていないだろう。
……ただ、これから進む先にあるサークト王国はあまりいい噂を聞かない国だ。
これまでのような平坦な旅路と同じ気持ちで道を歩くことはできない、心を引き締めていかなければ。
僕は体を休める中で緩まっていた心身に、再び力を入れ直す。
「…そろそろ行こう」
僕は真っ直ぐに立ち上がり、傍に置いていた荷物を背中と腰に身につけ直した。
そして十字の棒が指していた方向に向かおうと、足を月光の照らす向こう側に足を投げかけた。
その瞬間、月の光の届かない暗闇、鬱蒼と茂る木々の奥深くの方から、突如として赤い閃光が煌めいた。
何かが光ったと思い森の奥に目を向けると、その閃光は急速に拡大してこちらへと広がってきた。
赤い光は月光を上塗りするように森中を包み込み、僕の体を通り過ぎた。
そして同時に、木々を揺らすほどに大きな音が耳に飛び込んできた。
その音は物体が発するようなありふれた音なんかじゃなかった。
まるで時空が引き裂かれて、そこからこの世ならざるものの震える音が発せられているかのようだった。
人智を超えた音を身に受けて、僕は体よりも、むしろ心に衝撃を受けた。
この音があまりにも異質なものだったから?
少しはそれもあったが、この音の大きさ自体にそれほど衝撃は感じなかった。
むしろ、僕が唖然とした理由は他にあった。
この音をかつて、僕は聞いたことがある。
今から10年以上も前、僕がまだ幼かった頃に、僕は目の前でこの光景と爆音に出会った。
何かを考える暇もなかった。
それまでの人生で味わってきたどの体験と比べても全く異質の現象を前にして、僕はただ呆然とするしかなかったのを今でも覚えている。
そんな僕の脳裏に焼き付いて離れない衝撃的な出来事が、今再び僕の目の前で起こった。
これは一体どういうことだ?
いや、待て。この現象が起こったということは、まさか…
かつて、あの現象が起こった直後に、僕の身に起きたことを考えると…これは………
ある考えが脳内を過ぎる。
直後、電撃が全身を走った。
僕は反射的に、全速力で足を動かした。
赤い光が発した方向へと、風を切るようにして走る、走る、走る。
先ほど辺りを包んでいた閃光は今や消え失せ、木々を揺らしていた爆音は彼方へと去ってしまっていた。
そんな静寂の夜の森を、一人僕は駆け抜ける。
この先に待ち構えているものを考えると、黙って立っている訳にはいかない。
もし僕の考えが正しいとすれば、あの閃光の源にあるもの、それは…
夜の寒さで固まった地面を蹴り続けてしばらく、僕の足は急に動きを止めた。
見渡す限り闇が広がるこの森、その森の中に一箇所だけポッカリと穴が空いてしまったかのように、目の前に突如小さな光の円が現れた。
その光の円は地面に横になって、周囲の闇を払うように輝いている。
その光の正体は、空から降り注ぐ月の光が地面に作り上げたものだった。
どうやら、円の周囲だけ木々の葉が空を覆っておらず、その下の地面は何物にも遮られることなく空から月の白い光を浴びられているようだ。
その柔らかい白光の蔓延した円の真ん中に、何かが倒れているのが見えた。
僕は黒に彩られた闇から抜けて、恐る恐る白い円の中へと入っていった。
二歩ほど進んだ時、円の中心で横になっているものの正体が朧げながら見えてきた。
僕はそれを目にしてハッと息を飲んだ。
僕の予感は正しかった。
それは、人間だった。
その姿が見えるや否や、僕は駆けるようにして倒れている人間へと接近した。
その人間の直近にたどり着いた時、僕の目は大きく見開かれた。
満月の輝きを全身に浴びて、人間はその姿をはっきりと僕に見せている。
この世界には存在しない衣装を見にまとった、若い女…おそらく僕と同年代だろう。
灰色と黒色の線の交差したスカートは、短く折られている。上半身には白い服がまとわれ、首と胸の中間には赤いリボンが小さくとめられている。
この世界に、こんな衣装を身にまとう民族など存在しない。
顔に目を向けると、この世界の人間とはうって変わり、堀が浅くあっさりとした顔立ち。
そして同じくこの世界では非常に珍しい黒色の髪を、首の辺りまで短くたなびかせている。
この世界に、こんな容貌を持つ民族など存在しない。
しかし、僕はこのような人間を知っている。
この女はこの世界の人間ではなく、別の世界からやってきた人間だ。
この衣装は、その世界において学校に通う女が身につける、言わば制服だ。
なぜそんな突拍子もないことを断言できるのか?
それは、僕がかつてその世界にいたことがあるからだ。
昔、僕があの赤い光に包まれた後に目を覚ますと、そこは全く見たこともない異世界だった。
その世界の中で、僕はこのような者を何人も見てきた。
間違いない、この女はかつて僕がいた異世界…”日本”からやってきたのだ。
しかし、一体なぜこんなことが?
なぜなんの前触れもなく、こんな訳の分からない現象が起きる?
かつて異世界に身を置いていた僕の前に、今度は異世界からやってきた女が現れるなんて、これは神が僕に何かをなさせそうとしてるのか?
それとも、ただの戯れにすぎないのか?
一体、これはどういうことだ。
考えても何もわからない。
なぜ異世界に住む彼女がこの世界へとやってきたのか。
なぜそれが僕の前で行われたのか。
これから僕は一体、何をするべきなのか。
僕は黙って彼女を見下ろした。
気を失った彼女は月光を受けて薄く輝いて眠っている。
まるで、今自分の身に起きていることなど何一つ知らないかのようだ。
穏やかな夜には全く似合わない異様な光景が、目の前に静かに広がっている。
僕はただ、その前に黙って立ち尽くしていることしかできなかった。